5-24 鳥籠

 外の世界はどうなっているのだろうと、籠の中の鳥は空を見る。


 恋人が軍を引き連れて遠い異国の地に向かってから、ラスイルは不思議と葛藤も悲しみも忘れてしまった。

 監視役が運んでくる食事を残さず平らげ、たまには軽い運動もする。その他の時間は修道女がやるような内職仕事に精を出した。ビーズを糸に通したり、解れたカソックを縫い直す作業に不器用ながら取り組んだ。


 写本はだめだった。筆を操る才能は彼女には無かった。

 兄と呼ぶのも憚られる彼女の双子の片割れは、写本の腕に秀でていた。細い筆を器用に紙面に走らせて、刺繍のように精巧な飾り文字で埋めていくのだ。挿絵には最小限だが鮮やかな色を。何週間も掛けて完成する聖書外典の写本は、重厚な革の表紙で綴じて妹へ贈られた。

 ラスイルはそれが好きだった。しかし、今はベッドの下で埃を被っている。


 彼女は無心だった。無心で恋人が戻るまでの日々をやり過ごした。


 これまでだってそうだった。

 ずっとこうして閉じ込められて、ひたすら毎日を消化していたのだ。


 彼女が心を閉ざしたのは、もしかすると恋人の代わりに彼女を閉じ込めている、新しい看守のせいもあるのかもしれない。

 正体不明の〈研究所〉から派遣されてきたという新しい監視役は、年端もいかない美しい少女だった。


「ラスイル、会いに来たわ」


 メルジューヌ・リジュニャンは入口の錠前を外し、扉の鍵を中から閉めて彼女に言った。

 二重の施錠は牢獄のシンボルでしかない。囚人に脱獄する気が無いことはわかっているのに、少女は丁寧に二つの鍵を服の中にしまう。


「何をしてるの?」


 メルジューヌは黒髪を纏めて肩に落し、同色のワンピースをふわりと広げてベッドに座った。手にはいつもと違って大荷物。

 ラスイルは窓に凭れて振り返った。


「何も。わかっているでしょう。私は何も許されていないのよ」


 その言葉には棘がある。メルジューヌはそれに気付いているのかいないのか、無邪気に笑っただけだった。


「そんなことないわ。ねぇ、ラスイル。こっちに来て? 今日はいいものを持って来たのよ」


 看守と親しくしようなんて思わないラスイルには、メルジューヌが何を考えて彼女と接しているのかわからない。ラスイルは囚人、そして人質でしかないはずなのに、この少女は毎日新しい何かを彼女のもとへ持って来て、少しでも彼女の退屈を紛らわそうと無駄な努力をしているのである。


「何?」

「早く。来て?」


 ラスイルは苛立ちを抑えて少女の指示に従った。

 ベッドが軋み、ラスイルが纏うレースのワンピースが白い花弁を広げる。やや短い丈のために白い素足が突き出てしまう。

 メルジューヌが用意する衣装はラスイルには少々抵抗があるものばかりだけれど、少女は彼女を人形のように着飾らせることが好きなようだった。


 白い人形と黒い人形。

 自分にはない黒を持つ少女が羨ましくなって、ラスイルは無意識に彼女の黒髪に手を伸ばした。


「どうしたの?」

「……別に。私もブルネットに生まれたかったって思っただけ」

「染めてみたらいいんじゃない? タウォードも染粉を使ってるって聞いたけど。ラスイルは美人だから、きっと何色にしても似合うわ」


 突如、閉じ込めたはずの感情が牙を剥く。

 ラスイルは手の中に収めた黒髪を強く握り、少女の頭部を引き寄せた。怒りに燃える眼で、少女のどこまでも無邪気に輝く瞳を覗き込む。


 ラスイルは憎かった。

 なぜこの女はそんな無神経なことが言えるのだと。お前のせいで私の可能性は潰えたのだと、口にすることもできない程、彼女はメルジューヌが憎かった。


「どうしたの? ラスイル、怒っているの?」

「……白々しい。わざと言ってるの?」

「見たままを言っただけよ。そんな顔しないで。せっかくの綺麗な顔が台無しになるわ」


 黒髪を引っ張る。両手で鷲掴むように握り締め、生糸のような髪を引き抜かんばかりに乱してやった。

 それでも少女の表情は変わらない。不思議そうにこちらを見上げる淡い紫の瞳が、ラスイルの視界を支配する。


「ちょっと乱暴じゃないかしら」

「その顔やめてくれない? その目で見られると腹が立つ。あんたを見ていると不快な気持ちになるのよ」

「あら、悲しいわ」


 メルジューヌがラスイルの手首を掴む。見た目からは想像のつかない力の強さに思わず手を放したが、少女の黒髪はすとんと流れ落ち、何事も無かったかのように元の艶を取り戻している。

 ふいにラスイルは、彼女の瞳が酷く虚ろなことに気が付いた。輝きは失われていない。けれど、そこには確かに彼女の純真さとは相反するものがあった。


「……なんなの、あんた」


 ラスイルが囁く。

 メルジューヌはにっこりと笑って見せた。可憐で無垢なその笑みの、なんと薄ら暗いことか。

 反射的にラスイルは少女から身を振り解き、傍らに置かれたトランクをベッドから払い落とした。

 バタンと倒れる大きな音。メルジューヌの顔が悲しげに翳る。


「あんた、不気味だわ。もう私に関わらないで。私は囚人、あんたは看守。仲良しごっこなんてできないの。私を玩具にするのは今日で終わりよ」

「ラスイル」

「何もかも、あんたたちの思い通りにされるのはもううんざり! 私には自由なんて無いの。わかってるでしょ? あんたたちが奪ったんだから!」

「ラスイル」


 メルジューヌが彼女の頬を手で挟んでいた。

 再び覗き込まれる瞳。けれど今度は、先程以上に計りかねる色が増えていた。


「あなたを傷付けるような振る舞いをしてしまったこと、ごめんなさい。でもね、あたしはね、あなたの味方になりたいのよ。本当はあたしもあなたと同じだから」

「……何を言ってるの?」

「あたしにも、好きな人がいるのよ」


 ラスイルは呆気に取られて彼女を見た。

 いきなり何を言い出すんだ?


「……だけどね、結ばれないの、絶対に。笑っちゃうわね。あたしは彼に嫌われるようなことばかりしてるんだもの。憎まれてさえいるんだわ」

「メル――」

「でも、それでいいの。だってあたし、彼に殺されなくちゃいけないんだから。だけど、あなたは――」


 少女は次の言葉をゆっくりと、噛み締めるように、言った。


「――あなたは彼を愛してるんでしょう。愛されてるんでしょう? あたしは彼のためだったらどんなことでもできるわ。それなのにラスイル、あなたはこんな所に閉じ籠って何をしているの? どうして恋人に会いに行かないのかしら?」

「私はここから出られないんだって、看守のあなたが一番よく知っているはずよ」

「たかが鍵二つよ。あなたはあたしを殺してでも鍵を奪い取るべきだわ。あたしならそうするもの」


 ラスイルはじっとメルジューヌを見つめた。

 屈んだワンピースの襟元からふっくらとした双丘が覗く。鍵は白い肌の間で揺れていた。

 メルジューヌはラスイルの指がピクリと衝動的に動くのを見、その手を合わせるように絡め取った。


「あたしの事情が話せないから、きっとラスイルは信じてくれないわ。だけど、本当にあたし、あなたの気持ちがよくわかるのよ。あたしだって彼に会いたくて会いたくて、何年もずっとそれだけを鳥籠の中で夢見ていたんだもの」

「……どうして出て来たの?」

「それはきっとね」


 メルジューヌが笑う。

 今度こそ無邪気な、純真無垢な乙女の笑みだった。


「最期の選択は自分の手に収めたかったからよ」


 ラスイルは眉をひそめた。


「どういうこと?」

「――あたしはメルジューヌ。メルジューヌ・リジュニャン。あたしは彼に殺してもらうために出てきたのよ」


 ラスイルは何も言えなかった。

 少女はそれ以上何も語らない。ただ、どこか悲しげな笑みを浮かべているだけだ。


 やがてメルジューヌはベッドから立ち上がり、床に落とされたトランクを拾い上げた。困惑するラスイルの前に座り直し、トランクの中身を広げていく。それは真新しい化粧道具だった。


「さ、ラスイルは実験台になるの」


 指南書らしきものを膝の上に広げ、少女はラスイルの顔面を彩っていく。パフに噎せ、ビューラーに困惑しながら、ラスイルはメルジューヌに身を委ねた。


「目を閉じて」


 メルジューヌは薄い茶色のアイライナーで白い睫毛を縁取った。突き合わせた膝が時折触れる。瞼の違和感を堪えながら、ラスイルは緊張したメルジューヌの呼吸を聞いていた。


「……化粧は誰かに習ったの」


 ラスイルは訊いた。

 殺戮を悪とも思わぬこの少女に、それなのに彼女とは女友達らしい関係を築こうと努力しているこの少女に、ラスイルは興味を抱き始めていた。


「いいえ。知り合いにやってもらったことはあるわ」

「母親は?」

「いたけど」


 怒りも悲しみも無い声だった。


「そ。私には母親すらいなかったわ」


 メルジューヌが手を止める。ほっそりした指が顎をなぞり、ついと上を向かせた。


「でも、あなたには恋人がいる」


 小さな筆先に紅を乗せ、メルジューヌが小さく口を開けた。釣られてラスイルも唇を開く。口紅のひやりとした感触がこそばゆい。


「ねえ、聞かせて? どうしてラスイルはタウォードのことを好きになったの?」


 唐突な質問に狼狽えた。咄嗟に口を閉じようとしてしまい、メルジューヌにムッと睨まれる。ラスイルは顔が赤くなるのを感じながら、口紅が終わるのを待って呟いた。


「……タウォードはね、一度も私と兄さんを間違えたことがないの」

「そんなこと?」


 メルジューヌが怪訝そうな顔をする。


「そんなことでも、大きなことよ。昔は私もこんな格好しなかったし、今よりもっと似ていたから」


 化粧は仕上げへと進んでいた。全体を見てバランスを整えていく。ラスイルはされるがままになりながら話を続けた。


「ある日ね、タウォードに聞いたの。どうやって私たちを見分けているのかって。そしたら、『可愛い方がラスイル。そうじゃない方がセメイル』だって答えた」


 今でもその時のタウォードの顔を覚えている。

 そう答えてしまってから、「しまった」と口を覆ったのだ。


 あの照れた様子が可愛くて、気付けばその気持ちは恋へと育っていた。


「素敵ね、あなたの恋人」

「……ええ」

「はい。できたわ」


 メルジューヌはトランクの中から平たい包みを取り出した。出て来たのは裏面に花があしらわれた白く美しい手鏡で。それを両手で支えるように握り、ラスイルの前に突き出した。


「見て?」

「嫌。鏡、見たくない」

「見るの。仕上がりが気にならないの? ほら、見て」


 ラスイルは背けた顔を正面に戻し、閉じた瞼をそっと持ち上げた。


 鏡は嫌いなのだ。自分と同じ顔が映るから。

 それなのに人々はその顔を、彼女のモノではないと言う。


 私は兄の影なのだ。


 兄が日に体を晒し、妹が影になり。そうして二人は『神官』を造り上げなければならなかった。


 ところが、そこにいたのは。

 頬に指を這わせ、ラスイルは鏡に魅入った。アイラインは線が震え、付け過ぎたチークは下手くそと呼んだ方がいいのだろう。それでも、女性特有の柔らかな輪郭を強調するような化粧は、鏡の中に完全に個人として新しい女の姿を描き出していた。

 ラスイルという女を映した鏡。それがヒビ割れていることが皮肉に感じた。しかも、そのヒビは、彼女が払い落したから生じてしまったものなのだ。


「ラスイルは美人だから、お化粧なんていらなかったかもしれないわね」


 メルジューヌは鏡を手渡し、残りの化粧品をしまいながら言った。


「あまり上手じゃないのね」


 少女は傷付いた顔で振り返る。


「練習すればもっと上手くなるわ」

「そうね」


 ラスイルは鏡を膝に置き、その表面に指を走らせた。


「ごめんなさい。私が落としたから割れてしまった」

「気にしないで。また買ってくるから。その鏡素敵でしょ? 新しいのを手に入れたらラスイルにもあげる」

「……ねえ、それならこの鏡、貰ってもいいかしら?」


 メルジューヌは驚いた。


「構わないけど……割れてたら見難いんじゃない?」

「いい。これがいいの」


 ラスイルはそれを枕の下に滑り込ませた。きょとんとしていたメルジューヌだったが、すぐににっこりと微笑んだ。散らかした道具をトランクの中に放り込み、それを抱えて立ち上がる。反対の手にはラスイルの手を掴んでいた。


「ね、一緒に練習しましょ。教えてあげる。本も貸してあげる。だから、ね。会いに行くのよ」


 メルジューヌはラスイルを強引に扉の前に引き摺っていく。ガシャリと床に落ちた錠前を黒い靴が踏み締めた。


「ちょ、ちょっと! ダメ、メルジューヌ!」

「タウォードに会いたくないの?」

「でも、ここから出たら、タウォードに迷惑が……」

「彼だってラスイルに会いたいはずよ。大丈夫、あたしが付いてる。何も心配はいらないわ」


 二人の娘は手を取り合って廊下を駆け、見張りに立つスイス・ガーズを驚かせた。


 メルジューヌは走る。ラスイルは緊張で息を切らしながら、それでも体が喜びに奮えるのを感じていた。


 渡り廊下を抜け、飛び出した青い芝生。

 二人を迎える黒い機体が瞳に映った。


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