5-17 身代わり
足下から這い上がる冷気。白の大聖堂は常に寒い。素材のためだろうか、構造上の問題だろうか。
しかし、タウォードは異形の悪魔が蠢く祭壇画を見上げる度に、そんな物理的な理由よりも遥か根底に渦巻く悪意の因果を感じるのだった。
「ご苦労。スベルディス隊長、神父フレデリック」
教皇ベルナルドゥス四世は切れかけた弦を擦るような声で二人を呼んだ。彼らは黙って深く頭を下げる。視界の隅に整列した黒い軍服が映っていた。
「先日の失態、忘れておらん。本来なら二度と本件に関わらせないところだが、どうしてもと推す声があったので、私も寛容さを見せることにしたのだ。両名には特別に名誉回復の機会を与える」
老人は渋るように低く唸るが、緩んだ口元をいやらしく吊り上げており、今日は随分と機嫌がいいらしい。
ぬらりと動く唇は色褪せた紫。疎らな頭髪もほぼ白く、黄ばんだ頭皮に散った染みが露わになっている。教皇という神聖な職に就く者には大層皮肉なことだが、まるで人間の心の醜さを全て体現したような醜い姿だった。隠しきれなかった悪意が老いの結果として身体に顕れた、とでも言った方がいいかもしれない。
醜悪な風貌は彼が公衆の面前に姿を現さなくなった原因の一つなのだろうと、教会内部では密かな噂になっていた。
「ワイズ中尉」
ベルナルドゥスが呼ぶと、軍服の男が進み出た。面識は無いが、いつからか教皇の周辺で姿をよく見るようになった男だ。
隣には男がもう一人。赤茶色の髪、シルバーフレームの眼鏡――曇天の記憶が頭を過る。
「お言葉ですが、両名の失態は失態とは呼べますまい。むしろ、私は称賛したいところですよ。結果的には予定通りですしね。さすがは教皇聖下、優秀な部下をお持ちです」
中尉は穏やかに微笑みながら、歯の浮くような世辞を並べ立てた。教皇がふんと鼻を鳴らす。
「旨い汁を吸ったのは貴様らだけだろうに。此度の策では我ら教会も恩恵に預かりたいものだが?」
「もちろんです。そのためにお二人にもご協力いただきましょう」
軍人は二人に向かってにこりと微笑んだ。
「アルフレド・ワイズと申します。どうぞよろしく」
握手は求められなかった。
「ご所属は?」
「そういったことはあなた方は知らなくてもいいと思いますよ。私はコーディネーターに過ぎませんから。あなた方に対しては、単なるメッセンジャーです」
ワイズは終始穏やかな表情を崩さない。信用ならない男だ、とタウォードは思った。
「早速本題ですが。スベルディス隊長、あなたにはアバヤ帝国へ行っていただきます」
「なんですって?」
「ヴァチカン教徒の民兵がアバヤ帝国周辺に集まりつつあるのはご存知でしょう。遠方にも関わらずこれだけの信徒が集まるというのは、神官様の求心力に脱帽するばかりですが、神官様を『取り返す』ためには少々心許ないのが現状です。そこで、我が軍から多少の軍備を提供させていただくことになりました。スベルディス隊長にはその指揮を執っていただきたいのです」
タウォードは耳を疑った。
「本当に、戦争を仕掛けるんですか? 完全な言い掛かりに過ぎないのに?」
「おや、何か記憶違いをされているようだ」
ワイズ中尉の目が光る。
「神官様は実際に『帝国に捕らわれている』んですよ、スベルディス隊長。そうですよね?」
タウォードは酸欠の魚のように口を動かすことしかできなかった。ワイズの口調は柔らかくも、有無を言わさない調子がある。隣にいるフレデリックが小さく鼻を鳴らすのが聞こえた。
自分の中の正義が音を立ててひび割れていく。
胡散臭い軍人の笑顔の背後に、教皇聖下の醜悪な顔が見えている。ヴァチカン教徒の信ずる絶対的な象徴が、退屈そうに片肘をついて。このやり取りに些かの疑問も憤りも感じずに。
タウォードにはもう何が正しいのかわからなくなっていた。
ただ、自分で道を選び取れる段階は、とうに過ぎてしまったことだけを自覚した。
「なぜ私が?」
「やはり十字軍ですから、先導するのは教会の人間であるべきです。であれば、神官様の近衛部隊長が指揮を執るのは自然なことでしょう。あなたの経歴は優秀だとお聞きしておりますし、部下からの人望も厚い。本件の深い事情もご存知だ。まさに適任です」
「しかし、私にはこのような経験は……」
「ご安心ください。その点は私が同行してフォローさせていただきますので。スベルディス隊長は現地の状況に目を配っていてくださればそれでいいのです」
タウォードは納得した。
「ああ。ただのマスコットなんですね」
中尉は微笑んだだけだった。
「詳細は移動しながらご説明します。さて、フレデリック神父、お待たせして申し訳ございません」
ワイズがフレデリックに向き直る。神父は無表情で相手を見ていた。
「神父様にお願いしたい件ですが、正直そのお体では戦地で使い物になりませんので……アバヤ帝国へは別のエクソシストに来ていただくことになりました」
フレデリックはカッと目を見開いたが、反論はしなかった。
「……私の後任は、どなたに」
「シメオン修道士ですよ。確かあなたの大先輩だとお聞きしましたが」
「ええ」
フレデリックは食い縛った歯の間から答えた。
「恩師です」
ワイズ中尉は両手を上げ、宥めるような笑みを繕った。
「失礼、ご気分を害するつもりはありませんでした。フレデリック神父には代わりにローマでお願いしたい仕事があります。実は最近、ヴァチカン領内から機密情報を不当に持ち出した者がいるらしいのです。神父様には是非犯人を突き止め、処理していただきたい」
「任務とあらば引き受けましょう。ですが、なぜそれをあなたが?」
濃紫の瞳は油断無くワイズを射抜く。
「そういったことはヴァチカン・カラビニエリの管轄かと思いましたが」
「持ち出された内容というのが、我々に関係のあるものでしてね。詳しくお話しできなくて恐縮ですが」
ワイズは怯むことも悪びれることもしなかった。
「犯人の目星はついているんですか?」
「クリストファー・イングリス、と名乗っている模様です」
聞き覚えのある名前。
タウォードは思わず息を呑んだ。それから躊躇いがちに口を挟む。
「イングリス神父? 彼はミラノにいるはずですが……」
「そう名乗っている、というだけです。例えば、資料室の入室名簿にその署名があるとか、進入禁止区域に立ち入ろうとした神父がそう名乗ったとか。実在のクリストファー・イングリス神父が今もミラノに在籍しているという事実はこちらでも確認済みです」
フレデリックは思案気に目を細めた。
「過去にもイングリス神父の名を騙る詐欺師がいましたね。確か、サンドーベの……ああ。隊長殿が取り逃がしたという、あの事件ではありませんか?」
タウォードはすかさず神父を睨んだ。悪意のある笑みを返される。
「ほう。それではスベルディス隊長、後程詳しくお聞かせ願えますか」
ワイズ中尉が祭壇の方を振り返り、中央に鎮座する玉座を見上げる。教皇ベルナルドゥス四世は法衣に埋もれるように沈み込んでいた。
「おや。陛下は眠ってしまわれた。話が長くなりすぎましたね。続きは別室で話しましょうか」
ベルナルドゥスは擦れた唸り声を上げて目を開いた。
「目覚めておるわ、愚か者め。私はもう下がるぞ。後は其の方に任せる」
それまで壁画の一部と化していた教皇の侍者たちが玉座に駆け寄り、折れそうな老齢の体を支えて出て行った。四人はそれを跪いて見送る。
さて、とワイズ中尉が手を合わせた。
「我々も移動しましょうか。フレデリック神父、ご同行願います。スベルディス隊長はご準備があるでしょうし、先にお戻りになっても構いませんよ」
「待ってくれ」
タウォードが呼び止める。
「私が戦地へ赴いている間、ラスイル――神官の影武者はどうなるんです?」
「ああ、そちらもご心配には及びません。我々の方で代わりの護衛を用意しております」
「護衛……どんな方ですか?」
「メルジューヌ嬢ですよ。面識がおありですよね?」
タウォードは怪訝そうな顔をした。すると、それまで黙っていたもう一人の男――サイモン・ノヴェルがやっと口を開いた。
「もちろん覚えているだろう。テレシア・メイフィールドという名前で」
「まさか」
エルブールの町、記憶が曇天の空へと遡る。
茨野商会と一戦交えたあの日、スイス・ガーズに一番の被害をもたらしたのは若い社長秘書だった。
同盟相手を私情で易々と裏切った少女に、彼の部下を惨殺した殺人鬼に、タウォードの中で憎しみが湧き上がった。
「ダメだ! あんな女をヴァチカンに入れるわけにはいかない! そもそもあの女の裏切りのせいで茨野の奴らに逃げられたんじゃないのか?」
サイモンは口角を吊り上げた。
「君に彼女を責めることはできないだろう。それよりも、自分の手で任務を完遂しなかったことを反省すべきでは?」
「まあ、スベルディス隊長が血迷う可能性は織り込み済みでしたから。メルジューヌ嬢の勝手な振舞いには悩まされますが、計画通りに進んでいるので問題はありますまい」
タウォードが黒い目を見開く。中尉は「おっと」とわざとらしく口を覆った。
「中尉、今なんて言った?」
「失言でした。忘れてください」
「忘れられるか。説明しろ」
詰め寄るタウォードを見上げながら、ワイズ中尉は無言で肩を竦める。代わりに答えたのはサイモンだ。
「君が私情に駆られて余計なことをする可能性を考慮してないと思ったか? 神官があそこで死のうが、生き延びようが、新聞に載る言葉が『暗殺』になるか『拉致』になるかの違いしかなかったということさ」
ワイズが後を継ぐ。
「メルジューヌ嬢の行いは、あなたの裏切りに対するお仕置きだったということで。彼女に精神的未熟さがあることは認めますが、問題ありませんよ、スベルディス隊長。彼女は影武者に手を出したりしません」
そして、取って付けたように付け加えた。
「――今のところは、ですが」
「……どういう意味だ」
「スベルディス隊長、あなたは今一度冷静に事態を見直すべきです」
ワイズはそう言うとタウォードの肩を掴み、グッと後ろに押した。柔和な表情に似合わず強い力で、その声には冷たい警告が宿っている。
「特に、あなたとあなたの恋人が置かれている状況について。私が干渉できることではありませんが、正直なところ、あなたはもうミスが許されない状況まで追い込まれていますよ」
「俺のキャリアのことならあんたには――」
「ヴァチカンはなぜ神官を処分する決断をしたのでしょうか? その目的は?」
言葉を遮られたタウォードは一瞬狼狽えた。
「……それは、神官が人気を集めすぎたからだ。ヴァチカン教の絶対は教皇聖下でなければならない。何より、セメイルの体はもう限界だった」
「人気絶頂下での殉教とあれば、信徒の熱は一気に高まるでしょう。神官の退場には悲劇が必要なのです。しかし、神官セメイルはまだ死んでおらず、行方もわからない――このまま彼を処分することができなかった場合、我々はどうすればいいと思われますか?」
心臓が凍り付いた。
眩暈のように歪み始めた視界の中で、フレデリックが笑っていた。「だから言ったでしょう」とその口が動く。
最も恐れたその答えをサイモン・ノヴェルが言い放つ。
「本物の神官セメイルが処分できなかった場合、教会は影武者に代わりをさせるだろう」
ラスイルが。
身代わりに。
「ふ、ふざけるな! そんなこと……っ!」
「自分で蒔いた種じゃないかね? 本物を逃がしたのは君なんだから」
タウォードはワナワナと唇を震わせることしかできなかった。
頭がガンガン鳴っていた。全身から汗が噴き出し、動揺が吐き気となって込み上げる。
ふらついた彼をワイズ中尉が支えるように寄り添った。
「どうか落ち着いて。要はこれから先、あなたがミスをしなければいいだけです。大丈夫、神官セメイルはきっと帝国に現れるでしょう」
「……なんでそう言い切れるんだ?」
「私の部下が秘密裏に帝国と接触していた形跡があるからだ。彼女と行動を共にしているなら、その可能性はかなり高い」
サイモンがそう言ったのを最後に、周囲の音が遠のいていった。
それからのことがタウォードの記憶には無い。気が付けば自室に戻っていた。
ラスイルの顔を見る心の準備は、できていなかった。
これが予感の正体か。
「俺が、あの時、セメイルを殺さなかったから……?」
恋人を自由にしたいと思った。
親友を生かしたいと思った。
そうした彼の罪無き希望が、すべて悪い方へと貶めていく。
彼は再び、夢の中の大聖堂に立っていた。
ここはフィレンツェ――歴史が紡いだ華の街。
裏切者が耳を塞いだ親友の次の言葉が、大聖堂の静寂へ消えていく。
ねぇ、タウォード。
ラスイルのことを頼みましたよ。
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