5-16 裏切りの見返り

 タウォードはそこで目を覚ました。


 神官セメイルが姿を消してから、彼の生活には大きな変化があった。教会がラスイルとの関係を認めたのである。

 もう夜中に人目を忍ぶ必要は無いし、彼女の双子の兄に身代わりを頼む必要もなくなった。二人は兵舎からも大聖堂からも離れたヴァチカン領内の一室で、ひっそりと暮らすことを許されたのだった。

 ラスイルは相変わらず鳥籠から出してもらえない。むしろ、今までよりも厳重に管理されるようになった。形式上は彼女の護衛役であるタウォードも、ラスイル共々ヴァチカン領内に幽閉されている。


 腕を回すと恋人が小さな声を漏らした。白い砂糖菓子のような肌でも、触れれば確かな温もりを感じる。悪夢の代償に自分が得たものを確認し、愛しさを噛み締めた。


「また嫌な夢を見たの?」


 ラスイルが彼の方へ寝返りを打つ。シーツに埋もれた彼女の微笑はこの上なく美しく見えた。額を付け、互いの呼吸を感じながら、タウォードはきつく目を閉じた。


「大したことないさ」


 恋人の手が頬に添えられ、あやすように小さなキスをくれる。

 彼女が腕の中にいること。その喜びが彼の不安を少しずつ拭い去る。それでもしつこく心の隅を引っ掻く「ソレ」の正体が、タウォードには気懸りだった。


 現状は概ね彼の想定通りだと言っていい。セメイルは生きている。茨野商会は――結果的にそうなっただけかもしれないが――彼の依頼を遂行した。

 セメイルを殺し損ねたことについては教会から多少のお咎めがあったものの、アバヤ帝国を持ち出してきた異常な速さを考えれば、はじめからどう転んでもいいように計画されていたのだろう。


 しかし、毎夜の悪夢が彼に何かを訴えている。忘れようと努めれば努める程、心の内を引っ掻く傷は大きくなっていく。


「兄さんへの……罪悪感?」


 ラスイルが問う。彼女の眼は真っ直ぐに彼を見つめていた。


「忘れていいのよ。私たちが協力しなくたって、教会は計画をやめなかったと思う。むしろ、あなたの機転があったからセメイルは逃げ延びることができた。あなたが自分を責める必要なんて無い」

「……わかってる」


 ラスイルの言う通り。

 そう何度も言い聞かせてはいるのだけれど。


「それとも、アバヤ帝国のこと?」

「まさか。それこそ俺のせいじゃない」


 帝国に対する良心の呵責は一瞬だった。戦争は良くないことだと通り一遍の感想を抱いただけで、あまりに遠いこと過ぎて実感が湧かない。それよりも、やっと手にした恋人との時間の方が大切だった。

 無意識のうちに眉間に皺が寄っていた。少しだけ呼吸が苦しくなる。


「あれは夢じゃない――『予感』なんだ」


 ぽつり。

 自分でも思ってもみなかった言葉が漏れた。


「予感?」

「なんでもない」


 追及しようとする恋人の唇を奪い、タウォードは考えるのをやめた。

 見て見ぬふりをするのが一番いい。

 自分が犯し続けた罪も、裏切ってしまった親友のことも。


「……タウォード?」


 ラスイルが問う。その声が苦しそうに聞こえ、タウォードはハッと我に返った。

 手には恋人のほっそりした白い首があった。

 脈を感じる。生の温もりがそこにある。


「あなたの手、冷たい」

「あっ、ごめん」


 ゾッとした。


 なんで俺は彼女の首に手をやった?

 俺は一体、彼女に何をしようとしてたんだ?


「温めてあげてもいいけど、こっちの方がいいと思わない?」


 ラスイルが彼の手を取り、しなやかな肢体へと誘った。抗いがたい衝動が、再び彼に愛しさ以外のすべてを忘れさせる。

 が、二人の世界に没頭することは許されず、内線電話がけたたましくタウォードを呼んだ。

 教皇の侍者が陰気な声で告げる。


『教皇聖下がお呼びです。十分後に白の聖堂へお越しください』

「ちょっと行ってくる」


 タウォードは制服を着こみ、ベレー帽を被り直しながら言った。


「聖下?」

「ああ。泣きながら帰ってきたら慰めてくれよ」

「仕方ないわね。頑張って」


 ベッドの上でラスイルが手を振っている。タウォードは笑顔を返したが、扉を閉めた後の表情は硬かった。



***


 侍者は大聖堂へ至る廊下の入り口で待っていた。彼を見るなり、喪に服しているような沈痛な面持ちで頭を下げる。齢は然程いっていないだろうに、白髪の多い髪が印象的だった。

 末広がりの頂上、金装飾の豪奢な扉を目指して階段を上る。

 左右の階段が一つに交わる踊り場にて、タウォードは見覚えのある神父と鉢合わせした。濃紫の瞳がねっとりと彼を見る。端正な顔が下品な笑みで崩れれば、赤い舌の上で銀のピアスが躍った。


「これはこれは、隊長殿」


 タウォードが睨む。


「フレデリック……もう出てきやがったのか。てっきりまだ病院のベッドにしがみ付いてめそめそ泣いてるかと思ってたぜ」


 神父の装いが以前と違うことはすぐに気付いた。相変わらず悪趣味な装飾品で着飾ってはいるが、肩を覆うケープを身に着け、たっぷりと布を使ったカソックは教区の神父のそれと変わらない。それはつまり、彼が本来の公認エクソシストとしての任務ではなく、一般聖職者の職務に従事していることを物語っていた。

 もう一ヵ月近く経つ。エルブールでテロリストに負わされた怪我は、まだ完治していないらしい。

 ところが、悪意のある笑みを浮かべる元護衛隊長に対し、神父は穏やかに微笑んでみせたのだった。

 聖職者らしい慈愛に満ちた笑み。それは一瞬にして掻き消され、吐き出した言葉と共に悪魔が顔を出した。


「裏切者の後始末があるものでね、あまりゆっくりしていられなかったのですよ。どこぞの無能なスイス・ガーズのせいで、困ったことになりましたからねぇ?」

「はっ。無能なエクソシストが仕留め損ねたのが原因だろ? 神官もテロリストも、未だ行方は掴めていないそうじゃないか」

「あなたの思惑通りというところでしょうか。本当に卑しい裏切り者だ。鳥籠にいる彼女にも、あなたがどれ程非情で無責任な人間なのか、教えて差し上げた方がいいかもしれませんねぇ?」

「なんだと? 真正の下種野郎が何言って――」


 フレデリックは急に黙り込むと、しげしげとタウォードの顔を覗き込んだ。


「……それとも、本当に気が付いていないんですか? 何も理解せず、この事態を引き起こしたと?」


 間を置いて、フレデリックが腹を抱えて笑い出す。

 吹き抜けに神父の笑い声が反響し、タウォードの神経を逆撫でた。


「まさかここまで愚かだとは! 犬のように盛ってばかりいるせいで、ついには頭も空っぽになりましたか? この後どういうことになるかくらい、少し考えればわかるでしょう!」


 込み上げた憎悪が瞬間的に右手を駆け抜け、気が付けば神父の襟元を掴んでいた。フレデリックは笑い過ぎて涙の滲んだ瞳を細め、優しくそっと囁いた。


「神前ですよ、隊長殿?」

「黙れ。悪魔が神を語るな」

「悪魔はあなたでしょう。早く気付けるといいですねぇ……嗚呼、あなたの裏切りを知った時の彼女の顔を見るのが楽しみで仕方ない」


「スベルディス隊長、フレデリック神父。そろそろお時間が迫っております」


 ハッと振り返ると、教皇の侍者がすぐ傍に立っていた。タウォードは渋々手を放し、二人は不自然な距離を空けて共に階段を上って行った。

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