5-30 前線にて

 タウォード・スベルディスは前線より少し下がった場所で、相変わらず突っ立ったまま戦況を眺めていた。


 日差しの暑さも鼻に突く火薬の臭いも、煩い程の銃声と悲鳴さえ現実のことなのに、彼はまだ自分が悪夢の中に立っているのだと思っていた。


 彼は当事者であり、傍観者。

 こうして感覚は狂っていく。


 彼の視線の先には青い軍服を着た異国の兵士がいた。旧式の銃を携えた者もいたが、その他の殆どの兵士が古風な長剣を装備している。腕前は確かだ。有り合せの武器だけで突っ込んで行く民兵たちではいとも容易く切り捨てられる。

 しかし、そこにヴァチカン率いる軍隊が介入したことにより、形勢は一気に逆転した。近代兵器は熟練の剣士たちと刃を交えることなく撃ち殺す。もはやそれは戦争とは言えず、虐殺であった。



***


 隊長が控えるより少し先、最前線との中程では、エルマンという民兵が戦火の中で立ち尽くしていた。

 教会から支給された拳銃は、持って走るには少し重い。じっとりした汗を掻き、撃ち殺した帝国軍人を爪先で小突く。魂の無い黒い瞳が彼を睨んだ。


 ヴァチカン教徒が侵攻した通りは銃声と悲鳴で溢れ返った。砂なのか石なのか、茶色い瓦礫が降り積もる。流れ弾で店先の香辛料が宙に舞い、火薬に混じって芳ばしい香りを充満させた。

 土の地面には死体が転がる。赤い軍服、民族衣装の一般人、みすぼらしい十字軍、濃紺のスイス・ガーズ。例えそれに息があっても、数分後には死体と呼んで差し支えないだろう。

 敵も味方も倒れた肉塊を踏み越えて、十字軍は進む。


 体格には自信があるエルマンは、その姿だけで十分に敵を威嚇できた。度重なる誤射により、銃弾はすぐに無くなった。瓦礫の山から棒を引き上げ、振り回す。肌の色を目印に無我夢中で人影を殴れば、恐怖も感じない。味方の存在も感じない。


 ――戦場は驚く程に孤独だった。


 エルマンが足を止めたのは、前を行く民兵が軌道を逸れ、民家の一角に走っていくのを見たからだった。その男は彼が率いる野営地でよく見かける男だった。


 恐れを成して逃げたのか?


 臆病者め、と嘲笑おうとした時、彼はその男の目的が聖戦ではなかったことに気が付いた。

 略奪だ。

 民家に乗り込み、支給された拳銃で脅す。金目の物を巻き上げたら、また次の家へと走る。


 取り返しに来たのは信仰のはずだった。けれどそこで、彼は聖人が彼の貧困を癒してくれることはないと気付いてしまった。祈りの言葉は腹を満たしてはくれないのだ。


 エルマンは手にした棒切れをじっと見つめた。

 そして、ふと顔を上げると、彼の目の前には宝飾品を売る商店があった。


 一瞬の躊躇。振り返る白い宮殿。

 白という象徴も、もはや霞んでよく見えない。


 宮殿に背を向けて、商店に向き直る。

 次の瞬間、エルマンは敵軍の兵士に頸部を切り裂かれ、大地を汚す肉塊となった。



***


 ワイズ中尉は最前線に立ち、手を背に組んで優雅に辺りを見回していた。

 彼が出て来たのは戦う為ではない。戦闘を側近に任せ、乱闘を繰り広げる民兵たちを一人一人観察する。その目が一瞬、後方にエルマンの巨体を捉えるが、その時既に彼は物言わぬ屍となっていた。


 中尉が目を留めたのは、巧みに剣を操る長髪の男だった。足捌きは無様だが、的確に人体の急所を狙う太刀筋は悪くない。きっと訓練すればいい兵士になる――中尉は男に向かって足を進めた。


「君」


 男が振り返る。栗色の髪房が跳ねた。


「どなた、ですか……?」


 男は軍服に気付いて敬意を払うが、その表情はいくらか強張っていた。


「アルフレド・ワイズ中尉だ。君、名前は?」

「あっ! 危な――」


 男がハッと剣を握り直す、次の瞬間には。

 中尉は目にも止まらぬ速さで銃を抜き、左から迫っていたイエニチェリの眉間を撃ち抜いた。呆気にとられる男に向かい、彼はにこやかに微笑んだ。


「名前は?」

「ら、ラファエルです」

「そうか、ラファエルくん。君は至極真面目なヴァチカン教徒と見た。付いて来たまえ。君に渡したい物がある」

 


***


 十字軍はついに王宮の正門まで到達した。

 迎え討つは藍色の剣士率いる〈アヒブドゥニア〉号の船員たち。そして、青制服のイエニチェリ。

 猛者揃いのイエニチェリは幼少期から武術を叩き込まれ、才能のある者だけが王宮に残される。彼らが操るタルワールは貴族たちの装身具とは異なり、敵を切り倒すことだけを目的に作られたものだった。

 しかし、その彼らでも〈アヒブドゥニア〉号の船長の太刀捌きには敵わなかった。年齢に似合わず俊足を誇るこの男は、対銃戦における剣術をしっかりと心得ていた。敵が引き金を引くまでの一刹那。一息に間合いを詰め、自らの最強領域に持ち込むのだ。

 十字軍の民兵たちは、この剣士を何とかしなければこの門を突破することはできないとすぐに悟ることになる。

 刀身が煌めいた。赤い房飾りは返り血で濡れ、もはや優雅な軌跡も描けない。

 船長は銃剣を掻い潜って軍人たちの懐に飛び込むと、肘で打倒した男の脹脛を貫く。その隙にもう一人が飛び掛かれば、突き立てた剣を軸に後方へ蹴り飛ばした。


「船長!」


 叫んだのはジャンルカだ。

 船長は額を拭い、部下が指差す方を見る。


 喧騒を背に一人の修道士が立っていた。

 風が僧衣のフードを払うと、老いた男の厳めしい顔が現れた。失明した片目――その目を中心に顔の右半分を覆った醜い傷痕。残った左目は濁りつつも鋭い眼光を宿し、正面に立つ藍色の剣士を睨み付けている。


 修道士は何も言わなかった。低く構え、その手がケープの中に消える。擦り切れたサンダルが大地を蹴ったと思えば、鋭利な切っ先が船長の眼前に迫っていた。

 剣士はそれを長剣を翻して脇へ逸らす。振り下ろされた左手を退いて避け、続く第二撃をレイピアの刀身が受け止める。

 修道士が振りかざすそれは刃物とも杭ともつかない代物だ――先端を鋭利に尖らせた、全長四十センチ程の巨大な十字架。刺す、払う動作に加えて、十字を鉤のように用いた搦め手も使う。

 初めて打ち合う不可解な動きに船長は戸惑い、しかもそれが二刀流であるため、間髪入れず繰り出される重い攻撃に防御しかできなかった。


「シメオン修道士だ!」


 最強を誇っていた藍色の剣士が圧され始める。ヴァチカン側の人間が手を止め、スイス・ガーズが歓声を上げた。


 そしてまた、戦場は新たな局面を迎える。

 シメオン修道士の進撃により、十字軍は勢力を盛り返したと思っていた。ところが、東西の小門から回り込んだ帝国貴族軍たちが正門に集結し、三方から十字軍を挟み撃ちにしたのだ。


 戦況は混乱を極めた。

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