7-15 パーティー会場

〈アヒブドゥニア〉号の船長、もとい、退役軍人リコ・メリライネン大佐は、キリアノワ邸へと足を踏み入れた。

 流石は世界に名を轟かせる歌姫の屋敷。北の大地に聳え立つ堂々たる姿はもはや宮殿とも呼べる代物だ。直方体の建物に二階分の窓が整然と並び、中央部にはバルコニーが設けられている。特別な日にはそこで彼女が歌を披露することもあるらしい。広大な庭に響き渡る彼女の歌声が聞こえるような気がした。

 今夜のパーティーは盛大なものだった。ロータリーには入れ替わり立ち替わり馬車や自動車が横付けされ、社交界の花形たちが続々と降りてくる。屋敷の入口には逞しい体付きのガードマンが立ち、来場者の招待状を確認していた。

 会場となったホールは個人の邸宅とは思えないほど広々としている。沢山のウェイターが飲み物を配り歩き、用意された食事の数々は見た目も味も素晴らしい。着飾った招待客たちの装いも会場の華やかさに一役買っていて、弦楽四重奏が優雅に会場全体を一つの作品へと仕上げている。


 侍者の服装をしたアクバルを連れて会場の隅へ避難する。

 潜入はあっさりと成功したが、問題はこれからだ。ホストのツェツィーリアも会場のどこかにいるはずだが、大勢の人に囲まれて姿を見ることも叶わない。


「ナーヴィカパティ、大丈夫ですか」


 アクバルが心配そうに囁いた。


「眩暈がする」


 何しろ船上の生活とは掛け離れた世界だ。頭上で輝くのは太陽ではなくシャンデリアの一群で、彼らを飲み込むのは人の波。船長は気付け代わりにシャンパンを飲み干した。


「何かお持ちしましょうか?」

「いや、いい。もう暫く様子を見よう」


 そんなことを話していると、背後から聞き覚えのある声がした。


「やあ、大佐殿! あまり楽しめておられないようですな?」


 小柄な老紳士が愛想よく手を上げていた。


「ああ、ムッシュー――」

「ケインズですよ。今は宝石商をしております」


 ケインズは二人の眼差しに滲む警戒心は気にも留めず、愉快そうに笑っている。


「んふふ。無事に会場でお会いできてホッとしました。しかし、我らが歌姫は大人気ですなぁ。目通り叶うのはいつになるやら。ま、とりあえずパーティーを楽しむとしましょうか」


 胡散臭い宝石商は言うだけ言うと女性客の尻を追い掛けて人混みへと消えてしまった。


「……あの男は何者なのでしょうか」


 アクバルが呟く。船長は首を振った。


「関わりたくない輩だな」


 それからは来場者たちを眺めて過ごした。時折、彼の上着に輝く勲章の類に目を留めた者たちが話し掛けてきたが、大体は当たり障りのないやり取りで切り抜ける。本物の軍人など、会話を避けたい相手にはすべてアバヤ語で返答し、相手が間誤付いて逃げ去るよう仕向けていた。

 ツェツィーリア・キリアノワを取り巻く厚い人垣は薄れそうにない。一瞬その端正な横顔を目にすることができたくらいで、彼らのような社交界で無名の存在には近付くことも許されないようだった。

 仕方なくまた周囲の観察に勤しんでいると、人の波の中に頭一つ分突き出した影を見つけた――否、見つけてしまった。見間違いであってほしかった。


 船長の顔からサッと血の気が引く。

 まるで彼の驚愕に呼ばれたかのように、その人物は真っ直ぐにこちらへ歩いて来た。

 徐々にその顔が明らかになっていく。いや、顔など見なくてもその背格好や歩き方だけでわかっていた。意地悪く光る鉛色の瞳。逃がさないように正面に立ち塞がる。


「やあ、探しましたよ! こんな所においででしたか、メリライネン大佐」


 エアロンの営業スマイルが目の前にあった。船長は目を見開いたまま動けなかった。


「なぜ、ここに……」

「え? 何ですか? ここじゃ人が多くてよく聞こえないな。テラスに新鮮な空気でも吸いに行きましょうか?」


 エアロンは笑顔で船長の腕を取り、有無を言わせず連行した。

 テラスにもちらほら人がいた。煙草を燻らせる紳士たちや、如何にも人目を忍びたい様子の男女が互いに距離を取りながら涼しい夜気を楽しんでいる。


「……エアロン」


 他の集団から離れた場所に陣取るなり、船長は驚愕の滲んだ声で囁いた。


「なぜお前がここにいる? 一体どうやって――」


 青年は爽やかに微笑んでいる。


「そりゃあもちろん、コンラッド氏からの紹介ですよ。僕も社交界デビューしたいと常々願っていたんです。親交のあるメリライネン大佐もご出席なさると聞けば、これを逃す手はありませんからね。あ、帰りは家まで送ってくださいよ。家族があなたに会いたいと言っていましたので」


 船長は苛々と青年の腕を掴んだ。


「おい。そのわざとらしい口調をやめろ。不愉快だ」


 エアロンは真顔に戻るなり船長を睨んだ。


「あんたね、僕もアラストルもグウィードもミナギくんも、どれだけあんたのせいで迷惑被ったと思ってんの? 挙句、オリヴィエたちまで危険に晒して。勝手が過ぎると思わない?」

「……どういう意味だ?」


 船長の声に緊張が走る。エアロンはこれまでにあったことのすべてを話して聞かせた。


「オリヴィエが襲われた?」

「今はグウィードとミナギくんがあっちにいるから安心して。あんたを狙ってる奴らがいるんだってさ。追われる理由に心当たりは?」


 庭木に目をやり考える。しかし、彼にもこれだと思い当たるものはなかった。


「トードの件か……? だが、あれはもう随分と昔のことだ。マルコが新しく何かしでかした可能性もあるが――」

「あんたもメルジューヌに襲われたんでしょ? 国際なんとかの研究所じゃないの?」


 だが、船長は即答した。


「いや、それは考え難い。私に『ツェツィーリアに会え』と言ったのはあの娘だ」


 今度はエアロンが耳を疑う番だった。


「メルジューヌが?」

「ああ」

「ちょっと待ってよ。何考えてんの? あんた、あの子に腹裂かれたんでしょ? そんな目に遭っておいて、素直に彼女の言うこと聞こうと思うなんて、どうかしてる!」

「エアロン様、どうかお静かに」


 アクバルが周囲を警戒しながら嗜める。エアロンは苛々と頭を振った。


「他に彼女に何言われたの? この際だ、全部吐けよ。こんだけ皆に迷惑掛けたんだ、あんたに拒否権はないぞ」

「……拒否する。これは個人的な問題だ」

「個人的な問題、ね。あんたに個人なんて意識があったんだ?」


 二人は暫し無言で睨み合った。

 彼らの傍を男女が不審そうな目で通り過ぎて行く。ホールから漏れ聞こえてくる音楽がゆったりした曲調へ変わった頃、ついにエアロンが折れた。


「……あんたのそういう頑固なところ本当に嫌い。まあいいさ。どうせあんたみたいのが歌姫に近寄れるわけないんだ。ちょっとくらい僕も付き合ってあげるよ」

「不要だ。これは私の問題だ」

「何? 実はツェツィーリアの大ファンだったりした? 僕だって彼女に用がないわけじゃない。船長を見つけちゃったからもう取引に応じる必要なんかないけど、どうしてサイモン・ノヴェルが歌姫なんかに関心を持っているのか興味があるんだ」


 エアロンが踵を返す。肩越しに彼は言った。


「サイモンからも、メルジューヌからも、彼女の名前が出た。つまり、ツェツィーリア・キリアノワは国際協同科学技術研究所と何らかの関わりがあると考えていい――それだけ突き止めたら僕は帰るよ。あんたを引き摺ってね」


 船長は無言でその背中を見送っていた。いつもの厳めしい顔が更に険しくなっている。

 しかし、こうした場での身の振る舞いはエアロンがいた方が有利だと理性が告げていた。結局、彼は不快感を押し殺し、生意気な青年の後を追った。



***


 パーティー会場は一部をダンスフロアへと姿を変え、多くの参加者たちが音楽に身を委ねていた。リズムに合わせて揺れる婦人たちのドレスが観衆の目を楽しませる。

 ツェツィーリア・キリアノワにダンスを申し込む男は大勢いたが、彼女はすべて軽くあしらって談笑を続けていた。

 人垣が途切れ、漸くその麗しい全身像を見ることができた。すらりと長い肢体に鋭いグレーの瞳。前髪を切り揃えた短髪が彼女以上に似合う女性はこの世にいないだろう。着飾るドレスは細身の黒。豪華なファーがほっそりした首筋の白さを際立たせている。

 痩身で雪のような白さを持つにも関わらず、気高く気品に満ちたその姿は、極寒の大地を体現したような近寄り難さを纏っていた。

 エアロンですら話し掛けるのに気後れしてしまう。二人がどうしたものかと遠巻きに隙を伺っていると、歌姫を取り巻いていた男の一人がこちらに気付いて手招きした。


「ああ、メリライネン大佐! レディ・キリアノワ、ご紹介したい方がいるのです。どうぞ、こちらはリコ・メリライネン大佐です」


 なんと、それはケインズであった。

 他の取り巻きたちに睨まれながら、挙動不審気味の退役軍人とちゃっかり付いて来た青年が歌姫の前に立つ。ツェツィーリアは片手にケインズの名刺を持ったまま二人を迎え、関心のない冷えた一瞥を投げた。


「今宵はお招きいただき光栄です」


 リコ・メリライネンが歌姫の手を取る。ツェツィーリアは飾りだけの微笑で応えた。


「軍人さんでいらっしゃるのね。どこに勤めてらっしゃるの?」

「既に退役した身です。今は田舎でしがない余生を過ごすばかりです」


 歌姫の冬空色の瞳が海の青とぶつかる。

 その瞬間、彼女の目が僅かに開かれた。


「レディ・キリアノワ。エアロン・カンタールと申します。あなたにこうしてお目に掛かることができ、僕は今この上ない幸福を感じています」


 続いてエアロンが挨拶する。歌姫は彼のような図々しい若者には慣れているようで、蔑むような眼差しを隠そうともしなかった。対する若者もここぞとばかりに図々しさに磨きをかける。


「僕の父とメリライネン大佐は旧知の仲でしてね。父は投資家ですが、僕は跡を継ぐ気はありません。新聞記者になるつもりなんです。いつかあなたの素晴らしい名声を記事にしたいと夢見ています」

「記者の道は厚かましさだけでは切り拓けないことも多いのよ。どうぞお励みなさいな」


 カンタールは爽やかな笑顔で答えた。


「ありがとうございます! きっと記者としてあなたの前に舞い戻りますよ」


 ツェツィーリアはメリライネン大佐に目を戻した。


「あたくし、大戦でご活躍された軍人様方に最大の敬意を表したいと考えておりますの。さぞご立派な武勇伝をお持ちでしょう? 是非お話を伺いたいわ」


 しかし、大佐が答える前に、再び厚かましい御曹司が口を挟んだ。


「それは良い! きっと面白い話が聞けますよ。実は彼は極秘部隊に属していたのです。指揮を執っていたのは当時最新鋭の潜水艦で――」

「エアロン」


 大佐が短く制する。御曹司は「おっと失礼」と笑って見せた。

 ところが、ツェツィーリアは十分に好奇心を刺激されたようで、品定めするような眼差しで大佐の全身を見回し始めている。


「あら……それは随分興味深いお話だこと。詳しく聞かせてくださらない? こう見えてもあたくし、とても口が堅いのよ」


 今度はケインズが割り込んだ。棒立ちの大佐の腕を取り、媚びるように歌姫を見上げる。


「それなら彼も招待されては如何ですかな? ここだけの話、メリライネン大佐もあなたの美貌を飾る宝石をプレゼントしたいと言っていたのですよ――おやおや、大佐殿は昔風の慎ましいお方でしてね、面と向かってそんな話をされて照れておられる!」


 実際のところ、大佐は両脇の男たちの圧しの強さと厚かましさに閉口しているだけなのだが、二人から背中を抓られているので黙っていることにした。

 ツェツィーリアは手にした名刺をお付きの少年が持つ籠に入れ、執事らしき男を呼ばせた。


「名案ですわ、ケインズさん。メリライネン大佐、この後のご予定はおありかしら? あたくしはいつもパーティーの後、何名か興味深いエピソードを持つ方々にご滞在いただいておりますのよ。是非あなたにもうちにお泊りいただいて、ゆっくりお話を聞かせてくだされば嬉しいわ」

「大佐殿は喜んで参加されますよ。ねぇ、メリライネン大佐?」


 ケインズが大佐に口を開かせまいと捲し立てる。反対側ではカンタール青年が途方に暮れた顔をした。


「ええっ、それじゃあ大佐、僕はどうしたらいいんです? 家まで送ってくれる約束だったじゃありませんか!」


 ツェツィーリアは少々煩そうな顔をしたが、穏やかに微笑んだ。


「カンタールさんもご一緒すればいいわ。客室にはまだ余裕がありましてよ。ご都合が宜しければ、ですけど」


 カンタール青年は無邪気に喜ぶ。メリライネン大佐は深々と溜息を吐いた。


「無理なお願いを、かたじけない」

「よろしくてよ。同じ年頃の方もおられますから、お話が合うかもしれませんわ。では、部屋を用意させておきますので、パーティーが終わった後も会場にお残りくださいね」


 そう言って、歌姫は別の客を接待するために離れていった。

 彼女が見えない所に行った途端、船長が両側の二人を引き剥がす。


「……勝手に話を進めるな」

「いいじゃないですか! あなたの目的に貢献したんですぞ。もっと感謝してくださってもいいと思いますねぇ」


 ケインズがご機嫌で口髭を捩じる。エアロンも肩を竦めた。


「本当だよ。あんたが間誤付いてるから助け舟を出してあげたんじゃないか。えーっと、ところでミスター、なんでここにいるの?」


 二人の厚かましい男たちはそこで自己紹介を交わし、パーティーの終わりを待った。



***


 執事は三人をそれぞれの客室へ案内した。どの部屋も十分な広さと高価な調度品を備えており、唯一の窓は庭に面している。きっと朝になれば広大な庭園の全貌が見下ろせるのだろう。

 エアロンは早速隣室に遊びに行った。手には長い包みを携えている。


「メリライネン大佐、入りますよ」


 侍者役のアクバルが黙って彼を部屋に通した。入室するなり、エアロンは隅々まで部屋をチェックする。困惑気味に立ち尽くす船長の前に小さな機械を見せつけ、ハンカチで包んで鉄の箱に入れた。


「それはなんだ?」

「盗聴器だよ」


 さらに船長の上着を脱がせ、衣類も隈なく調べる。さすがに服からは何もでなかった。


「敵陣に乗り込んでるんだから、これくらいの警戒はしなきゃ。はい、これお土産」


 長い包みを放って寄越す。

 中身は見ずとも重さだけでわかる。愛用の長剣だ。


「ミナギくんからだよ。忘れ物だって」

「できれば使わないで済ませたいが……恩に着る」


 船長は慈しむように表面を撫でたのち、それをベッドの脇に隠した。

 続いてエアロンはアクバルに向き直る。


「アクバルは元気だった?」


 イエニチェリは恭しく頭を下げた。


「はい。エアロン様の数々のご配慮、深く感謝しております」

「それはいいんだけどね、誰にも言わずこういうことをされるのは困るよ」

「申し訳ございません。我が主ナーヴィカパティのご指示でしたので」


 エアロンは心底嫌そうな顔で船長を振り返った。


「……なんであんたの部下ってみんなこんな奴ばっかりなの?」

「知らん」


 三人は互いの身に起きた出来事の報告や、ここでの設定などについて再確認した。その後、話題は正体不明の協力者へと移る。


「こんなにすぐに出て来るなんて、なかなかやるじゃないか、あのじいさん。確かにアーヴィンドも言ってたよ――奴がテロや戦争に加担しているのは明らかだが、いつも検挙できる証拠が掴めないって」

「ただの詐欺師とは言えなそうだな」

「うん。あの手の輩が見返りも求めず協力してくれるわけがないし、あのじいさんには気を付けておいた方がいいと思うよ」

「そうだな」


 三人は改めてキリアノワ邸で過ごす三日間についての決意を固めた。


「決して正体がバレないように。僕らは御曹司と、退役軍人と、その侍者だ」


 エアロンが念を押す。船長とアクバルは頷き返した。


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