5-27 茨の道

 神官セメイルはバーブル帝の前に立ち尽くしていた。

 若い皇帝は愛猫に背を預け、何をするでもなくその巨大な尾を弄んでいる。傍らには椿姫つばきが控えているが、彼女は自身はそこに存在していないとばかりに目を伏せている。


 一人のイエニチェリが入室してきた。


『アージャールダッタ以下、主だった者たちの収監が完了しました』

『ご苦労であった。皆を休ませよ。十分な食事と休眠を取らせるのだ』


 イエニチェリは深く頭を下げて出て行った。

 バーブル帝は身を起こし、セメイルを見上げた。


「して、異教の神官よ」


 思わず身を固くするセメイル。

 皇帝の金色の瞳は美しいが、歳に似合わぬ鋭利さを持ち合わせていた。


「其方はここで何をしている?」

「ですから、それは――」

「否。余の問いは其方の思っているものではない。其方は何を望んでここへ来た? はっきり言おう、異教の神官よ。其方が我が国を訪れたことは何の意味も成さぬ。ここで其方ができることは何もない」


 セメイルは反駁はんばくした。そのつもりで何かを捲し立てたのだが、言葉は意味を成す文にならなかった。その前に、皇帝が手を挙げてそれを制し、金色の眼で再度彼を射抜いたのだ。


「まだ分からぬか。余は、其方が本当にすべきはこの国を訪れることではないと言うておるのじゃ。其方は余に会うてどうしようと思った。謝罪か? 命乞いか? それは其方が此度の過ちに関して一切の責任を持っておらぬと申しているのと同意である」

「そんなつもりではありません! わたくしは、私は、すべての非は私にあると感じたからこそここまで来たのです!」

「其方は罪から目を背けたのじゃ」

「違います!」

「違わぬ」


 一歩踏み出したセメイルを虎が牙を剥き出して牽制する。

 バーブル帝の語気に怒りが満ちた。


 そして、彼が放った一言は、偽りの聖人の心を貫いた。


「醜いぞ」

「みに、くい……?」


 久しく言われたことのない言葉だった。

 作りものの神官として飾り立てられてからは、美を称賛されることしかなかったのに。それをこの男は、彼と対を成す黒の美で以って、彼を醜悪だと罵ったのだ。


「己の醜さに気付かなんだか? 目を背けるな。其方の信仰を、背負っているものを、正面から見据えるのじゃ。教えてやろう、セメイルよ。其方が本当に責任を果たそうとするならば、其方の償いは余ではなく、其方らの信徒に対して為されるべきであろう」


 バーブル帝の糾弾は止まない。

 耳を塞ぎたくて堪らなかった。

 わかっていたけれど見て見ぬふりをした、正しい選択肢を、彼は容赦無く突き付ける。


「無関係の国を巻き込む前に、自国にて信徒にすべては誤りだったと打ち明けるべきではなかったか? 何故其方はそれをしなかった?」


 嗚呼、まただ。

 耳の奥で船長に言われた言葉が木霊していた。


 オリヴィエの細く華奢な後ろ姿。

 何も言わず彼の希望を叶えてくれたエアロンやグウィードだって、当然端から気付いていたはずなのだ。


 しかし、誰も何も言わなかった。

 こちらを見る冷めた眼差しは、きっと彼の醜い心の内を透かしていたに違いない。


「……何もかも私のエゴです」


 長い沈黙の末、セメイルは震える声で言った。


「教会の凶行を止めなければという思いはもちろんありました。信徒を守りたいという気持ち、アバヤ帝国への誤解を解かなければという気持ち。どれも嘘ではありません。しかし、私はこんな事態になっても尚、自分のことしか考えられない臆病者でした」


 痛んだ右手を掻き抱く。

 一度叫び出した感情は、壊死の進行と同じく、もう止めることはできなかった。


「真実を打ち明けるのが怖かった! そのことで私とヴァチカン教会の非を咎められるのも、信徒たちを裏切ってしまうことも! 彼らの絶望を背負う勇気が持てなかった。そして、どこまでも卑しい私は――」


 涙がハラハラと頬を伝い落ちて行く。


「――もう一度信じていたモノに裏切られてしまったら、もう自分を保てないと思ったのです」


 それは自分自身のための涙であったが、穢れなく、この上なく、澄んでいた。

 暫く嗚咽が止まらなかった。バーブル帝は何も言わず愛猫の鼻面を撫で、彼の言葉にならない想いに耳を傾けていた。やがてセメイルの呼吸が落ち着いた頃、皇帝はイエニチェリを呼んで温かい飲み物を運ばせ、彼に座るよう促した。


「其方の生い立ちを話してくれぬか」


 赤褐色の液体に映る自分の顔を眺めていると、バーブル帝が静かに言った。


 セメイルは目を閉じる。神官の名の下に長らく封印されてきた個としての自分が、遠くからこちらを眺めているような気がした。


「私と妹はとある孤児院で育ちました。生まれはわかりません。赤子の頃に修道院の前に捨てられていたのだと後に聞かされました。孤児院には私たちのような周囲とは異なる特徴を持った子供も多くいて、『嗚呼、そういうことだったんだ』と幼心に納得したのを覚えています。生活は貧しいながらも穏やかで、修道士たちが教えてくれる勉強の時間が私は大好きでした。皆良くしてくれましたが、今思えば私は孤独な子供だったのだと思います。捨てられた、という事実から目を背けたくて、こんな私でも受け入れてくれる信仰というものに、自然と心を委ねるようになりました」


 無意識に眉を顰めていた。胸がざわつく。穏やかな時間が終わることを記憶が警告しているのだ。


「大戦が始まると沢山の子供たちが疎開してきました。孤児院には戦争が終結しても帰る場所を失った子供たちが大勢残りました。孤児院の経営は逼迫ひっぱくし、自ずと年長の子供たちは施設を出されるようになりました。私は迷わず祈りの道を選び、修道士として外との交わりを断った生活を送るようになったのです」


 バーブル帝は相槌を打つこともなく聞いている。

 静かな時間だった。夜の空気がじんわりと室内にも染み込んでくる。

 話を続けるセメイルの声も苦悩が混じり始めていた。


「ラスイルは――気も強く活発な性格だった妹は、街に出て働くことを望みました。しかし、働き口は見つからず、かなり大きくなるまで孤児院を手伝いながら過ごすことになったようです。ここから先は間接的に話を聞いただけの想像になりますが――戦後の不況のためもあって、ラスイルはとうとう孤児院を追い出されてしまいました。働き口も少ない中、当時は私たちのような容姿は今以上に嫌厭されており、真っ当な仕事を得ることはできませんでした。自分の力で食べていくために、彼女に残された道は自身の身を売ることだけだったのです」


 妹を想う。

 喉の奥がキュッとしまった。


「ところが、娼館すら彼女の容姿を見て渋りました。代わりに声を掛けてきたのは旅芸人の座長です。それが本当に芸を披露する一団であればよかったのでしょうが、どうも実態は口にするのも悍ましい卑劣な商売だったようで、人としての尊厳を奪い去るようなものでした。ついにラスイルは私に助けを求めました――私にできることは、ありませんでした」


 そして、あの日。

 身形のいい数人の男たちが修道院を訪れ、セメイルに『神官』の話を持ち掛ける。


 断るべきだった。


 自分は神の使途に相応しくない存在だ。

 ――そう思っていたけれど、酷くやつれて見る影も無くなった妹の姿を思い浮かべると、断ることなどできなかった。


「私はヴァチカン教の偶像となりました。妹は衣食住のすべてを保証される見返りとして、神官セメイルの影となることを受け入れました。以来、彼女はずっと私の影のままです。人並みの生活を望む彼女の夢は奪われ、尊厳を維持するために選んだ道は、結局彼女から自由を奪いました。私は、それでもこうするしかなかったんだ、と自分を騙しながら罪を重ね、今日に至ります」


 セメイルは話を終えた。

 心は再び落ち着いていた。ただひっそりとした哀しみだけが残っている。

 赤い双眸に皇帝を捉え、本物の信仰の象徴である彼はどう感じたのだろうと、他人事のように考えていた。


 バーブル帝はセメイルの物語を咀嚼するように、暫く目を伏せていた。やがて顔を上げた彼は、優しい微笑を浮かべていた。


「さぞつらかったであろう。茨の道じゃ」

「いいえ……妹の苦痛を思うと、私なんて」

「大切な存在を想う気持ちは時に苦難を強いる。其方の行いは正しいとは言えず、得られた結果も悲惨なものだったかもしれぬ。しかし、妹を想い、信徒を想い、常に良心を失うまいとした其方の葛藤を余は認めよう」


 セメイルは息を呑む。

 不思議なことに、その言葉は他の誰の言葉よりも力強く感じた。急にバーブルの存在感が歳若い青年のそれではなく、すべての年代の人間を重ね合わせたような、人間を超越したものに変わったのだ。

 それはセメイルが初めて教会に足を踏み入れた時と同じ、圧倒的な畏怖だった。


「……誰かの人生を背負うというのは、私にはとても重すぎることでした。信徒が私を崇め敬う度、私は罪悪感に苛まれるのです。バーブル皇帝陛下、貴方は私より遥かに重たいものを背負っておいでです。如何にしてその重責に耐えてこられたのでしょうか?」


 すると、バーブル帝は声を上げて笑い出した。


「余は神ぞ。現の世を統べるスーバール教の三神の一柱である。余は我が民を守り導くために地上に降り立った。神は重責など感じぬ。だから、余は其方のような苦悩を負わぬのじゃ」


 セメイルは呆気に取られてしまった。悪戯っぽく微笑むバーブル帝を見て、セメイルは胸の中で感嘆する。


 嗚呼、そうか。

 長らく彼を蝕んできた靄のようなものが晴れていくのを感じた。


「私はどうあるべきと思いますか」

「それは余に問うことではない。異教のことはさっぱりじゃ」


 バーブルはお道化たように目を細める。


「もはや急ぐことではあるまいて。神官セメイルとは何者なのか、其方自身に問うてみるが良い」



***


 ちりん。

 夜風に靡く風鈴の音。


『のう、姫よ』


 皇帝は妃の腿に頭を預け、ぼんやりと天蓋を見上げていた。白い指が髪を掻き上げ、解けたターバンを絡め取る。子供の悪戯のようなその仕草が心地よかった。


『なんでしょうか、陛下』

『其方は己の生まれを呪っておるか?』


 椿姫つばきはくすりと笑みを溢し、癖毛を指に巻き付けた。


『さぁ?』

『正直に申せ。其方とて大臣の娘なんぞに生まれなければ、望まぬ結婚をすることもなかったはずじゃ。自国に愛する男もおったろう……すまないことをしたの』

『そんな男など。陛下以上の殿方が他におりましょうか? 聡明で思慮深く慈悲に満ち、お姿は他の誰よりも麗しく、権力も財力も敵う者はおりませんのに』


 その声に茶化すような節を感じ、皇帝は声を上げて笑った。体を捻って妻を見上げる。ふくよかな胸の膨らみ越しに覗く女の顔は、薄明かりの中で不気味な程蒼白く見えた。


 バーブルは猫のような金の瞳を細め、妻の不敵な笑みに挑戦的に笑い返した。


『其方にしては珍しく、嘘が吐けぬのぅ。今回のことがすべて済んだ暁には、きっと其方を解放しよう。行きたい所に行き、愛する男と一緒になるが良い』


 椿姫はカッと目を見開いた。隙の無い美貌に浮かぶ動揺。

 皇帝はクックと低い声を漏らす。


『何をおっしゃるのです』

『妻を想うてのことじゃ』

『まったく……先程聡明で思慮深いと申し上げましたが、その言葉撤回しますわ』


 彼女は両手で夫の体を抱き起こし、その胸に抱き締めた。子供をあやすように頬を寄せ、己の体温で温める。夜気が皇帝の細い体を冷やしていた。


『例え一国の主であろうと、現人神あらひとがみであろうと、色恋となれば陛下なんて青二才の若造です。愛していなければこんな風に慈しんだりしませんわ』

『ふふっ。どうかのう? どこまでも腹の内を見せぬ女よ』

『私も陛下程ではありませんが、様々なしがらみに囚われた身。その身の上を理解し、気遣ってくださる夫を持てたのです。それだけで十分に幸せですわ』


 バーブルは女の首に顔を埋め、異国の香りを嗅いだ。


 彼にははじめからわかっていた。婚姻の儀を結ぼうと、口では互いを気遣おうと、結局彼女は手に入らない。かつては彼も憧れた王宮の外の自由が、異国の女の姿となって彼の前に現れたのだから。


 だからこそ、そう。

 ――どんなに欲しても、彼女は手に入らないのだ。


 今夜は妙に風鈴が鳴る。

 風は吉兆ではない、と皇帝は思った。

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