5-10 ミングカーチにて
副主任エアロンは夢の淵から引き摺り出され、喉の奥を擦るような呻き声を漏らした。ベッドに入ったまま上体を仰け反らせ、腰骨を開くように伸びをする。脱力の後、枕に頬を押し付けて片目を開ければ、濁った瞳にぼんやりと光が走った。
アバヤ帝国の国境から西。かつてキャラバンの駐屯地として栄えた交易の町、ミングカーチ。滞在してもう四日になる。
呪文のような耳慣れぬ言語は脳が雑音と一括りにし、町中に溢れたお香の匂いが嗅覚を麻痺させた。この町で彼が愛したものは、時折漂う香辛料の香りと自らを束縛して離さないベッドの寝心地だけだった。
聖オークウッド総合病院を出発してからの二週間――いや、もうじき三週間になるだろうか。交通機関を乗り継いでの旅路は決して楽ではなかった。移動続きの毎日で、体のあちこちが痛くなる。
それでも、今までの日常がハードワークの連続だっただけに、車中や安宿でぐっすり眠ることができるこの日々は、過労死寸前の肉体には大いなる療養となっていた。
エルブールで彼を苛んでいた悪夢は、何故かあの日から一度も見ていない。
むしろ、彼の心を蝕んでいたものは、苦手な女上司と二人きりという気まずさから積み重なる心労だった。
エアロンは肘を付いて起き上がり、かと思えば枕を慈しむように両手で抱えた。蹲るような姿勢から、猫のように伸びをもう一度。
睡眠が恋しい。寝ている間は嫌な考え事も、上司との会話もしなくてすむ。
しかし、肉体はもう十分だと彼から睡魔を遠ざけた。
「おはよう、エアロン」
部屋の入り口から凛と張った声がする。
ベッドに座り込んだエアロンは、寝癖の激しい前髪の下から嫌そうに女上司を見返した。
土地柄に合わせ目元のラインを更に濃く引いた顔には、現地人のような趣は無いけれど、美しい。現地調達の民族衣装もやはり彼女は赤を選び、胸元を煌びやかな刺繍が覆っている。
「ちょうど起きてくれてよかったよ。食事は?」
「いただきます。う、あー……よく寝た」
エアロンはシャツのボタンを留めようと手を掛け、自分がワイシャツじゃないことに気付いて頭を掻いた。普段タイトな衣服を好む彼には、通気性に優れたカミーズなるシャツも、ゆったりしたシャルワールというズボンも気に喰わない。
試着した初回に椿姫が大笑いしたことがトラウマになっているらしく、民族衣装を着る羽目になっている間は、絶対に外に出ないと決めていた。
主任は愉快そうに目を細め、テーブルに買ってきた食品を並べた。乱暴に紙に包まれた揚げパンが主食らしい。まだ熟れていない果物もいくらかあった。
エアロンは大人しく主任の向かいに移動し、虚ろな表情で揚げパンを齧る。
「そんなに口に合わないのかい?」
「朝から揚げ物ってどうなんです?」
「昼だよ。カレーの類が食べたいなら外に食べに行けばいいじゃないか。言葉がわからないならあたしが付いて行ってやるって言ってるだろう?」
「やだ」
エアロンは膨れっ面のまま昼食を平らげた。
この道中、エアロンは主任に関して自分が殆ど何も知らないことに気付かされた。
知り合ったのは彼の入社と同時だから、関係はそんなに浅くない。副主任昇格後の数年間は更に関わる機会が増えた。それなのに、よく考えてみれば自分は彼女のフルネームも知らなければ、なぜ遠い異国の人間が茨野商会などという胡散臭い会社に身を捧げることになったのかも知らないのである。
エアロンは鉛色の瞳で上司を盗み見、不可解な現地語新聞を読む彼女を睨んだ。
「主任、アバヤ帝国に何の用があるんです?」
「何が?」
「何がじゃありませんよ。セメイルが行きたいなんて言う前から、本当は帝国行きを計画してたんでしょう? そろそろ本当の目的を話してくださいよ」
椿姫は悪びれもせず肩を竦めた。
「なんだ、気付いてたのかい」
「そりゃおかしいと思いますよ。急な話だったはずなのに、随分と用意がいいですからね。大体あんた、なんで帝国語読めるんです?」
「詳しい話は〈アヒブドゥニア〉が合流してから説明するけどね。元々あたしはアバヤ帝国の現皇帝と繋がりがあったのさ」
エアロンはしかめっ面をしている。
出張ばかりで全然本社に居付かないと思えば、実は大層なことをしていたらしい。
「この間の騒ぎの前、長期出張に出るってあんたに言ったろう? 本当はあの時に一人で帝国に行くつもりだったんだが、諸事情で日を改めざるを得なくなってね。結果的にこうしてあんたたちの手が借りれることになったんだから、あたしとしては都合がよかったよ」
「だから神官の頼みをあっさり了承したわけですか……あんなの連れて行って大丈夫ですかね。子守が大変ですよ」
「神官様のことは〈アヒブドゥニア〉に任せるから大丈夫だと思うけど」
「それ、押し付けって言うんじゃないですか? 船長かわいそぉー」
バナナを貪りながらせせら笑うエアロンに、椿姫はとぼけた顔で首を傾げた。
「陸路組のあんたはあたしの面倒を見るんだよ?」
「げっ、そうだった」
アバヤ帝国への侵入について、椿姫主任の頭の中には一応プランが既にあるらしいのだが、まだ詳細は聞かされていなかった。わかっていることは、陸路と海路で二手に分かれるということだけだ。
主任は新聞を畳むと、ふと思い出したふうを装って言った。
「ところで、その船長なんだけどね。〈アヒブドゥニア〉号が港に着いたよ」
「ごふっ」
エアロンがバナナを喉に詰まらせて咽る。椿姫は呆れ顔で甘いお茶を注いでやった。
「ちょっと! なんでそれを先に言わないんだ?」
「ついさっき入港したんだよ。今市街に向かってる。そのうちここへ来るよ」
女上司は顔に似合わずケタケタと笑い、卓上に散らばった干し棗を一粒摘まんで食べた。部屋を出ながら去り際に振り返る。
「その情けない姿を相棒に見られたくないんだったら、さっさと身嗜みを整えな。あたしは下の営業所にいるから」
残されたエアロンは二本目のバナナを咥え、不機嫌そうに棗を指で弾いた。
〈アヒブドゥニア〉号の到着か。
それは友人との再会でありながら、命を懸けた任務の始まりだった。
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