7-14 華子とアラストル

 自宅の前で拾った奇妙な男たちがいなくなってから、華子は少しばかりの寂しさを感じていた。

 結局彼らの素性はわからなかったが、一応はいい人たちだったし、彼らの逃亡劇を助ける過程でラボのメンバーと話すきっかけもできた。ゼラルディンとは個人的にやりとりをするようにもなり、単調で孤独な彼女の毎日はほんの少しだけマシになったように思える。


「船長さんたち、無事にツェツィーリアに会えたかなぁ」


 そう独り言ちながら、普段は買わない新聞などを買ってきてしまった。

 社交欄に目を通す。もうすぐツェツィーリア・キリアノワは舞台の千秋楽を迎えるそうで、その前に自宅で社交パーティーを開くらしい。最終公演に向けた宣伝ということだろうか。次の舞台へのスポンサーを探すためだろうか。

 どのみち華子には縁遠い世界。社交界なんて紙面の中だけの話だと思っている。


 あの二人は何者だったのだろう。貿易船の船長と名乗っていたが、船長の容姿は華子がイメージする船乗りのそれとは掛け離れていた。

 それに、あの連れだ。アクバルは華子が見たことのない人種に思えた。言葉も聞いたことがなく、服装も特徴的だった。

 世界は自分が思っているより広いんだなぁ、などと。垣間見た遠い世界へ想いを馳せる。

 紙面にはアバヤ帝国開国のニュースが大々的に取り上げられていた。聞いたことのない国だ。そこに描かれたイメージ画は華やかで、そう言えばアクバルの服装はこんな風だった、と再び懐かしさが込み上げた。


 もっと話を聞けばよかった。

 無事に用を済ませたら、約束通り連絡をくれるだろうか。その時はいっぱい聞かせてもらおう。祖国の話、船の話、ツェツィーリアとどんな話をしたのか。本当の名前はなんていうのか。


 今までより広く感じる部屋で感傷に浸っていると、廊下で人の気配がした。無意識に耳をそばだてる。それがゴム草履の足音だと気付き、華子はビクリと身を震わせた。

 隣室のアラストルが帰ってきた。

 早い。船長たちが出て行ってから三日しか経っていない。捜索は諦めたのだろうか。まさか、彼らはもう見つかってしまったのか?


 こっそり玄関扉に耳を付けてみる。

 ところが、足音は唐突に途絶えていた。部屋に入った物音は聞こえなかったのに。

 好奇心に駆られ、扉を細く開けてみた。

 眼前にジーンズの長い脚。


「えっ?」


 状況を理解する前に、ゴム草履が扉の隙間を抉じ開けた。


「うわわっ」


 扉に押されて転がる華子。尻餅をついた彼女の上に長身の影が落ちた。


「よお、嬢ちゃん」


 濁った瞳がねめつけるように彼女を見る。その瞳に浮かんだ狂気に、背筋をヒヤリとしたものが這い下りた。


「あ、あれ、アラストルさん……」

「あ? なんでてめぇが俺をアラストルと呼ぶんだ?」

「あっ」


 慌てて口を噤んでももう遅い。アラストルは華子に目線を合わせてしゃがみ込み、彼女の黒髪を掻き上げた。


「誰にその名を聞いたんだ、あぁ――?」

「ひっ。ええっと、前に教えてもらったじゃないですかぁ? 忘れちゃったなんて酷いですぅ」


 アラストルの指が華子の耳に触れる。華子は小さく悲鳴を上げた。

 耳朶に感じる爪の硬さ。耳を引き千切られる痛みを想像し、体が勝手にビクリと跳ねた。


「思い出せないか? 手伝ってやろうか」

「ひいぃ! い、言います! 言いますから許してぇっ」

「よーし、いい子だ。リヴを逃がしたのはてめぇか?」


 アラストルは顔を歪めた。一見笑顔にも見えるけれど、そこに男の感情など読み取れはしない。彼は耳朶から手を放したが、相変わらず髪を指に絡ませて弄んだまま。


 船長さん、ごめんなさい。

 心の中で呟いた。


「せ、船長さんに会いました……」

「青っぽい髪の仏頂面の男だな? 他に連れは?」

「えっと、アクバルさんが――船長さんの僕の人が一緒です。助けに来たんです」


 華子はアラストルに促されるまま、二人を家に匿ってから洗濯屋の荷台に乗せて逃がすまでの出来事を告白した。

 終始甘ったるい煙の臭いが彼女を捕らえて放さなかった。チラチラと玄関扉に目をやるも、男は逃げ道を塞ぐように陣取っているのだ。


「なるほどねぇ――……」


 すべての話を聞き終えてアラストルが立ち上がる。


「灯台下暗しってぇのはこういうのを言うんだな。てめぇの国の諺だろ?」

「あっ、はい。よくご存じですね」


 アラストルが手を差し伸べる。安堵した華子がその手を取った瞬間、彼女の体は宙に浮き、玄関扉へと強く押し付けられていた。


「ううっ……ちょ、ちょっと! 下ろしてくださいっ」

「肝心なことをゲロってねぇんだよ……あいつぁどこに行った? 行き先を聞いてんだろ?」

「し、知りません! そんなの、あっ、あっ、アタシに教えてくれるわけないじゃないですかぁ!」


 男の手が顎を掴み、乱暴に口を抉じ開けた。視界が埋まるほど間近に彼の顔が迫り、噛み付くように歯を鳴らす。アラストルがふーっと息を吐くと、煙草臭い吐息がそのまま華子の口内へ流れ込んだ。


「……で?」


 煙臭さで噎せてしまう。

 華子は自分が涙ぐむのを感じた。初めて感じる男の熱が、華子には酷く惨めだった。

 隣人に対して抱いていた愉快な妄想が馬鹿みたい。今、その身を以て苦い現実を味わっている。


 ああ、そういう人なんだ。

 船長さんが酷い仕打ちをされるのは初めてじゃないと言っていたけど、確かにそれは本当なんだろう。

 このまま黙っていたら、自分も何か酷いことをされるのだろうか。

 それはとても痛かったり、苦しかったりするのだろうか。


 ――でも。


 華子は涙を堪えて前を向く。しっかりと男の目を覗き込んだ。


 船長さんはそれでもこの人を信頼しているようだった。やり方はとても酷かったけれど、それは船長さんの身を案じてのことだったと言っていた。


「――アラストルさんは、船長さんを見つけてどうしたいんですか」


 気が付けば、震える声が漏れていた。

 男の顔が僅かに遠のく。ほんの微かな変化であったが、それでも彼が意外そうに眼を見開いたような気がした。


「知ってどうする?」

「それを聞いて判断します」

「急に生意気になったじゃねぇか――嬢ちゃんよ、状況を理解するんだな。俺はてめぇを殺すことも、犯すことも、薬漬けにして売り飛ばすこともできるんだぜ?」


 華子は臆せず見つめ返した。


「アタシ、船長さんを誠実な人だろうと思いました。だから、彼が困っているなら助けたいと思ったし、彼の目的を果たさせてあげたいと思いました――でも、気が変わりました。船長さんの目的と船長さんの命を天秤に掛けるなら、アタシにとっては命を守る方が大事です」


 アラストルはじっと華子の顔を見た。

 それまでも二人は顔を突き合わせていたけれど、今初めて男の瞳に自分の存在が映った、と華子は気付いた。そして同時に華子の中でも、この男を自分と同じ人間でしかないと認識した瞬間だった。


「……連れ戻す」


 アラストルが口を開く。


「リヴはな……あいつぁ自分が知らねぇだけで、この世の色んな下種野郎どもから存在を疎まれてんだよ。これまでは好き勝手やらせてきたが、あいつの生存がバレちまった以上、もう奴は追われる身だ。こうなったらもう自由にさせてはおけねぇのさ――」


 華子は囁いた。


「アラストルさんは、船長さんを守りたいの?」

「できるものなら殺したい」

「えっ」

「――だが、俺にリヴを生かし続けろと命じる奴がいるんだよ」


 そう言うアラストルの目は狂人のソレではなくなっており、拗ねたような、諦めたような響きがあった。


「このままだと船長さんは危ないの?」

「まあそうだな」

「……わかりました」


 華子は抵抗する手を放した。それを見てアラストルも彼女を下ろす。相変わらず扉は押さえられたままだったが、華子はやっと息をすることを許された。


「船長さんは、ツェツィーリア・キリアノワの屋敷に行ったはずです。どうやって彼女に会うのかはわかりませんが、彼女に会って聞きたいことがあるのだと言っていました」


 アラストルの眉がピクリと動く。それ以外の動きはなかったが、その一瞬に考えを巡らせたようだった。華子から体を離し、煙草を咥えて火を点ける。新しい煙草の煙が二人の肺を侵略した。


「あー……キリアノワ、ねぇ。あの小娘が何か言いやがったか……?」


 華子は黙って男を見上げていた。角ばった顎越しに狂った瞳がこちらを向く。思わず「ひっ」と声を漏らしてしまったが、アラストルはボリボリと頭を掻いただけだった。


「嬢ちゃんよ、怖がらせて悪かったな」

「え。ああ、いえ……」


 呆けたままの華子の口に、アラストルが新しい煙草を突っ込んだ。咄嗟にそれを咥えてしまい、慌てる彼女に長身が覆い被さる。

 粗暴な男には似合わない繊細さで、煙草の先が触れ合って。

 柔らかな煙の味が彼女の中へ滑り込んできた。


「じゃあな。それは礼だ」


 アラストルは華子を横に押し遣ると、煙草を燻らせながら出て行った。

 ズルズルと座り込む華子。恐怖と緊張から解放され、呆然と壁紙を見つめていた。

 初めて吸った煙草の味は、少しだけ甘いかもしれない。



***


 エアロンは酷く憂鬱だった。

 タチアナに連絡なんてするんじゃなかった。

 彼女が直接関わってくることはほぼなかったけれど、それでも彼らを荒廃した世界から救い出してくれた女神は、いつまでも彼らのボスとして君臨している。流石に報告は怠れない、と連絡を入れたエアロンに、タチアナ・ノヴェルは最悪の言伝を預かっていたのだった。


 本当に、最悪だ。

 仲の悪い航海士と行動を共にしているだけでも気が滅入るというのに、加えて破壊神まで彼に用があると言う。トラウマがチクチクと肺を刺す。もう克服したと言いたいけれど、本能に植え付けられたものはそう簡単に取り除かれない。

 エアロンは深々と溜息を吐き、ホテルのフロントへ向かった。


「僕に来客があったら、ラウンジにいるから通してくれる?」


 フロント係は丁寧に腰を折った。


「承知いたしました。その方のお名前や、お姿などはお分かりですか」

「えっとね、背が高くて、黒髪で編み込みをしていて、一目でジャンキーだってわかるようなチンピラ風の男がいたら――」


 突然、フロント係が真顔になった。その視線はエアロンを通り越した背後を見ている。


「え? なに、どうしたの――」


 背後から何者かにベストのベルト部分をガシッと捕まれ、エアロンは驚いて悲鳴を上げた。乱暴に引き寄せられ、仰け反った耳元に黒髪が触れる。


「でけぇ声出してんじゃねぇぞ、小僧。うるせぇんだよ――……」

「あ、あ、あ、アラストル……っ」


 ふーっと煙を吐きかけられてエアロンは激しく噎せ返る。アラストルは馬鹿にしたように鼻で笑うと、エアロンの肩を抱いてラウンジへと連行した。


「ったく、毎度毎度ビビりやがって……大袈裟なんだよ、てめぇは」


 エアロンは振り解こうと抵抗するが、相手の方が力が強くて敵わない。ホテルの客たちが不審そうに彼らを見ていた。


「毎度毎度こういうことするからだろ! 煙たいから離れてくれる?」

「恩師に向かって大層な口利くじゃねぇか。流石副主任様はお偉いねぇ」

「あんたに教わったのは僕じゃないし。僕はあんたから虐待しか受けた覚えないね」

「あー……あれは愛のある教育だっつってんだろ。誰のお陰でまともに飯食えるようになったと思ってんだ、あ?」


 アラストルが凄みを利かせる。エアロンは情けない声を漏らした。


「あっ、それやめて抓らないで。いてっ、痛いってば!」


 ラウンジの一角では航海士ミナギが大人しく座っていた。連れがフロントに行ったと思えば、悪漢に絡まれながら戻って来たのだから呆れてしまう。彼は常日頃から抱いている嫌悪を前面に押し出して二人を迎えた。


「他の客に迷惑です。静かにしてください」

「よう、真面目鏡。てめぇがいるたぁ意外だな」

「こんにちは、アラストル」


 三人は人目を憚って席を移動した。

 アラストルが無遠慮に煙草を吹かす。


「喜びな。あの野郎の居場所がわかったぜ」

「えっ、船長が?」


 思わずミナギが尻を浮かす。アラストルは顎をしゃくって座らせた。


「ツェツィーリア・キリアノワの屋敷へ向かったらしい」

「なんだって?」


 今度はエアロンが飛び上がる。アラストルは再度顎で彼を座らせた。


「目的は知らねぇが、何やら歌姫に聞きたいことがあるんだとよ」

「何それ、偶然の一致? ――なわけないし、サイモンは船長の行き先を知っていたのか?」

「あ? あのろくでなしがなんだって?」


 エアロンはサイモン・ノヴェルとの取引を話した。アラストルは目を細めて耳を傾け、ぼそりと小さく呟いた。


「……あの野郎、嗅ぎ付けやがったな」

「え? なに?」

「なんでもねぇよ。ってこたぁ、てめぇもキリアノワの屋敷に行くってことでいいんだな?」

「不本意ながらね」


 エアロンは心底嫌そうである。


「そりゃあよかった。丁度いい。リヴの野郎を連れ戻してこい」

「それはいいけど……でもさ、船長が本当にツェツィーリアになんて会えると思う? あのおっさんじゃ侵入も潜入もできないでしょ」


 アラストルは「あー」と無駄な声を上げた。


「それについてはアシがついてる。『変装屋』が仕事を受けたらしい。軍人に化けて今度のパーティーに潜り込むつもりなんだとよ」

「ええ、意外。船長にもそこまでする行動力があったんだ」


 ミナギも同じような反応である。アラストルはポケットから折れたショップカードを差し出した。


「そいつにてめぇのことも頼んどいた。コンラッドって野郎だ。そいつに会いな」


 受け取ったエアロンは裏面の住所を確認した。ピンクに黒という派手なデザインが彼の美意識には合わず、なんとなく嫌な予感がした。


「変装屋って、変装するのに必要な一式を揃えてくれるんだっけ。いくらぐらい取るの?」

「今回は金は要らねぇとよ。話はつけてある」

「えっ。なんで? 脅したの?」

「人聞きの悪い奴だな。ちょいとヒイヒイ言わせてやっただけさ」


 エアロンは聞かなかったことにした。


「んで? 真面目鏡も同行すんのか?」


 アラストルがミナギの方へ向き直る。


「そうしたいのは山々ですが――」

「ミナギくんにはナポリに行ってもらうつもり。あっちに今グウィードがいるから、交代してもらってあいつに一緒に来てもらうんだ」

「へぇ。眼鏡はそれでいいのか?」

「仕方ないですから。こういうことはグウィードの方が得意だし、ナポリの方を放っておくわけにもいかないんで」


 そう言うミナギの表情は暗い。本心は船長を助けに行きたいのだろうが、自分では役に立てないことがわかっている。この件については既にエアロンと口論済みであり、ミナギも渋々承知していた。


「ナポリでもなんかあったのか。面倒くせぇな……」


 エアロンがナポリの一件についても説明する。アラストルは終始怠そうに天井を見ながら煙を吐いていた。


「どこまでも面倒かけさせる野郎だな、リヴってのはよぉ――……小僧、キリアノワんとこにはてめぇ一人で行け。場合によっちゃあワン公は借りるぜ」

「なんでさ。それは僕も困るんだけど」

「手が足りねぇんだよ。文句は後でリヴに言うんだな」


 そう吐き捨ててアラストルは行ってしまった。

 その日のうちにミナギもナポリへと発ち、エアロンは変装屋コンラッドの所へ向かう。そこで予感通り嫌な目に遭ったようだが、彼はその話を誰にもしたがらなかった。



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