5-25 宴の席で
バーブル帝の宮殿はこれまで過ごしたどんなホテルよりも豪華で快適な空間であった。
宮殿風呂を満喫したエアロンとグウィードは、宛がわれた客室で寛いでいた。
「地獄から天国だな。体が付いていかないぜ」
グウィードは気持ち良さそうにベッドに寝そべっている。エアロンは敷物の上に胡坐を掻き、葡萄の鉢を抱えながら何やら神妙な顔をしていた。
「これで主任からの任務は達成ってことだよな? まだ何かやることがあるのか?」
「そりゃあるでしょ。そもそもお前とセメイルは世間様からの誤解を解かなきゃいけないんだ。そっちの方が大変だってこと、忘れてないよね?」
「うっ。それは、まあ、きっとセメイルに何か考えがあるんだと思うが……なあ、エアロン?」
グウィードは寝返りを打ち、眉間に皺を寄せて葡萄をしゃぶる相棒を見下ろした。
「なんだってそんなに不貞腐れてるんだ?」
「は? 不貞腐れてないし」
「とりあえず終わったんだしさ、今だけはのんびり寛ごうぜ?」
「グウィードは気楽だなぁ。僕みたいに頭が良いとね、色んなことが気に掛かるんだよ。お前と違って」
エアロンは食べ終えたヘタを屑籠に投げ入れながら言った。
「結局何のために主任は帝国なんかに来たかったんだろうね?」
「何って……第三夫人だかなんだかの囮役だったんだろ?」
「おかしいじゃないか。もしそれが本当だったなら、彼女と侵入のタイミングを合わせる必要があるはずだ。でも、主任は〈アヒブドゥニア〉とのタイミングこそ気にしたけれど、第三夫人と連絡を取っていた素振りは一切無かった。僕らはミングカーチの情勢を見て、急遽予定を早めたのにだよ?」
それを聞いてグウィードも考える素振りを見せる。
「そう言えばそうだな」
「それでちょっと思ったんだけど」
エアロンは汁に塗れた指をグウィードに突き付けた。
「そんな人、本当はいないんじゃない?」
「第三夫人が?」
「――いいえ。第三夫人は存在します」
二人はハッとして顔を上げた。
入口に褐色の青年が立っていた。イエニチェリのアクバルは恭しく入室すると、気を付けの姿勢で用件を告げた。
「突然失礼いたしました。しかし、お二人が誤った推測をされているようだったので。お二人とも、晩餐の用意ができました。皇帝陛下がお待ちです」
「第三夫人は実在する?」
「そうです。詳しい話は陛下から直接お話しくださるでしょう。お急ぎください」
二人は急かされるままに身支度を整え、イエニチェリに付いて食堂へ向かった。
白い外見とは打って変わって、宮殿内部は様々な色で彩られている。柱やアーチに細かなタイル装飾が施されており、至る所に花や香が供えられた祭壇も見られた。
だが、その豪華な内装に反し、どこか閑散とした空気を感じさせるのはなぜだろう。
『護衛のお二人をお連れしました』
アクバルが告げる。美しいドレス姿の女中が現れ、彼らを席へと案内した。
長卓の上座では皇帝バーブルがクッションに背を預けている。傍らには赤い衣装を纏った我らが
エアロンとグウィードは主任側に陣取り、低い長卓を挟んで〈アヒブドゥニア〉号の二人組と向き合った。
あまり広い部屋でもないが、第三夫人らしき人物は見当たらない。ついでにセメイルの姿も無い。
「船長、セメイルは?」
船長は半乾きの髪を無造作に後ろへ流し、さも疲れた爆睡したいという様子で答えた。
「まだ来ていない。先程イエニチェリの一人が呼びに行った。じきに来るだろう」
その言葉通り、セメイルは最後に広間へやって来た。
眩しい程のその姿に、自ずと一同の視線が集まる。
純白。
彼は神官の正装をしていた。
「お待たせして申し訳ございません。神官セメイル、只今参上致しました」
「ほう……そなたが例のヴァチカンの、張本人であったか」
皇帝バーブルはゆっくりと体を起こした。金の眼光は若い青年のそれではなく、一国の主としての聡明さが宿っている。彼はじっとセメイルを観察し、それから吐き捨てるように言った。
「其方は何をしに参った?」
「え……」
その第一声に、セメイルは明らかに面食らった。居合わせた面々もバーブル帝の予想外の反応に戸惑いを見せる。
皇帝は露骨な敵意を異教の神官に向けていた。
「其方は余の客人ではない。余は招いておらぬ」
セメイルは一瞬唇を噛んだが、皇帝の前に進み出て食い下がった。
「仰る通りです。わたくしは彼らに無理を言って同行させてもらいました。しかし、バーブル皇帝陛下、もうお聞き及びと存じますが、わたくしはヴァチカン教会を代表して――」
「黙れ。余は聞く耳持たぬ」
「お待ちください! わたくしはヴァチカン教会の愚行を謝罪に参ったのです。言葉一つで許されるような事ではないと承知しております。ですが、どうか――」
垂れた髪が床を擦る程低く、神官は頭を下げた。
見守る者たちは何も言えない。穏やかで、常に何かに怯えていて、人知れず悲しげに目を伏せるこの青年が、ここまで必死で何かを訴える姿を彼らは初めて見たのだった。
バーブル帝はねめつけるように異教の神官を見下ろし、彼の眼前に手を突き出した。その声は冷たく、それ以上の発言を許さない。
「其方ら邪教徒どもが我が国に謂われ無き罪を着せ、侵略せんと詰め掛けて来ておること、余の耳にも届いておる。謝罪は受け入れぬ。当然許すつもりもない」
「陛下……っ!」
「だが、其方の話は別に聞こう。今は晩餐じゃ、神官セメイルよ」
バーブル帝は小さく微笑んだ。
「今は信仰の役目を捨て、ただのセメイルとなりて卓に着くがよい。ただのセメイルは余の客じゃ。もてなそう」
イエニチェリがそっと神官の肩に触れ、席に着くよう促す。セメイルは縋るように皇帝を見上げた後、力無くイエニチェリに従った。
気まずい沈黙に咳払いが響く。
「それだけ真摯に思うてここまで来たということじゃ。非礼は咎めぬ。さあ、夕餉を始めよう。アクバル、盃をここへ」
イエニチェリが酒を注ぐ。
皇帝が盃を飲み干すのを待ち、一同もそれに倣う。そして、晩餐が始まった。
食事は豪華なものだった。丸ごと焼いた鶏肉に新鮮な海の幸。食欲をそそる香りの煮込み料理は何種類もあったし、豆の練り物やサラダなどの野菜も豊富だ。主食には無発酵パンがいつでも焼き立てで提供される。どれもスパイスを大量に使っているのが特徴的で、食べればモリモリと力が蘇るようだった。
バーブル帝は肉を数切れ口にしたものの、以降は蜂蜜酒を舐めるだけで、専ら客人たちの旺盛な食欲を眺めていた。一同は始めこそ緊張して食事に手を出しあぐねたが、
食事が一区切りついた頃、バーブル帝が声を掛けた。
「此度の其の方らの働き、実に見事であった。貴族軍に蔓延る叛意ある者共を炙り出し、姫も無傷で余のもとに辿り着くことができた。感謝しておるぞ。褒美に望む物があれば何なりと申せ」
エアロンとグウィードが顔を見合わせる。エアロンはおずおずと手を挙げた。
「よろしいでしょうか、皇帝陛下」
「なんじゃ、申せ」
「今回は三番目の后妃様が入国されるための陽動と伺っております。不躾なお願いとは存じますが、我々が命を賭してお守りした方のご尊顔を拝することはできないでしょうか?」
すると、バーブル帝は吊り気味の両眼でぱちくりと瞬きした。それから
「なんと! 椿姫よ、この者たちに何も申しておらんのか」
椿姫は顔を背けていた。耳元が仄かに赤い。
「ええ、まあ。必要無いと思ったので」
「薄情な奴じゃのう……ほれ、エアロンと申したか。其方らはもう妃に会うておる」
エアロンが怪訝そうな顔をする。
バーブル皇帝は猫騙しでも喰らったように目を見開き、堪り兼ねた主任が大きな溜息を吐くと同時に、声を上げて笑い出したのだった。
「ははは! 聡明そうに見えて愚鈍な男じゃのう。ここにおるではないか。余の妃に相応しき可憐な女性が」
一同は言葉も無く皇帝の方を見た。正しくは、彼の隣で俯いている女性を。
主任がそこまで恥らう姿は初めて見たなどと考える暇も無く、皇帝が示した答えを呆然と眺めることしかできなかった。
そんな馬鹿な。
しかし、この部屋に女性は彼女しかいないのだ。
「信じない、僕は信じないぞ!」
「おい、嘘だろ」
「えっ? そんなまさか」
エアロン、グウィード、ミナギの若者三人は盛大に声を上げた。セメイルもぽかんと彼女を見つめている。船長すら揺るぎない無表情を微かに緩め、青い目を見開いたまま匙を落とした。
椿姫主任――バーブル皇帝の第三夫人は溜息を絞り出し、男たちから逃げるように手で顔を隠した。
「だから、伏せたままにしておきたかったんです。どうせ信じないでしょう」
「その様子では本当に何も話しておらんのか。姫、ここですべて話してやることが彼らの誠実さに報いるというもの。一から説明してやるのじゃ」
「できません。私はこれ以上彼らを巻き込むつもりはありませんから」
バーブル帝は呆れた顔で妻を見ている。彼は帝国語で語り掛けた。
『強情な女じゃ……では、余が余の目線から話すことは問題あるまいな? 姫の素性については多くは語らぬ。それならばよいであろう?』
「まずは我が帝国の現状について語ろう。アバヤ帝国はもう数百年鎖国政策を続けておる。それは技術革新の遅れをもたらしたが、同時にかつて起きた数多くの世界大戦からも国民を守り続けた。しかし、十九年前から状況が変わり始めた――〈天の火〉の発生じゃ」
エアロンが口を挟む。
「失礼ながら、アバヤ帝国では電子機器を多用しているようには見受けられませんでした。電磁波災害の影響は然程受けないのでは?」
「左様。我が国を襲った問題は天災ではない。その逆じゃ。我が国は電磁波災害の影響を受けないのじゃ」
「え? それは良いことなのでは……」
バーブル帝はにっこりと微笑んでいる。
「全く被災しないのではない。最初の〈天の火〉の発生以降、極小規模なものならば稀に領内でも起きておる。しかし、我が国には一ヵ所だけ、『電磁波災害が絶対に起こらない場所』が存在するのじゃ」
これには一同が衝撃を受けた。
〈天の火〉――全世界共通の課題となっている電磁波災害は、世界中の学者たちが熱心に研究を続けているものの、その原因解明や発生予測がまだ完璧にはできていない。新たな災害が研究施設を襲う度に貴重な研究機器が損傷を受け、最悪の場合蓄積された研究成果が水泡に帰す。人類はこの謎の自然災害と不毛な鼬ごっこを続けているのだ。
もし、『電磁波災害が絶対に怒らない場所』が存在するとしたら。
それを求めるのは研究機関だけではない。
ありとあらゆる組織が目の色を変えるだろう。
「まさか、そんな場所が……というか、どうやってそれがわかるんです?」
「余も知らぬ。が、どこかの研究機関がそういった研究結果を導き出したらしい。国境周辺で不審な一団を見掛けるようになってから程無くして、その研究機関の人間らしき者が謁見を求めてきた」
「その研究機関の名前は?」
「国際協同科学技術研究所」
エアロンがセメイルを見る。セメイルは戸惑うように首を傾げた。
「国際連盟から派生した研究機関だよ。国連の発足から数年後に設立されて、各加盟国から研究者や資金、機材を募っている。要するに、電磁波災害について全世界で協力して解決に当たろうっていう組織さ」
と、
エアロンは眉唾物の話の連続に眉間の皺が直らない。
「初めて聞きましたよ」
「そりゃあね。各国から最高峰の科学や技術が集結してるんだ、機密情報も多いはず。他国や民間企業に流出しないよう、内部ではかなり厳重な情報統制がされているという噂だよ」
バーブルが話を戻す。
「研究所の人間は余に例の土地の使用権を求めた。見返りに国連への無条件加盟、開国後の経済や科学技術の復興支援を提示しての。悪い話ではない――世界の中にあって我が国は赤子も同然じゃ。しかし、だからこそ、慎重にならねばならぬ」
皇帝は妃の手を取った。夫婦は一瞬の微笑みを交わす。
「同じ頃、日本国からも使者が来た。〈天の火〉により日本国政府は事実上壊滅しておる。かつての繁栄の見る影も無いと聞く――が、芯の強い国じゃ。再興を諦めてはおらぬ。両国の間で交わされた事項についてはここでは語らぬ。しかし、余は一先ず例の研究所への回答は保留とし、日本国の使者と協力して情報を集めることにした」
「その研究所の人間というのは、現在もこちらに出入りしているのですか?」
セメイルが問う。
彼には思うところがあるようだ。
「否。少なくとも、余の耳には届いておらぬ」
ほっと溜息を吐いた神官は、無意識に右手を抱いていた。
「話を戻すぞ。研究所からの申し出について慎重な余の態度が貴族たちの反感を買った。彼らも開国は逃れ得ないことだと理解しており、それならばこちらの有利に進められる今が好機と考えたのじゃろう。彼らは皇帝バーブルに不信を抱いた。根も葉も無い噂を広め、謀反を起こす同志を集め始めた」
これには航海士ミナギが言葉を漏らす。
「ああ、それで正式な許可証を持っていたのに、〈アヒブドゥニア〉号は入国を止められたのですね」
「うむ。其の方らには危険な橋を渡らせてすまなかった。持ち込んでもらった『武器』というわかりやすい餌にまんまと喰い付きおったようじゃ。余の客人を殺害しようとしたことにより、主犯格であるアージャールダッタを拘留する名分が立った。感謝しておる」
〈アヒブドゥニア〉号の船長は事前にある程度の事情を知らされていたらしく、皇帝の感謝の眼差しにも無言の会釈で応えただけだった。
次に声を上げたのはグウィードだ。
「あっ。じゃあ、王宮にいたイエニチェリを殺したのも……」
「貴族軍の人間じゃ。混乱に乗じて皇帝側の人間を口減らし、其方らに罪を着せるつもりであったのだろう。下手人は捕らえた。相応の裁きを受けさせようぞ」
語気に交じる皇帝の怒りを感じ、一同は束の間黙り込んだ。
茨野商会のメンバーはそれぞれが計画の一端しか知らされていなかったが、これで
「アージャールダッタは?」
ついに船長が口を開く。バーブル帝は微笑んで答えた。
「尋問中じゃ。なかなか口を割らないようじゃがのぅ。報復を望むなら一太刀二太刀浴びせてきてもよいぞ」
船長は黙って目を伏せた。
「ふむ。話は以上じゃ。他に疑問があれば椿姫に訊ねよ――答えるかは知らんが。さ、宴に戻ろうぞ。今宵は戦も傷も忘れ、存分に寛ぐがよい」
そう言ってこの話は終いとなり、一同は和やかな宴を再開した。
皇帝は存分に酒を振る舞い、別室でもてなされていた〈アヒブドゥニア〉号の面々も呑んだくれの本領を十分に発揮したらしい。最後は「酒蔵が空になる」というバーブル帝の悲鳴によってお開きとなった。
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