5-18 入国

 三人は早朝の野営地を音も無く抜け出した。

 虫の鳴き声、小鳥の囀り。人間以外の生き物は早々に起き出して太陽を迎える準備をしている。夜の冷気は朝露と共に天へと消えて、肌に感じる重たい湿度がこれからの気温上昇を予感させていた。


 見張りの目を盗むことは容易かった。快く面倒を見てくれた者たちを利用する形で紛れ込み、何も告げずに姿を消すのは些か心が痛んだが、今はそんなことに気を配る余裕は無い。〈アヒブドゥニア〉号と取り決めた時間に遅れるわけにはいかないのだ。


 それから約半日の道程を延々と歩く。


 国境に近付くにつれ道は広く平らになり、ちらほらと行商人の姿も見受けられた。服装だけでなく交通手段まで欧州とは違う。車やバイクといった交通手段は分が悪いのか、写真でしか見たことのない生き物が荷物を運んでいく様にエアロンとグウィードは興味津々。椿姫つばきだけは見慣れているのか、そんな二人を鼻で笑いながら一行は進んだ。


 太陽が頂点を過ぎ、そろそろ地平の彼方へ傾き始めた頃。

 三人は前方に現れた巨大な城壁に息を呑んだ。見上げれば顎が天を向く高さ。見張り塔が左右を固めた西ゲートは、帝国の名に相応しい堂々とした風格を持っていた。

 ゲートの前では開門待ちの商人たちが疎らに散っており、近付いて来る異国の三人組に怪訝な目を向けている。


 椿姫は二人を他の商人から離れた場所に連れて行き、木陰に腰を下ろした。


「うわー。どうします、あれ?」


 エアロンが額に手をかざし、聳え立つ城壁に目を細めた。


「堂々と入るよ」


 椿姫は胸元から紐を手繰り寄せた。パスポートケースの中には見たことのないカードが挟まっている。複雑な蔦模様が枠を描き、彼女の顔写真と丸みを帯びた奇怪な文字列が記されていた。


「それは?」

「入国許可証。これがあればゲートはパスできる」

「それ一枚で僕たちも通れます?」

「問題無いよ」


 エアロンはほっと溜息を吐いた。


「よかった。侵入しろって言われたらどうしようかと思った。さすがに無理だもん」

「壁はね、ダヤ周辺しか囲ってないんだ。その先に行けば簡単な柵と関所ぐらいで警備は薄くなるよ。もっとも、山やら河やらあって、自然の城壁が塞いでるんだけども」


 彼女はマントの裾を弄びながら儚い笑みを浮かべた。


「あまり知られていないけど、帝国なんて最早名ばかりなのさ。鎖国前より領地はずっと減っていて、辺境の部族は独立を望んでいるところが少なくない」

「ふーん」


 エアロンはグウィードに目を向けた。


「グウィード? どうした?」


 グウィードは木の幹に背中を預けたまま来た道を見、不安げに眉を寄せていた。エアロンの呼び掛けで振り返る。


「ああ、十字軍のみんなが少し気になってな。今頃俺たちのこと、探してるんじゃないかって」

「大丈夫じゃない? 荷物は綺麗に纏めて来たから、自分の意思で出て行ったっていうのは彼らにも伝わるよ。アグネスの旦那を探しに行ったとでも思われてるんじゃないかな」

「そうだよな……」


 エアロンは相棒の肩を叩いた。


「グウィードはあそこの人たちと仲良さそうだったもんねー。気になる?」

「ちょっとな。ラファエルとか、出身が近い奴が何人かいたから。同郷の好っていうのかな」


 俺の場合は故郷と言っていいのかわからないけど、と彼は小さく付け加えた。戦争で家族を失った彼が孤児院で育ったことは、エアロンも知っていた。


「いいなあ、そういうの。あっちの様子とか聞けた?」

「かなり被害が大きかった地域だから、周辺地域ほど復興が進んでないらしい。お前は? 出身地の手掛かりでも掴めなかったのか?」


 エアロンは爪先で地面に穴を掘りながら、拗ねたように頬を膨らませた。


「あるわけないだろ。覚えてるのは暗くて汚い瓦礫の山だけなんだ。仮に思い出せたって、僕と同じ境遇で生き延びた人間と仲良くなれるとは思えないね」


 眉間に表れる嫌悪。グウィードはさり気無く支えるように身を寄せた。


「……お前、何してたんだっけ?」

「肉屋」

「二人とも、お喋りはその辺にしときな。開門の時間だよ」


 鐘の音が開門の時を知らせ、商人たちが立ち上がる。

 一同が見守る中で重い扉が地響きのような重低音を轟かせて口を開いた。門扉が完全に開かれると、入国者たちはぞろぞろと列を成して進み始める。


「さ、行こうか。エアロン、銃は寄越しな」


 エアロンは差し出された右手を怪訝そうに見下ろした。


「なんで」

「身体検査があるからに決まってるだろ。没収されるよ。ホルスターも」


 渋々ハンドガンを手渡す。主任は二人から身を隠すようにマントを手繰り、ホルスターを太腿に装着した。


「もう一丁あるんですけど。弾も」

「諦めるしかない。弾もあたしが預かるよ。グウィードはナイフかい? それぐらいならなんとかなるかな。列の最後に入国するから、さっさと支度を整えるんだ」


 この国の言葉も風習もわからない部下二人は、不安で頭をいっぱいにしながら椿姫つばきの後に付いて行くことしかできない。できるだけ不審がられないように、それでも警戒は怠らないように、三人は手の平に滲む汗を握り締めて門を潜る。


 関所は薄暗い小さな部屋で、入るなり赤制服の兵士二人に取り押さえられた。制服といっても刺繍が見事な民族衣装を基調としているため、見慣れた軍服とはかなりイメージが違う。

 帝国人特有の掘りの深い顔立ちや黒々とした瞳に赤が映え、中々絵になる光景だ。それなのに、携えた近代的な小銃だけが異質な様相を呈していた。


 椿姫が入国許可証を差し出す。審査官が立ち上がり、写真と本人を何度も何度も見比べた。問い掛けは早口の帝国語。彼女は眉一つ動かさず、堂々とそれに答えた。


 兵士からの拘束が緩む。護衛二人は両手を頭上に上げさせられ、全身を乱暴に弄られた。グウィードのナイフに関しては押し問答が繰り広げられたが、椿姫主任の反論が嫌々受け入れられたようだった。


 兵士は彼女にも手を伸ばす。審査官と椿姫の口論が暫く続いた。


「……何言ってるか全然わかんないんだけど、いてっ」


 エアロンがこっそり耳打ちする。すかさず銃口が脇腹を突いた。


「主任が優勢みたいだな。なんとかなりそうだ」

「言葉が分からないことがこんなにストレスになるとは思わなかった。僕も少しは勉強してくれば……いてっ」


 口論は決着した。

 椿姫つばきは見事に相手をやり込めたようで、身体検査無しでゲートを通過した。続いてエアロンとグウィードも通される。すれ違いざまに審査官が三人を睨んでいた。


 関所を越えて、最初に反応したのは嗅覚だった。


 これまで通って来た道とも、ミングカーチの市街とも異なる初めての匂い。食べ物や生き物の匂いは心成しか強くなり、それを覆い隠す香の匂いが鼻を突く。強烈な刺激であることは間違い無いのだが、雑踏の熱や音と交わって不思議な調和を生み出しており、五感は抵抗なくそれらの全てを受け入れた。


 日干し煉瓦と乾いた木材が入り乱れる街並み。モザイク装飾が窓を縁取り、鮮やかな織物が頭上にはためく。余所者を怪訝そうに見上げる子供たちの眼差しさえ、ダヤの街が着飾る宝石のように見えた。


 三人はほうと感嘆の溜息を漏らし、その景色に暫し見とれた。

 椿姫が目を細め、赤い唇を弓形にした。彼女がこの国を訪れるのは初めてではないのだろうが、それでも絵の中ですら描き切れない異国の街並みは、赤い女の心を打つのであった。


「なんだ、結構すんなり入れたな」


 グウィードが人気の無い路地を覗き込み、どこか弾んだ声で言う。任務のことを一瞬忘れて、好奇心が顔を出したようだ。


 ところが、その言葉が返って椿姫を現実に引き戻す。彼女の顔から笑みが消え、睨むように彼を見た。


「これからだよ、グウィード。これからが大変なんだ」


 エアロンは曲がったネクタイを直しながら、腹立たしそうに関所を振り返った。門は閉められ、兵士たちが彼から没収した銃を指差して何か話している。

鉛色の視線が審査官とぶつかった。


 その男は受話器を片手に、誰かに電話を掛けていた。

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