5-19 銃と祝福

〈アヒブドゥニア〉号は一手遅れてミングカーチを発った。

 徒歩で行く陸路組との約束に合わせて時間を調整しなければならず、とある無人島沖で停泊することになった。


 太陽が水平線に向かって落ちて行く。降り注いだ橙は溶けるように海面を這い、火よりも赤い青年の瞳孔を突き刺した。

 セメイルは背後に船員たちの足音を聞きながら、一人甲板の柵に手を掛けて立っていた。


 斜陽を直視することは不可能で、熱で重くなった瞼が情けなく垂れてくる。睫毛越しに見る海の青は薄っすらと赤く、色を持たない彼のことも染めてくれるように感じた。


 体が怠い。無理もないが。

 移動には何日も掛けているとは言っても、気候の変化に体が付いて行かないのだ。


 潮風が負傷した肩を冷やし、骨の芯からズキズキと痛い。患部を守るように手を添える。

 親友から受けた傷。

 時が傷口を塞いでも、二人の間に出来た傷跡は消えそうにない。


「あの、セメイル様」


 後ろから声を掛けられ、セメイルは振り返った。

 その船乗りは確かテオドゥロという名前だ。航海中に言葉を交わしたことはなかったが、ジャンルカと仲良くしている姿をよく見かけた。


「はい、なんでしょうか」


 そもそもこの航海の間、セメイルに話し掛けてくる乗組員は殆どいなかった。皆親切ではあったが、聖人という縁遠い存在にどう接していいのかわからなかったのだろう。


 この空気は慣れている。だから、セメイルは極めて上品に振舞うことに決めていた。


「あの、お願いがあって……いや、その」


 テオドゥロは見た目の野性的な印象に反し、少女のようにオロオロと視線を泳がせている。日焼けた顔がほんのり赤い。

 彼が用件を切り出せずに口を動かしていると、いつの間にか現れたジャンルカが肩を抱いた。


「わっ、ジャンルカ!」

「すみませんねぇ、セメイル様。こいつ、テオドゥロって言うんですがね? セメイル様の大ファンなんですよ」

「馬鹿野郎! そういうんじゃ……クソッ、あっち行ってろよ! 酔っ払い!」


 セメイルは屈んだテオドゥロの胸元に目を留めた。ヴァチカン教徒の証である十字架が下がっている。彼は優しく微笑んだ。


「テオドゥロさんはヴァチカン教徒なのですね」


 しがみ付くジャンルカを振り払い、テオドゥロが照れ臭そうに顎を掻く。


「オレはその、あんまり信心深い方じゃないんですけどね……ばーちゃんが熱心なヴァチカン教徒で。久しく会っちゃいませんが、電話するといつも神官様の話をしてました」


 ちくりと胸が痛む。


〈浄化〉の秘密は船長にしか教えていないはずだ。あの男に追及されたことがジクジクと良心を苛むけれど。やはりセメイルには、信徒に打ち明けることはできそうにない。


「そうでしたか……それでは情けない姿をお見せしてしまいましたね。がっかりなさったでしょう」


 するとテオドゥロは人懐こくニッと笑った。


「いやあ、船酔いは体質の問題ですから、こればっかりはどんな偉い人だってどうしようもないんですよ。むしろ、神官様もオレたちと同じ人間なんだなーって、ちょっと嬉しくなっちゃいました」


 セメイルは顔が紅潮していくのを感じた。その理由は自分でもわからないが。


「そんなこと言って、こいつ、ずっと緊張してセメイル様に話し掛けられなかったんですよ。見かけによらずシャイな男でねぇ。女を口説くのもいつも苦労して……ま、話聞いてやってくださいよ」


 ジャンルカがねちっこく絡み付く。テオドゥロは真っ赤になって彼を追い払おうとするが、面白がったジャンルカの抵抗もしつこかった。


「今話してるだろ! 邪魔すんなよ!」

「ケケケ、お前がいつまでも切り出せないから、助けに来てやったんだろ。ワッチが被る度にうじうじ相談してきたのはどこのどいつだ?」

「う、うるせえ! 余計なことばっか言うんじゃねえ!」


 二人のやり取りは終わりそうにない。セメイルは苦笑を噛み殺した。


「あはは……それで、私にお願いしたいこととはなんでしょうか」


 テオドゥロが咳払いで仕切り直す。


「すいませんね……えっと、お願いというのは、神官様に祝福をしていただけないかと」

「祝福を?」


 セメイルは驚いた。テオドゥロが慌てて手を振る。


「あっ、無理ならいいんです! オレみたいのが神官様にこんなこと頼むなんて、本当図々しいってわかってるんで! ただ――」


 続けた彼の微笑はどこか悲しげだった。


「こんなとこまで来ちまって、オレもどうなるかわかんねぇし。正直怖いんです。でも、オレが少しでもセメイル様のこと手伝ったんだって知ったら、ばーちゃんも喜んでくれるんじゃないかって思う。だから、ばーちゃんのためにも……お願いします」


 セメイルは言葉に詰まった。

 先程よりも強い胸の痛み。吐露してしまいそうな呵責。


 違うのだ。

 自分は決して聖人なんかじゃない。

 ――これから死地に赴くのは、他でもない自分のせいなのに。


 その時、彼らのやり取りを遮るように冷めた声がした。


「お取込み中すみません。セメイル様にお渡しするものがあって」


 航海士ミナギだった。

 相変わらず無愛想に、塩で汚れたレンズ越しにどこか腹立たし気な目でセメイルを見ている。彼はテオドゥロとジャンルカを極力視界に入れないようにしているようだった。


「護身用です。お持ちください」


 差し出されたのは拳銃だ。小さくて武骨な見た目の、玩具のような銃。しかし、その重みは殺人兵器としての役割を物語っている。


 セメイルは一歩退いた。


「……受け取れません」

「念のためですよ。何があるかわかりませんから」

「ごめんなさい、ダメなんです」


 ミナギはセメイルの手を掴み、問答無用で押し付けた。反射的に手を引こうとするが、強い力で放さない。

 抵抗するセメイルを見てテオドゥロが止めに入る。


「おい、ミナギ! やめろよ!」


 若い航海士は睨み付けただけだった。


「本当に強情な奴だな。嫌だって言ってんだろ!」

「敵地に丸腰では送り出せないでしょう。別に使えと言っているわけじゃない」

「そういう問題じゃ……!」

「二人とも、落ち着けって」


 とうとうジャンルカが仲裁に入った。

 こうした場面は航海中に度々見ている。他の乗組員と折り合いが悪いミナギの仲裁に入るのは、基本的に年長者であるジャンルカの仕事だった。


「ミナギ、神官様の事情も汲んでやれ。そういう役目は俺たちだけでいいんだ」

「わかってる」


 ミナギはジャンルカに、それからセメイルに顔を向けた。その目は冷たいが、どこか切羽詰まっているようでもあった。


「セメイル様のことは、船長が守ります。あの人は自分に何があってもあなたを守るでしょう。でも、絶対じゃない。船長にもしものことがあった場合は、ご自分の身はご自分で守っていただかなくてはならないんで」


 気まずい沈黙が流れた。

 ジャンルカが何かを言おうとし、結局何も言葉に出来ずに口を噤む。


 セメイルは険しい表情でこちらを見る若い航海士を見上げ、やがて、その銃を受け取った。


「銃は……撃たなくても身を守ることはできますから。構えるだけでも威嚇にはなります」


 不器用な彼なりのフォローなのだろう。航海士は辛そうに視線を落とした。


 セメイルは手の中の銃を見下ろし、ごくりと生唾を呑み込んだ。

 鉄の重さが右腕に痛い。


「セメイル様、こいつの言うことなんて聞かなくていいんですよ。あなたは祈り手なんだ」


 テオドゥロは尚も食い下がったが、セメイルは首を振った。


「私は、いつも守られてばかりでした。これ以上皆さんに甘えるわけにも、いきませんから……」


 手にした銃の重みは、友人が感じていた重責には到底敵わないのだろう。

 守られることしか知らなかった神官は、今、守ってくれる友を失って初めて気付く。


 怖いのだ。

 それは、とても。


「……脅すようなことを言ってすみません。わかってくださってありがとうございます」


 ミナギはぽつりとそう言うとその場を離れようとした。


「待ってください」


 セメイルが呼び止める。


「何でしょうか」

「どうか、私に祈らせてください――ミナギさんの分も。この船のすべての方のために」


 ミナギは躊躇いを見せた。が、大人しくセメイルの前に戻る。

 ジャンルカが二人を小突き、ミナギとテオドゥロ、三人が並ぶ。


 セメイルは跪く彼らの額に手をかざした。これまで何度もそうしたように。しかし、今度の祈りは〈浄化〉とは違う、本物の祈りだった。


 どうか、この者たちをお守りください。

 彼らが生きて家族のもとに帰れますように。

 彼らの帰りを待つ人々が、心穏やかに過ごせますように。


「この者たちに主の御加護がありますように。如何なる時も主が彼らと共におられ、彼らをお導きくださいますように」


 そしてどうか、彼らがこの祈りを信じてくれますように。


 セメイルは切に願った。


***


〈アヒブドゥニア〉号は緩やかに出航した。

 水平線に見える陸の輪郭が鮮明になってきた。目を細めれば高い灯台のシルエットが目視できる距離にある。


 船員たちは甲板に集い、船長が下す最後の命令を待っていた。

 そして、張り詰めた空気を割くように、藍色の剣士が進み出る。


「時間だ」


 一同の視線が彼に集まっていた。蒼い外套を肩に掛けた姿は堂々として、太陽が後光のように長身を縁取る。ひとりひとりを見据える青の双眸は達観した賢者のそれで、揺るぎない意志がもたらす安心感と任務遂行への確信が、見る者を力強く励ましていた。


「準備はぬかりないか」

「はい、船長」


 ミナギが答える。船長は顎を引いて頷いた。


「我々の任務は、派手に上陸して貴族軍の注意を陸路組から逸らすこと――謂わば、囮だ。戦闘は避けられない。相手は我々を殺そうと向かってくるだろう」


 ごくりと唾を呑む船員たち。武器を握る手に汗が滲む。


「私の命令は一つだ。戦況が少しでも悪化したらすぐに逃げろ。身を隠せ。最悪の場合は降伏しても構わない。陸路組が皇帝と接触できれば、我々も保護される。それまで何としてでも生き残るのだ」


 青い目に過る一瞬の苦悩。

 船長はサッと顔を背けた。


「……配置に付け」


 船員が持ち場へ散って行く。


 一人残されたセメイルは仁王立ちする船長の隣に立ち、共に海に浮かぶ帝国の輪郭をなぞった。


「私から離れるな」

「はい。足手纏いにならないよう努力します」

「安心しろ。お前だけは必ず王宮に送り届ける」


 セメイルは男の横顔を見上げた。気が付けば、薄らと微笑んでいた。これから死地に赴くというのに、心の底から微笑んでいた。

 船長はそれに気付いて無言のままに彼を見る。見つめ合った青の瞳はどこか不思議そうな色があった。


「セメイル」

「わかっています」


 朱い唇を引き結び。一瞬の笑みを眼差しに乗せる。


「……信じています、あなたを」


 セメイルは笑った。

 船長は笑わなかった。


〈アヒブドゥニア〉号の船長は陸を見据えて剣を抜いた。

 レイピアが空の赤と海の青を宿す。

 その切っ先を目指す海域に向けて、男は朗々と命令を叫んだ。


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