5-26 青い余韻

「うえぇ」


 部屋に戻るなりグウィードがベッドに倒れ込む。続けてエアロンもダイブした。ごわついた枕がもうお休みよと優しく受け止めてくれる。瞼が自然と下がってきた。


「こんなに派手に呑んだのは久しぶりだなぁ。飲んでないセメイルは別として、お前が一番弱いのは意外だったな」


 エアロンはさも心外だと足をバタつかせた。


「はあーあ? 主任は殆ど飲んだふりしてただけじゃん。あれはズルいよ」

「船長がザルなのは知ってたけど、ミナギもなかなかだったよなぁ。やっぱり船乗りやってると酒も強くなるのか?」

「んなわけないじゃん。あいつらは普段から頭オカシイから、アルコール入っても変わらないだけだよ。僕みたいな精巧な脳細胞の持ち主じゃないってこと」


 突然エアロンは頭を上げ、ムッとした顔で壁を睨んだ。


「大体、主任だよ。何? なんであの人が皇帝に嫁いでるわけ? 僕に何にも言わないってどういうこと? いい度胸してるじゃないか」


 グウィードは苦笑した。


「あれは驚いたな。結婚してるとは聞いてたけど、まさか皇帝とは……」


 途端にエアロンがキッと振り返る。グウィードはしまったと口を噤み、できるだけ自然に見えるようそろそろとベッドを抜け出した。


「何? お前、知ってたの?」

「し、知らない知らない。たださ、既婚者らしいって〈館〉の中で噂になってたんだよ。よくあるメイドの法螺話だって。俺もマチルダからの又聞きだし」

「法螺じゃなかったじゃないか。どうして僕には伝わってないんだ?」

「い、いやぁ……お前のことだから、もうとっくに知ってると思ったんじゃないか?」


 その反応が怖くて言えなかったんだろうとは、口が裂けても言えない。


 エアロンは不機嫌さを前面に押し出しながら枕に背中を預けると、右手で乱暴に頭を掻いた。それから吐き捨てるように言う。


「僕が知るわけないだろ。主任のことなんか、全く。あの人は自分のことは一切話さないんだから。今度だって、なんだよ……日本国って、そんな立場の――」


 今回垣間見えた彼女の素性はエアロンの胸中を搔き乱した。


 彼女はこれ以上何を隠しているのだろう?

 彼女が立ち向かっている問題は如何程のものなのか。

 きっと今後も彼女は打ち明けない。


 面白くなかった。

 実に、面白くない。


 エアロンは尚もぶつぶつ何か言っていたが、暫くすると天井を睨むだけになった。八つ当たりされては堪らない、とグウィードも鳴りを潜める。居た堪れない空気にすっかり酔いも覚めてしまった。


 救世主が現れた。

 入口の帷を捲り、〈アヒブドゥニア〉号の船長が顔を出す。彼は無言の一瞥で室内の状況を理解したらしく、まずグウィードに向かって言った。


「グウィード、船員たちの部屋に顔を出してやってくれないか。まだ酒盛りを続けているようだ」

「おっ、おう! わざわざありがとう。行ってくるよ」


 渡りに船とグウィードは急いで出て行った。船長はその後ろ姿を見送りながら、エアロンが鼻を鳴らすのを聞いた。


「何? おっさんは僕とお喋りがしたいの?」

「ああ」

「ちょっとだけだからね」


 船長はエアロンの向い、グウィードのベッドに腰掛けた。


「互いに無事でよかった」

「どこが無事なのさ。あちこち傷だらけだよ、もう」


 エアロンはちらりと船長を見た。


「〈アヒブドゥニア〉の被害状況は?」

「重傷者が四人いる。あとは命に別状はない」

「よかったねぇ? 酷い役回りだったじゃないか。主任に文句言いに行く時は声掛けてよね。全力で加勢してあげるよ」


 船長は何も言わなかった。


「積み荷は皇帝陛下に献上したの?」

「爆破した」

「は?」

「元々ダミーだ。中身は殆ど火薬と古本だった」

「ええ? 武器じゃないの?」

「見本用にいくらかは積んでいたが、マルコが掴まされた粗悪品だ。端から使い物にはならない」


 エアロンは女上司への苛立ちを束の間忘れ、藍色の男を興味深げに見上げた。鉄壁の無表情にも疲労の色が隠せない。


「ねえ。何か話があって来たんでしょ?」

「……今後の方針を聞きに来た」


 エアロンは船長の方へ寝返りを打って聞く姿勢を見せた。


「とりあえずは新しい拠点と食い扶持の確保かな。もう茨野商会とは名乗れないしね。そっちはどうするの?」

「これまで通り、変わらない。支援はしよう。船に迎えることも可能だ」


 エアロンは心底嫌な顔をした。


「げえっ。嫌だよ、あんたの船小っちゃいじゃん」

「港に営業所を開けばいい」

「やだってば。僕、あんたの取り巻き連中とは馬が合わないんだ。すっごく陽気かすっごく無愛想のどっちかしかいないんだもん」


 船長は暫く視線を落としていた。両手の指を組み合わせ、親指の腹に爪を立てている。その様子は穏やかに見えたが、やがて顔を上げた時には鋭い眼差しに変わっていた。


「セメイルのことはどうする」


 意外な話題にエアロンは目を見開く。


「セメイル? そりゃあ、本人次第だけど……彼が他に行く所が無いって言うなら、僕らが引き取ってあげても――」

「そうではない。ヴァチカンと神官の問題だ。今後この問題にどう関わるつもりだ?」

「……ああ、そういうこと」


 エアロンは身を起こした。片膝を抱え、船長と向き合うように座り直す。その目は酷く冷めていた。


「何もしないよ。僕らは主任に頼まれてここに来ただけだし、グウィードが指名手配されてるのは――まあ、今回セメイルがどうにかするんでしょう? 社長に再び良いように使われないためにも、僕とグウィードはもうこの件に関わらない方がいい」

「ヴァチカンの非道を正そうとは思わないようだな」

「そりゃあ、僕には関係ないもの」

「教会の裏にいるという〈研究所〉については?」


 ピクリとエアロンの眉が動く。

 鬼火の色と少女の笑い声が聞こえた気がした。


「気にならないわけじゃないけどね……でも、もう巻き込まれるのは御免だよ。僕は非道を許さない正義感も、真相を求める探求心も持ち合わせていないんだ。これ以上関わらず、巻き込まれず、静かに生きていければそれでいいよ」


 船長は熟考しているようだった。エアロンに対する同意も反発も見られない。そこに彼自身の意思はないようだ。


「……そうだな。それが正しいだろう」

「不満? あんたは何かしたいの?」

「いや。お前の意思に従うつもりだった。お前たちに力を貸し続けることが、タチアナの望みだから」


 エアロンはじっと船長を見た。彼は一瞬視線を合わせると立ち上がり、出口へ向かった。


「大変な時に居てやれなくてすまなかった。これからは私も共に考えよう」

「あんたには関係無いんだからいいんじゃない? わざわざ巻き込まれに来なくてもさ」


 肩越しに振り返った船長は。


「しかしこれは、お前が一人で背負うものでもない」


 青い余韻を残して行ってしまった。


 赤い天蓋を透かすように蝋燭の明かりが揺らめいていた。

 仄かに香る花の香りと遠くに聞こえる誰かの歌声。礼拝か何かだろうかと、エアロンは静かに目を閉じる。無意識に十字軍で過ごした夜を思い浮かべるが、景色や言語は違っても、それらはどこか似ているように思えるのだった。

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