5-9 船上の特訓
航海生活は想像していたよりも遥かに厳しいものだった。
木造船〈アヒブドゥニア〉号は随分と手が加えられており、生活する上での不自由はそれ程感じなかった。しかし、それはあくまで設備面における話であり、海に波がある限り、船酔いという最初にして最大の壁は取り払えるものではない。
セメイルは船との相性が非常に悪かった。波は彼の内臓を絶え間無く掻き混ぜ、吐き気で熱の籠った頭に脱水症状が追い打ちをかける。祈る気力も無くベッドに横になる日々が続いた。
船乗りたちは船酔いに対して冷淡であった。
「酔ったら最後、寝てるしかないんすよ」
様子を見に来た若い船乗りがすまなそうに笑う。
「お薬とかないんですか?」
「ありますけど、船長から禁止されてるんであげられないっす」
セメイルは心の底から船長が嫌いになった。
少し水を飲んでは吐きを三日三晩繰り返す。
その頃になって、薬が禁止されている理由を知った。長い航海の場合、揺れに慣れる前に体が薬に慣れて効かなくなってしまうらしい。
「船酔いは吐いているうちに体が慣れて克服できます。薬飲んでるとそれが遅くなるんで、後々のためにも最初は諦めて酔ってるしかないんす」
実際、四日目を過ぎると普通の食事が取れるようになっていた。少しでも波が高くなるとすぐに気分が悪くなることは変わらないものの、段々と耐えられる時間は長くなっていった。
狼も陸上の生き物であるはずだが、さすがは我らがグウィードである。彼は強靭な三半規管の持ち主のようで、船酔いは経験したことすらないらしい。船の仕事はわからないなりに船員たちに混じって働いていた。
心地よい凪の日、セメイルは恐る恐る自室から出た。なんだか外が騒がしい。その音の正体が気になって、彼の足は自然と甲板へ向かった。
日差しが眩しい。潮風は緩やかに髪を梳き、新鮮な空気を肺に運んだ。
輝く水面と遥か彼方に見える陸の影。船酔いさえ無ければこんなに美しい景色が拝めるのだ。
そして、その目は甲板に広げられた陣列に釘付けになる。
十人程の船員たちが二重の円を描いていた。それぞれが手にボウイナイフやカットラス、サーベルなどを握っている。構えた横顔は真剣そのもの。目には決意と焦燥を宿らせて、前方を睨む。
中央に立つのは藍色の剣士だ。動き易い軽装の船長が抜身の長剣を煌めかせ、油断無く部下たちを見回していた。
「……来い」
低く澄んだ船長の声。
一同は互いに目配せを交わし、深く息を吸い込んだ。
初めに三人がサーベルを手に切り込んだ。
船長はその切っ先を身を翻して躱し、突き出された一本にエッジを使って打ち合わせる。刃を支点に滑り込むように中心に押し入れば、弾みでサーベルの切っ先がぶれ、攻撃者のバランスが大きく崩れた。
この防御の一瞬は、同時に長剣使いの隙でもあった。長剣の先がサーベルに当てられているその間に、数本のナイフが細い肢体を貫こうと突き出される。
だが、船長はそれをサーベル使いの体を盾にすることで躱し、続くカットラスの奇襲をヒルトの曲線に沿わせて受け流す。
複数人を相手に四方八方へと防御の技を繰り出す剣士の姿は、まるで優雅な舞を踊っているようにも見えた。
交戦は長かった。
多勢に無勢という状況下、一人を攻撃で押し返しても、次の相手をしている間に立ち上がってしまう。それでも、藍の剣士は着実に一人ずつ戦闘不能に追いやり、部下の切っ先が彼の体に触れることはなかった。
武器を落とす、または船長に急所を突かれたら終わりというルールらしい。
今、一人のサーベル使いの護拳を器用にヒルトの一部で絡め取り、船員の手からサーベルを弾き落した。
その傍ら、青の両眼は左後方から迫るナイフの存在を見逃さない。返した右手を勢いよく左にスライドさせ、体を捻ると同時に柄頭でナイフを持った腕を強打。迫る切っ先をものともせず、大きく傾いた男の胴体に右膝で止めを刺した。
「お。やってんな」
瞬きも忘れて魅せられていたセメイルは、グウィードの声に悲鳴を上げた。
グウィードはそんなセメイルを不思議そうに眺め、彼を隅のデッキチェアに連れて行った。二人並んで腰掛ける。
「船長さん、凄いですね。あれだけの人数を一人で相手にするなんて……しかも、全然圧されていない」
「相変わらず見事だな。でも、あのおっさんが本気を出すとあんなもんじゃないぞ」
「これで?」
セメイルは驚きに目を見張る。
思わず目で追った船長の舞はそろそろ終わりを迎えたようだ。交わしたサーベルをカットラスと打ち合わせ、彼らを軸に身を翻す。
船員たちとは時間の速さが違うのではないか。そう疑いたくなるような速さで背後を取り、二人纏めて蹴り倒した。
「ああ。あれは船員たちに合わせて手加減してるな。〈アヒブドゥニア〉は銃装備が基本だから、剣術に掛けてはまだまだ未熟なんだよ。ほら、ちょっと注意して見てみろ」
グウィードはそう言うとセメイルに体を寄せ、特訓に励む男たちを指差した。
「一見船長がすべて倒しているように見えるだろうけど、本当は船員たちの軌跡のブレを利用して自滅を促しているだけだ」
言われてみればその通りだ。先程二人纏めて蹴り倒したように、相手の勢いを受け流すことで別の攻撃を防ぐようにしている。
自分の勢いを制御できない船員同士がぶつかり合い、二人が体勢を立て直す隙を突いてケリを付けるパターンが多かった。
「ああ、わかったような気がします。力を入れすぎてもいけないのですね?」
「そうだな。やっぱりどんな武術も緩急が大事なんだろ。制御しきれない力は、結局自分の首を絞めるんだ」
「なるほど。私も護身術は一通り習わされましたから、そういった心得は理解があります」
二人が見ている前で、ついに船長が最後の一人を船縁に追い詰めた。長剣の先端がぴたりと喉元に当てられる。荒い息を吐いてジャンルカがナイフを落とすと、船長も剣を引いた。
「参りました……」
「前回より身のこなしはよくなった。だが、まだ力任せに突っ込んで行く癖がある。単に振り回せばいいというものではない。力を抜け、ジャンルカ」
「はい、船長」
船長は甲板の中央に戻り、座り込んで休憩を取っている部下たちを見回した。
「慣れない武器は扱いにくいだろうが、帝国は未だにタルワールと呼ばれる片刃刀が主流だと聞く。タルワールの攻撃は切り払う動作が主だ。攻撃範囲が広いため、大きな身振りで攻め入れば返り討ちに遭う。接近戦に持ち込まれた時のために対策を身に付けろ」
船長は自身の長剣を垂直に構え、一同に見えるようにゆっくりと左右を向いた。
刀身が跳ね返した初春の太陽光を金のヒルトが呑み込んで輝く。それは足元に転がったサーベルやカットラスよりも遥かに凝った装飾の、美しい代物だ。八十センチ近い両刃は、先端へ近付くほど鋭利に尖る。
「私が操るレイピアは突きを基本動作とする決闘用の剣だ。タルワールと用法も形も異なる。特に、打ち合った時の重みはかなりの違いがあるだろう。とは言え、防御に関しては私のレイピアが勝る。私の防御を掻い潜り、私に一太刀でも浴びせてみろ。それができたら次は防御の術を教えてやる」
船員たちはよろよろと立ち上がり、再び陣形を描いて藍色の剣士に狙いを定めた。
突然、マストの陰から男が飛び出し、無防備に空いた船長の背中に襲い掛かった。腰を低く保ち、握り直したのはライフル銃の茶色い銃身。振り回すには少々重いそれを槍のように真っ直ぐ構え、藍の剣士へと突っ込んで行った。
忍ぶ気も無いその気配に当然剣士は反応し、左斜め前方へ大きく跳ぶことで避ける。着地と共に体を捻って振り返り、長剣のエッジを銃身に当てた。すかさず手首を上方へ返せば、交差するように下部へ滑り込んだ刀身がライフル銃を跳ね上げる。
後退の着地に失敗した奇襲者は膝を折り、剣士は畳み掛けるように突きを繰り出した。
空気を貫く鋭い音。
奇襲者は咄嗟に構えたライフルの銃床で長剣の突きを受けた。
船長の青い目が感情も宿さず相手を見る。奇襲者ミナギはずり落ちた眼鏡越しに船長を睨んだ。
睨み合いの一瞬、ミナギが僅かに体を引いた。
自分の体重で引っ張られたレイピアが驚愕の青色を跳ね返す、刹那。ライフル銃を抉るように押し上げ、ミナギが雄叫びと共に立ち上がった。
「あっ」
思わず口を覆ったセメイルが見ている前で、藍色の剣士は甲板に背面から倒れ込んだ。弾け飛んだレイピアが大きく弧を描く。切っ先が甲板に突き刺さると同時に、船長はライフルの銃口を顔面に付き付けられていた。
ミナギが両手で銃を構え、乱れた呼吸を整える。
「これでどうですか」
「お見事」
呆気に取られて口を開けていた観衆が我に返る。パラパラと気の無い拍手を受けて、ミナギは船長の手を引いて助け起こした。
「次は銃剣の装着を」
「わかりました。その時は船長、手加減しないでくださいね」
「いいだろう」
〈アヒブドゥニア〉号の船長は長剣を引き抜いて鞘に納めると、一同へ言った。
「二人一組で練習に励め。まずは基本の型の習得を目指す。経験のある者は教える側に回れ。各自、練習開始だ」
船員たちはそれぞれの相手と向き直り、対剣士用の戦闘術の習得に努めた。
船長はミナギと二言三言交わした後、観客二人のもとへ来た。
「お疲れ様です」
「ああ」
セメイルがさっと立ち上がって席を譲る。このデッキチェアが船長の特等席らしいということは、乗船してすぐに気が付いていた。
船長は無言で彼を押し戻し、代わりに立ち上がったグウィードの場所に座った。
「すまないが、グウィード、船員たちに指導してやってくれないか」
「おう。ナイフならなんとか」
「頼む」
グウィードはうんと伸びを一つすると、船員たちの列に混ざりに行った。
セメイルは玉汗一つ浮かんでいない剣士の横顔を見上げ、それから彼が脚の間に立てた長剣に目を落とした。
「初めてお会いした時にも手にしておられましたが……とても美しい剣ですね」
「競技用ではない、正真正銘戦闘用のレイピアだ。更に古い年代の物はこれよりも装飾があったと聞くが」
「こちらも古い物なのですか?」
「おそらく」
そう言うと船長はレイピアを自身の右側、セメイルと反対の位置に置いた。 セメイルからは見えない位置。この話題はこれ以上続けたくないのだろうと察し、セメイルは口を閉じた。
「船には慣れたか」
今度は船長が問い掛ける。セメイルはこくりと頷いた。
「はい、なんとか。潮風は身に堪えますね」
「風邪を引かないように気を付けろ。寒さはもう何日かの辛抱だ」
「はい……航路は、どのように?」
「紅海を抜ける」
「運河ですか?」
「ああ」
セメイルは不安そうに眉を寄せた。
「でも、あそこは検問が敷かれているんじゃ……」
「問題無い。エアロンの顧客に国連職員がいるのだが、その男を通して通行許可証をもらっている」
「そうですか」
船長は視線を落とし、袖口の解れを気にしながら続けた。
「だが、万が一のこともある。運河を抜ける時は少し窮屈な所に監禁させてもらうが、少しだけ耐えてくれ」
「……船長さん、わざと悪い言い方していませんか?」
「なんのことだ」
「いえ、別に」
出会ってから幾ばか経ったが、相変わらずこの男はよくわからないな、とセメイルは思った。
後日、船長がわざと聞こえの悪いように言ったわけでも、ちょっとした冗談だったわけでもなかったことを密航者二人は身を以て知るのだが、生憎その間の記憶は船倉の闇に紛れている。
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