5-15 親友の頼み

 夢の中まで罪悪感に苛まれるなんてな。


 花の都の雑踏の中で、タウォード・スベルディスは小さく呟いた。

 日々彼を蝕む葛藤から逃れるために目を閉じたのだから、目を開けたその場所が花の都フィレンツェであっても、何ら驚きは抱かなかった。


 右を見る。親友が少女に絡まれて戸惑っている。今ではもう懐かしい、白い横顔。それと瓜二つの顔を持つ女を腕に抱いたが、彼には二人が赤の他人程に異なって見えていた。

 自分は彼を助けに行かなければならない。鉛のように重たい足を踏み出して。手にしたパニーニを彼に届けるのだ。


「セメイル」


 肩を叩く。親友は名前を呼ばれたことでギクリと身を縮め、それがよく知った相手だと気付くと安堵の溜息を吐いた。緊張の表情が信頼の笑顔へと変わっていく。

 その笑みはあまりに清らかだ。裏切者に向けるような笑みじゃない。


「探したんだぞ。勝手にうろつくんじゃない」


 細い腕を掴み、建物の陰へ連れて行く。痩せた胸に買ってきた包みを押し付けた。


「信徒にばれたらどうするんだ。結構心配したんだからな」


 台本を読み上げるように、タウォードは言う。

 おかしいな。そう言った当時は心からの言葉だったのに。

 今となっては苦痛でしかない。擦れた声が不自然に震えた。


「すみません。つい見とれてしまったもので」


 申し訳なさそうに目を伏せる。包み紙を捲り、手渡された昼食を確認したセメイルは、嬉しそうに頬を染めた。


「お野菜たっぷりですね」

「サラミが入ってる」

「えっ。私、お肉はあまり……」

「食べられないわけじゃないだろ。店の人がご厚意でサービスしてくれたんだぞ。それを断る方が主の御前で恥だ」


 タウォードは自分の分に齧り付き、肉の塩分と穀物の甘み、チーズの鼻に抜ける香りを愉しんだ、はずだった。パンは灰の味がした。


「大聖堂、見学できないでしょうか……」


 セメイルは上品にパニーニを一口齧り、咀嚼しながら鐘楼を見上げた。


「神官ルックなら顔パスで入れただろうけどなぁ。御忍びで来てるんだから、あの行列に並ぶことになるぞ」

「いいんです。観光客の目線から見てみたいので」


 ぐにゃりと歪み、場面が変わる。

 二人は大聖堂の中に立っていた。高い吹き抜け。ファサードの煌びやかな装いに反し、内部は随分と簡素に思えた。

 セメイルが足元のモザイク画と遥か頭上のステンドグラスを交互に見、色の無い自身に七色の光を投影して微笑んでいた。


「ステンドグラスって綺麗ですね」


 白い手の平に青を、赤を、緑を乗せる。


「パリには三方がステンドグラスで覆われている教会があるらしいな」

「本当ですか? いつか行ってみたいですね」


 祭壇前まで来ると、セメイルはぽつりと呟いた。


「我儘を言ってすみませんでした」

「我儘? ……ああ、今日のことか」

「はい。どうしても自由にフィレンツェの街を歩いてみたかったもので……身代わりになってくれているラスイルには、うんと豪勢なお土産を用意しなければなりませんね」


 ラスイル――愛しいその名前。

 何故か胸の奥がチクリと痛む。


「俺が見繕っとくよ」

「フィレンツェは革製品が有名だそうですが」

「じゃ、手袋」


 しかし、彼は手袋を買わない。店に行ったら、「本人が来ないと丁度いいサイズがわからない」と言われてしまったからだ。

 縁に花のような刺繍がしてあって、ほっそりとしたシルエットが美しかったのに。代わりに購入した洒落っ気の無い小物入れの包みを抱え、彼女がこの手袋をはめることはきっと叶わないのだろうと、ショーウィンドウの前で何度も立ち止まったのを覚えている。


 タウォードは献金箱に小銭を入れた。


「次は美術館?」

「いいえ、もう一ヵ所教会に」

「教会なんて、お前はそこに住んでいるようなもんだろうが。せっかくなら違うもの見ろよ」

「まぁ、そうかもしれませんが……」


 見る人によってはグロテスクにも見えるイコンを見上げ、セメイルは赤い唇を引き上げた。

 何がそこまで彼を幸福にするのだろうかと、タウォードは疑問に思う。

 今思い出しても彼にはわからないのだ。わかってしまうのが怖いから。


「教会は私の家です。主の家。信徒の家。そして、帰る場所の無い者の家です。私はこの家で育ち、そしてこの家を守る役目を仰せ付かりました。ですから、私が自分の『家』をできるだけ多く見回りたいと思うのは、きっと当然のことなのです」


 はあ、そんなもんかねぇ。

 さも興味が無さそうに呟いたら、案の定親友は少しだけ眉を寄せ、指を突き付けて彼を叱った。拗ねたような、そのくせどこか楽しそうな顔で。

 あなたもスイス・ガーズなんだから同じ使命を帯びているはずでしょうとかなんとか、そんなことは思い出す必要も無い。


 じゃれ合いの記憶は唐突にそこで終わる。

 ここまでが、彼が彼に課した悪夢なのだ。


 口を噤んで居住まいを正すセメイルの、次の言葉を。


「ですが、タウォード。あなたには別の使命がある。あなたには『家』を作ってもらいたいのです」


 家族ですよ、タウォード。セメイルが笑う。

 それは私にはできないことですから、と。


「やめてくれ」


 礼拝堂の蝋燭の火が一斉に消えた。太陽は闇に潜り、ステンドグラスが溶けて消える。地上のどこかもわからぬ暗黒の世界で、タウォードは白い親友の喉首を捉えるのだ。


「その言葉は聞き飽きたよ」


 親友を裏切ったあの日から一ヵ月。毎日毎日、同じ夢を見続ける。

 痩せた体を押し倒し、膝で地面に押し付けて。驚く程抵抗しないその首を絞めた。


「悪く思うな、お前の言う通りにしたんだから。お前が家族を作れって、言ったんだから」


 捲し立てた自己弁護が泡となって口の端に溜まる。親指が喉笛を圧迫し、細い骨が砕ける鈍い感触がした。妙に柔らかく熱い皮膚が気色悪い。

 ぐるりと上を向いた目玉はもう柘榴の色じゃない。今度のは青。乱れた髪も、茶色へと変わっている。


 タウォードは絶命した男の体を引き摺って、積み重なった死体の山に投げ入れた。


 次の処分品はどれだ?

 ああ、あの女。

 この頃だったか、セメイルが自分の行いにはっきりとした疑念を抱いたのは。


 女の黒髪を払い除け、激しく痙攣する体を地に横たえる。世界が目まぐるしく回転し、そこは修道院の塀の外。サンドーベの森の中だった。


 いつものように首を締め、いつものように〈浄化〉の後始末。


「俺は穢れた人間だったんだよ。最初から薄汚い裏切者だったんだ」


 女の脈が止まる。全身をどっと疲労が襲い、タウォードは女に跨ったまま座り込んだ。


 見下ろした両手。

 銃を取り、親友を捨て、恋人を抱き寄せたこの手。


「守るさ。どんなにこの手を汚したって、お前を裏切ることになったって、守るさ。だってお前の、大切な親友の頼みなんだから」

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