7-13 ナポリに迫る魔の手

 ナポリはすっかり夏だった。

 ビーチにはパラソルが咲き乱れ、海岸沿いには肩を寄せ合う恋人たちが街路樹のように並んでいる。どの店もテラスは満席だ。よく冷えたビールやワインが飛ぶように売れ、果物の屋台も氷を陳列に使い始めた。

 空も人も、何もかもが鮮やかな色彩を帯びる夏。それでもなお黒尽くめで暑苦しさを振り撒いているグウィードは、リュセとルチアを連れて街を歩いていた。各々の手には冷たい飲み物やジェラートが握られ、額には汗が滲んでいる。


「本当にこんなんで喜ぶのかぁ?」


 グウィードは腕に紙袋をいくつも提げている。傍目には荷物持ちだが、実際には彼は財布も兼ねていた。


「知らないわよ。あたしは『女性への贈り物を教えてほしい』って言われただけだもん」


 リュゼッタはそう言いながら、ちゃっかり買わせた自分用のブレスレットを嬉しそうに眺めている。グウィードは狐に摘ままれたような顔をした。


「えっ? これで喜ばないかもしれないのか?」

「そんなの知らないってば! ヴィズさんのことはグウィードの方がよく知ってるはずでしょ」

「知らないからお前に訊いたのに!」

「なんだって個人の好みがあるじゃん。だから、一般論を教えてあげたの。そんな顔しなくても大丈夫よ。程よく重たくなくて、良くも悪くも無難な物を選んどいてあげたから」


 随分高くついた、とグウィードは溜息を漏らす。

 彼自身は食費以外に殆ど金を使わないから、蓄えはそれなりにあるのだが、当面の収入源が確保されていない身の上である。貴婦人をターゲットにした華やかな品々は決して安い値段ではない。

 そんな彼の懐事情を知ってか知らずか、リュセはどこまでも他人事だ。


「大事なのは気持ちって言うじゃない。一度ダメでも次を頑張りましょ」

「ダメな前提で話をするなよ……おい、ルチア。服に垂れるから気を付けろよ」


 ルチアはご機嫌だ。このところ寂しさから塞ぎ込んでいた少女も、グウィードたちが来たことで少し気が紛れているらしい。


「ヴィズお姉ちゃんは何をしてた人なの?」


 ジェラートのスプーンを咥えたルチアが振り返る。


「車の運転手……だったんだけど。それを思い出させるような物はあげられないしなぁ」


 三人はオリヴィエの店がある通りに差し掛かった。アンティークショップ〈サンタ・ディ・ルーチェ〉は相変わらず気品のある佇まいで通行人の目を惹き付けている。雑多な街並みの中で、その店のボトルグリーンだけが夏に惑わされず落ち着きを保っていた。


「あたしはおばあちゃんの店に寄ってから行くわね。二人はどうする?」

「うーん、この荷物じゃ店に入れなそうだからな。先にフォンダート邸に戻ってるよ。ルチアもそれでいいか?」

「うん」


 リュセは店の方へ向かった。グウィードとルチアはそのまま店を通り過ぎる。


「しっかし暑いな……馬車乗るか? 家まで歩いたら干乾びちまう」

「わあ、いいの?」

「おう。馬車好きなのか?」

「あんまり乗ったことないの。お馬さんは好きだよ」


 ところが、二人は鋭い悲鳴で呼び止められた。


「助けて! グウィード!」


 グウィードは瞬時に反応した。ルチアと荷物を路駐された車の陰に隠す。


「ここにいろ。すぐに戻るから」


 ルチアは素直に頷いた。

 弾丸のように取って返す。

 前方、〈サンタ・ディ・ルーチェ〉の店の前で一騒動起きていた。男がリュセを羽交い締めにし、騒がれないよう無理矢理口を塞いでいる。相手は一人ではなく、もう一人別の男が店内へ入って行った。


「てめえ! 何してやがる!」


 グウィードが拳を振り上げる。

 相手はリュセに気を取られて彼の参戦に対応できなかった。咄嗟に避けようとするも間に合わず、頬を強打されて派手によろめく。その隙にリュセは男の腕から逃げ出して路上に膝をついた。


「リュセ、離れてろ!」


 彼女はもつれる足で立ち上がり、助けを呼びに走り去った。

 グウィードは殴り掛かってくる男の拳を躱し、易々と組み伏せた。地面に頭を打ち付けて気絶させる。それからすぐに店内へ飛び込んだ。

 骨董品が溢れ返る狭い店内では、カウンター越しに男とマダム・オリヴィエが対峙していた。男は刃物を持っており、それを突き付けて脅している。

 男はグウィードが入って来たことに気付くと、老婦人の髪を掴んでカウンターに押さえ付けた。


「動くな! 近付いたらババアが怪我するぞ」

「私のことは気にすんじゃないよ、やっちまいな!」

「うるせぇ! 強情なババアめ!」


 刃物がオリヴィエの頬に添えられる。グウィードは相手を睨み付けた。


「何だお前? 強盗か?」

「ちょいと質問してただけさ。貴様こそ何モンだ? カタギじゃねえな」

「ただの用心棒だ。彼女を放せ。仲間なら先にノビてるぞ」

「あぁ? 用心棒がいるなんて聞いてな――」


 グウィードは男に最後まで言わせなかった。

 腰を低くし、目にも留まらぬ速さで突進する。不意を突かれた男はカウンターに強か背中を打ち、衝撃で小物がバラバラと床に落ちた。

 ウッと息を詰まらせた男に反撃の隙は与えない。鳩尾に拳を埋めると、男は呆気なく気を失った。


「大丈夫か、オリヴィエ」


 オリヴィエは弾みで胸を打ったらしく、酷く咳き込んでいた。頬に浅い切り傷ができている。


「ゴホッ……ありがとうね、グウィード。助かったよ」

「悪い。怪我させちまったな」

「こんなもの大したことないさ。それより、リュゼッタは――」


 ちょうど孫娘が警官を連れて戻ってきた。暴漢たちはそのまま警官に連行された。


「ご無事ですか、シニョーラ。強盗ですか?」

「何かされる前に彼が助けてくれたから大丈夫だよ。嗚呼、よかった、リュゼッタ――」


 グウィードはその場をオリヴィエに任せ、ルチアを迎えに走った。言われた通り身を隠している彼女を発見して胸を撫で下ろす。

 二人が店に戻るのと入れ違いで警官たちが引き上げていった。


「グウィード」


 オリヴィエが神妙な顔で彼を呼ぶ。リュセが頬の傷を消毒していた。


「あいつらにね、リヴの居場所を聞かれたんだよ。私ゃただの取引先の一つでしかないし、もう何ヶ月も音沙汰ないって言ってやったけどね」

「そうだったのか……危ない目に遭わせて悪かった」

「あの子も私の身内さ、あんたが気負うことじゃないよ」


 そう逞しく笑い飛ばすが、次の質問をするオリヴィエには不安の影が見えた。


「リヴは一体今どこで何をやってるんだい? 〈アヒブドゥニア〉の誰も連絡を寄越さないんだよ。まさかリヴに何かあったんじゃ……?」


 グウィードは返答に詰まった。それをオリヴィエは見逃さない。しかし、ルチアやリュセの手前、それ以上の追及はしなかった。


「……まあいいさ。リヴに連絡がついたら、こっちに謝罪の一言くらい寄越しなと伝えておいておくれ。あの子には一言言ってやらなきゃ気が済まないからね」

「わかった」


 グウィードは眉を吊り上げた。


「なんか、あのおっさんが『あの子』呼ばわりされてるのを聞くと変な感じだな」

「ふん。あんなの私から見りゃ、まだまだ青二才のひよっこさ。いつも心配ばっかり掛けて、本当に困った子だよ……」

 


***


「――ということがあったんだよ」


 グウィードは受話器に向かって締め括った。

 電話の相手は自分の用件もそこそこに捲し立てられたことに不満げであったが、話を聞くと態度を改めた。


『結局、そいつらはどこの手先だったんだ?』


 エアロンが訊ねる。


「わからない。取り調べでも吐かなかった――というか、人づてに頼まれたらしく、あいつらも本当の雇い主を知らないんだそうだ」

『お前の所感では?』

「本当だと思う。なんの手応えもなかったし、単なるチンピラだった」

『ふーん。船長の行方を追ってるとしたら……メルジューヌ、アラストル、サイモンも可能性はあるな。他に誰か思い付く?』

「マフィア関連とか? ルチアの件で昔いざこざしたんだろ?」

『挙げたらキリがないかも。なんだかんだ敵が多いんだなぁ、あのおっさん』


 エアロンがケラケラと笑う。グウィードは不安げに受話器を持ち替えた。


「で、どうする?」

『あーあ。グウィードはこっちに欲しかったんだけどなぁ……仕方ない。マダム・オリヴィエは〈アヒブドゥニア〉の大事な協力者だもん。僕らのせいで危険な目に遭わせるわけにはいかない。グウィードはそっちに残って、引き続き用心棒しておいて』

「わかった。お前の方は大丈夫なのか?」


 途端にエアロンが不満の声を上げる。


『全然大丈夫じゃない! サイモンが出した条件が難題なんだ。ツェツィーリア・キリアノワだぞ? 絶対警備厳しいもん、やだぁ』

「はは、お前ならなんとかなるって」


 と言いつつ、グウィードは内心自分が関わらずに済んでホッとしている。できるできないの問題以前に、見た目に反して意外と小心なところがあるのだった。

 そんな胸中は相棒もお見通しらしく、エアロンは苛々と舌打ちを響かせた。


『しかも、相方がミナギくんだよ? どう使えって言うのさ……あ、ミナギくんをそっちにやってさ、グウィードと交替してもらうっていうのはどう?』

「ええ……まあ、いいけど」


 ちょっとがっかりするグウィード。エアロンは急に機嫌をよくしている。


『へっへっへ。じゃ、とりあえずミナギくんはそっちにやっちゃおうかな。あんな融通利かない子、いっそいない方が僕のやりたいようにできるってもんだよ』


 グウィードは苦笑した。


「本当に仲悪いよな」

『ミナギくんの能力自体はちゃんと評価してるよ。航海士としての技術だけね』


 話題はそのままエアロンの愚痴に変わり、二人は気兼ねないお喋りを楽しんだ。


 電話を終えたグウィードはヴィズのいる客室に戻った。

 フォンダート邸は幼い少女が一人で暮らすには広すぎる。買い与えた異母兄の気前のよさがぶっ飛んでいたらしく、部屋数も多ければ調度品も豪華だ。余分な品は殆ど競売に出したが、代わりに〈アヒブドゥニア〉号の船員たちの私物置き場と化している。


 ヴィスベットはソファに座らせられたまま、ルチアが貢ぎ物を並べるのを虚ろな顔で見守っていた。

 夏に映える鮮やかなスカーフ、涼しげなガラスの耳飾り、細身のグラス、レース細工のコースター、流行りの香水、人気歌手のレコード、老舗パスティッチェリアの焼き菓子詰め合わせ――それらは多くの若い女性が心躍らせるであろう品であったが、閉ざされたヴィズの心には届かない。


「――それからね、お花もあるの。グウィードお兄ちゃんが選んだんだよ」


 ルチアが小さな花束を掲げる。ヴィズが顔を顰めるのを見て、グウィードは赤面しながらそれを取り上げた。


「あっ」

「こ、これは飾る用だ! 花瓶あったよな? 取ってくる」


 バタバタと出て行く背中を見送ってルチアが微笑む。


「へんなの」


 ヴィズは答えなかった。

 戻ってきたグウィードは、二人の方を見ないようにしながら花瓶を窓辺に置いた。


「お姉ちゃん、どうしたの? 好きな物なかった?」


 いたいけな少女は一瞬悲しげな表情を見せた。しかし、すぐに笑顔を取り繕い、ヴィズの隣に手をついて言った。


「お姉ちゃんの好きな物がなくてごめんね。次はお姉ちゃんも一緒に行こうね。そしたら、お姉ちゃんの好きな物も教えてね」

「ルチア――」


 振り返るグウィード。咄嗟に「まずい」と思った。


「……グウィード」


 低く囁くヴィズの声。

 グウィードはルチアをそっと立ち上がらせた。


「ありがとな、ルチア。俺たちちょっと話があるから、先に下に行っててくれるか?」


 少女は大人しく部屋を出て行った。

 グウィードはヴィズに背を向けたまま、気付かれないように呼吸を整えた。

 何事にも愚鈍だと言われがちな彼だったが、だてに気分屋の相棒を持っていない。誰かが不機嫌になる瞬間にだけは、人一倍敏感だった。


「なあ、ヴィズ」

「……なんのつもりですか」

「ヴィズ……」

「いい加減にしてください。物で釣ろうとするかと思えば、次は子供? 卑怯な手ね」

「そんなんじゃないって――」


 ヴィスベットは並べられた貢ぎ物を床へ払い落した。

 ガチャンと割れるガラスの器。香水の海に透明な破片が散らばった。それをなす術もなく見下ろして、グウィードは情けなく眉を下げる。


「……ごめん。考えてみたら、俺、お前の好みとか知らなかったんだ。ルチアには選ぶの手伝ってもらって――ただ、ヴィズに喜んでもらえたらって思ったんだが……」

「それならただ放っておいて。独りにしておいてもらえるのが一番の望みです」


 冷たく凍った声だった。

 誘拐するように病院から連れ出してから、ヴィズはずっとこの状態だ。時々リュセやグウィードが散歩に連れて行ったりもするけれど、機嫌は悪くなる一方である。

 エアロンからの指示がなくとも、グウィードは彼女を残してナポリを離れるつもりはなかった。ヴィズをこのままにしてはおけないと思う。だけど、どうすればいいのかなんて、相変わらずわからないままだ。


「……それはできない。だってお前、車椅子にも一人で乗れるようになってないじゃないか」


 グウィードは溜息を殺して言った。


「リハビリするって約束しただろ。補助なら俺が付いててやるから――」


 ヴィズが睨み付ける。


「どこまでも私を惨めにしたいわけね。あなたたちがしていることは善意の押し付けだといい加減気付いて。その行動の一つ一つが、その無自覚な言動が、私の傷を深くしていくとまだわからないの?」


 次第に昂っていく語気。

 最後の言葉はナイフよりも鋭かった。


「――あなたが善意を振りかざして快感を得るために、私を使うのはもうやめて」


 グウィードは声もなく目を見開いた。

 彼女の言葉が冷水のように流れ込んでくる。頭がカーッと熱くなるのに、対して心臓は冷えて縮んでいく。


 反論をしたかった。

 けれど、彼にはできなかった。

 黙って拳を握り締め、迫り上げてきた何かを飲み下す。

 それが、彼にできる精一杯だった。


「……そうかよ」


 踵を返したグウィードの後ろで、ヴィズが腕に顔を埋めて泣いていた。



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