5-29 決意と別れ

〈アヒブドゥニア〉号の面々がイエニチェリと共に城壁に向かった後、アクバルは皇帝の間に続く扉を少しだけ開けた。漏れ出す声が大きく聞き取れるようになった。

 帝国語のため、エアロンやグウィードにはわからないが、状況だけは彼らにもわかる。ヴァチカンの侵攻を受け、どうするべきか高官たちが話し合っているのだ。


 アクバルは三人にこっそり部屋に入るよう促した。帳に隠れて移動し、玉座の見える位置に控える。彼らにはバーブル帝の後ろ姿と、彼を取り巻き騒然とする高官たちの顔が見えた。


『バーブル皇帝陛下! 西ゲートが破られたとの報告が入りました! このままでは王宮まで攻め込まれますぞ!』

『陛下のお命を狙っているに違いありません。ささ、早急にご避難を!』


 バーブル帝はそれには答えず、不安そうに身を寄せ合っている妃たちを呼び寄せた。


『ナーラー、アイシュワリヤ。長老たちと共に北へ逃れ、プーランダラ―寺院へ避難するのじゃ。迎えを寄越すまでそこを離れてはならぬ』

旦那様アーリャプトラ! 陛下も共に参りましょう。ここは危険です。異教徒に何をされるかわかったものではありませんわ』


 妃の一人が縋り付く。皇帝は優しく彼女を押し返すと、二人の手を握って微笑んだ。


『余はこの地を離れることは許されぬ。案ずるな。余に死をもたらすのは外の者たちではない。行け、時間が無いぞ。暫しの別れじゃ』


 皇帝はそれぞれの目を見つめ、迎えに来たイエニチェリと共に彼女らを送り出した。何人かの文官も後を追う。

 他の者たちは皇帝の思わせぶりな台詞に顔を見合わせるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。


『異教徒どもは威力の高い武器を有しているようです。イエニチェリだけでは手数が足りません! 陛下、どうか迅速なご判断を!』

『貴族軍はどうした? 部隊を再編して守備に当たるよう命じておいたはずじゃ』


 すると、高官たちは後ろめたいことでもあるかのようにおずおずと答えた。


『実は、兵たちが拒んでおりまして。獄中の大将たちの解放を求めております。彼らの指揮下でないと動かないと』

『なんだと? 一介の兵の身分で余の命令が聞けぬと申すか! 市民を守る義務を全うさせよ。反逆する者は事が治まった後に罰するぞ』


 高官は尚も食い下がった。


『しかし、陛下、兵士たちの要求は尤もです。新たに選出した士官たちではこの非常事態に対処することはできません。大将たちの手腕が必要です』

『ならぬ。侵略者どもを倒す必要も、王宮を守る必要も無い。ただ市民の避難誘導に徹するだけで良いのだ。王宮の守りはイエニチェリと余の雇った者たちで事足りる』

『あの者たちは信用なりません! 奴らが我が国を訪れた直後、このような事態になったのですぞ。王宮に侵入する手引きをするつもりに違いありません!』


 高官たちは口々に反論を述べた。


『黙れ。彼らは余の友人であり、余の妃が連れてきた信用のおける者たちである。彼らを疑うことは余を疑うことに等しいぞ』


 金の一瞥が一同を黙らせた。

 バーブル帝の目には怒りが燃え、それに同調するように愛猫が縞柄の頭をもたげる。高官たちは虎の唸り声に身を縮め、互いを見ながらなかなか答えられずにいたが、そこへ何者かが声を上げた。


『あの妃を迎え入れたことこそが、すべての始まりだったのでは?』


 それは高官たちの中から聞こえたが、誰が言ったかまでは判別できなかった。しかし、その発言は高官たちの猜疑心を呼び起こすのに十分であった。


『そうだ、あの女がすべての元凶だ!』

『魔女め……陛下の御心を誑かし、御命を狙っていたのだ』

『あの女が連れて来た化け物を見たか? 色の無い悪魔だ! 悍ましい!』

『異教徒どもはアレを崇めていると聞いたぞ。アレを殺せば、或いは――』

『魔女が異教徒どもからあの白い悪魔を奪ったのが発端だ。どちらにせよ、奴らを交渉材料にするのが妥当でしょう』


 誰もが口々に憶測を述べる。高官たちは皇帝に椿姫と異教の神官を差し出すよう迫った。

 バーブル帝が拳を叩き付けると同時に、虎が雷鳴のような咆哮を上げる。一同は悲鳴染みた声を上げながら部屋の奥へと押し合った。バーブルは彼らが押し黙るのを待ち、やがて深い深い溜息を吐いた。


『彼女と白い友人を愚弄することは、このバーブルが許さぬ。が――良かろう。獄中のアージャールダッタ他貴族軍将校らを解放せよ。兵の指揮を執らせるのじゃ』

『はっ、直ちに!』


 バーブル帝はそのまま高官たちを下がらせた。傍らのイエニチェリを呼ぶ。


『イダンダ、人払いを』

『御意』


 イエニチェリは皇帝の間を出て行き、扉を硬く閉ざした。

 肘置に凭れるように顎を乗せて、皇帝は擦り寄る愛猫の鼻筋を撫でた。口元の柔らかい毛に混じり、硬い髭が頬をくすぐる。


『陛下』

『よい。アクバル、通せ』


 アクバルは隠れていた三人を玉座の前へ促した。バーブルは子供のように手を差し伸べ、椿姫つばきがその腕の中に身を投げる。エアロンとグウィードは静かに背後で片膝をついた。


「姫よ、そなたとも別れの時が来た。面倒を掛けてすまなかったの。このまま裏門から王宮を抜け、少し遠いが東ゲートへ向かうがよい」


 椿姫は夫に縋り付いた。


「なりません! 陛下、内部の人間が信じられない今、私以外に誰があなたをお守りできましょうか。一度身を捧げたのです、最後まで共にいさせてくださいませ」

「その言葉だけを受けとろう。余は余の責務を果たさねばならぬ。其方の使命が全うされんことを。余が託したものが少しでも其方の助けになるといいが」


 皇帝バーブルは彼女の髪を掻き上げ、そっと額にキスをした。


「陛下、私がここを離れても、我らの契りは消えません――エアロン、あれを」


 エアロンはポケットから紙切れを取り出して椿姫に渡した。彼女はそれを夫の手に握らせる。それはセメイルから渡された地図だった。

 褐色の手の平を包み込み、祈るように唇を寄せる。


「私はここにおります故、助けが必要になればいつでも」


 皇帝は穏やかに微笑んで紙片を懐にしまう。


『アクバル、姫を東ゲートまで連れ申せ。頼もしい護衛は付いておるが、道案内は必要じゃ』

『御意』


 アクバルは深く頭を垂れた。


「では行け。エアロン、グウィード、姫を頼むぞ。姫……」


 椿姫は立ち上がったまま夫を見下ろした。握った拳は白く、一文字に引き結んだ唇は震えている。

 皇帝バーブルはスッと目を細め、無邪気に歯を見せて笑った。


『椿姫、我が妻よ。余は其方を愛しておった。達者に暮らせ』


 黒の瞳が揺れる。そこに過る涙の影はきっと光の悪戯だったのだろう。腰を折った彼女の横顔は凛々しく、冷たい仮面を被っていた。


「お元気で、陛下」


 最後の挨拶は異国の言葉だった。



***


 赤い後姿を見送って、皇帝バーブルは静寂に浸る。人気の無くなった王宮には、微かに遠く戦の音が響くようだった。

 彼は待っていた。それはほんの数分のことでしかなかったのだろうが、彼には果てしなく長い時間に感じられた。


『皇帝陛下、お客様がお見えになりました』


 イダンダが顔を覗かせる。バーブルはそれを待っていたのだ。


 入室してきたのは白だった。

 異教の神官は僅かに顔を火照らせて、数日見ぬ間に更にいくらかやつれたようだ。しかし、その存在感は以前よりも増しているように思える。儚く、幻のようでありながら、決して揺るがぬ何かへと変貌を遂げていた。


「遅かったではないか」


 バーブルは微笑を浮かべて身を起こす。神官セメイルは玉座の前に恭しく膝をつき、純白の僧衣を花弁のように床に広げた。


「お別れを言いに参りました」

「面を上げよ。迷いを断った今、其方と余は対等である」

「いいえ、そんな畏れ多いことは」

「其方は個であることを捨てたのじゃ。今の其方は我ら神の領域ぞ」


 セメイルは目を伏せて静かに答える。


「……長い迷いの時でした」

「もうよい。さらばじゃ、神官セメイル。互いが己が使命を果たしたとき、冥府を統べる神ルマールチャガシャの名のもとへ集おうぞ」

「貴方の歩む道に常に星が輝き、主の導きがあらんことを。感謝しています、バーブル皇帝陛下。貴方に会えて本当によかった」


 現人神あらひとがみと神官は互いの信仰における祈りを捧げ、これを最後の別れとした。


 神官セメイルが部屋を出る。彼の眼差しは戦地へと向かっているのだ。ストラが純白の後を引く。


 残された皇帝は目を閉じて。

 この世に肉体を持って降誕した時から、決して踏むことの叶わなかった異国の地を思い描いた。そして、そこで戦う友人たちを想う。

 擦り寄る愛猫の鼻筋を撫でた。湿った鼻が手の平をそっと押し返す。


 皇帝バーブルは独りになった。

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