5-8 出航
今宵の出航まであと数時間。
長期航海のための準備を終え、船員たちは陸での残り時間を思い思いに過ごしていた。
マダム・オリヴィエの晩餐はそれはそれは豪勢だった。市場で手に入るありきたりな食材をこれだけ沢山の華やかな品々に変身させるとは、さすが美食の国イタリアで代々伝わるマンマの魔法だ。
オリヴィエと面識のある船員が入れ替わり立ち代わり顔を出し、老婦人に別れの挨拶を告げて行く。その度に何某かの差し入れが増えるので、小さな食卓から食べ物が消えることは最後までなかった。
海の幸をふんだんに使ったアクアパッツア。たっぷりチーズとバジルのパスタに、揚げたてのアランチーニ。航海中恋しくなるであろう新鮮な食材の数々が男たちの胃も心も満たしていく。
これだけの食材の費用をどうやって賄うのか問い詰めれば、マルコが気前よく自腹を切ったという。
ところが、それは〈アヒブドゥニア〉との共同利益を猫ババした資産だということがすぐにバレ、船長が近くの製菓店から人数分のスフォリアテッレを追加注文するという罰が下された。
楽しい晩餐会の後は、またそれぞれ離れたくない人との最後の時を楽しむ。
船長はルチアを抱いてカウチに寝そべっている。睡魔に勝てなかった幼い娘の手がしがみ付くようにシャツを掴むのを見て、無表情の瞳が僅かに細められていた。
グウィードは意気投合した船乗りたちと街へ飲み直しに繰り出し、セメイルはオリヴィエと静かに語り合っている。
そして、航海士ミナギは〈アヒブドゥニア〉号に乗り込み、独り黙々と不要な最終チェックを繰り返していた。
幼少期から船に乗り、何度も出航の時を経験してきた彼にとって、今度の航海もいつもとなんら変わらない仕事の一つだった。
例えこれが危険極まりない任務であっても、仕事以外の『モノ』を一切持たないミナギには何の感情も呼び起こさない。彼には陸上で名残惜しむべきものなど無かった。
出航前の切なさはよくわかる――と、ミナギは船室の施錠を一部屋ずつ確認しながら考えた。
自身も船乗りの父を持ち、出航の度に船乗りという職業を呪った。
陸で見送った彼の父は、二度と海から帰って来なかった。
だから、別れは突然の方がいい。
別れの挨拶なんかしてしまったら、何度もその時のことを思い出しては自分を悔いる。けれどそれが突然の出来事なら、避けられない事故だったと自分に言い聞かせることができた。
彼はそうして引き留めなかった自分を宥め、辛い出来事を受け入れようとしてきたのだった。
船室の全てを確認し、甲板に出た時だった。
薄闇の中、不安げに佇む少女に気付く。
「……リュセ?」
「あっ! いた!」
リュセはツカツカと大股で彼のもとへ来た。闇夜で表情まで見えなくとも、左右に触れる髪が彼女の怒りを表している。彼女はミナギと微妙な距離を挟んで立ち止まると、両手を突っ張って青年を睨んだ。
「散々探したんだからね」
「なんでお前がここにいるんだ。子供は寝る時間だろ。早く店に帰れ」
「子供扱いしないで。あんただってあたしと二、三歳しか変わらないでしょ」
「少なくとも、お前より二、三歳年上だ。俺は仕事中なんだ、邪魔するな」
ミナギはリュセを押し退け、そのまま立ち去ろうとした。少女の手がその腕を掴む。
「待ってよ!」
「なんだよ!」
リュセは泣きそうな目で彼を睨み、ぎこちなく振り払おうとする手に丸めた紙切れを押し付けた。ざらりとした手触りに、ミナギはそれがスケッチブックの一ページだと気付く。
「神官様の絵。完成したから渡しといて」
「自分で渡せばいいだろ?」
「つべこべ言わずに渡しなさいよ!」
ミナギは手の中の筒を見下ろし、そしてリュセを見た。
彼にはどうしてそれを自分に託すのかもわからなかったし、なぜ怒りの表情の彼女が涙を湛えているのかも理解できなかった。そもそも彼は、高飛車で気分屋な上にやたらと喧嘩を売ってくるこの少女のことが得意ではない。
掛ける言葉を見付けられずに立ち尽くすミナギに、リュセは拳で目元を拭い、細い指を突き付けた。
「いい? あんた航海士なんだから、ちゃんと船長のこと連れて帰って来るのよ? あのおっさん、しっかり者の癖にヘンなところ抜けてるから、サボらず面倒見なきゃダメ。ルチアを悲しませるようなことしたら絶対に許さない」
ミナギはムッとして眉を寄せた。
「そんなこと言われなくてもわかって……」
「わかってない!」
突然の大声に、ミナギはビクリと身を震わせる。
彼女の気迫は普段の高飛車なそれとは違っていた。絵の具が擦れた頬の上を涙の粒が零れて落ちる。
「船長を連れて帰って来るってことは、あんたもちゃんと生きて帰って来るってことだからね! 死んだり、大怪我して帰って来たりしたら、絶対に許さないんだから。わかった?」
そして、リュセは唇を噛み締めて乱暴に涙を拭った。
「……あんた、時々帰ってくる気が無いように見えるのよ。いつも仕事だなんだって言っちゃって。帰って来なきゃダメだからね。絶対よ」
濡れた瞳に心の内を見透かされた気がして、ミナギは無意識に眉を寄せた。
喉の奥がキュッと閉まり、熱くなる。
不要な弱音や悪態を何とか呑み込んで。やっとのことで言葉を吐いた。
「……わかったよ」
「それ、ちゃんと神官様に渡してね。忘れないでよ」
「リュセ」
ミナギが伸ばした手は宙を掻いた。彼女が逃げるように走り去ってしまったからだ。指先を掠めた髪の柔らかい手触りだけが、立ち尽くす彼と共に残される。
航海士は何事も無かったかのように眼鏡を押し上げ、甲板から暗い海を見下ろした。
***
出航の時。
セメイルはグウィードと並んで港に立ち、ぽかんと口を開けて船を見上げていた。
出航だからと連れて来られたのはサンタ・ルチア港よりいくらか離れた寂れた埠頭。船員たちが乗り込んだその船は、今時さっぱり見掛けない、それはそれは見事な木造の帆船だったのである。
セメイルは三本マストの美しいシルエットに魅せられ、感嘆の息を吐いた。
「こんな船がまだ存在していたのですね」
「時代は鋼鉄船だからなぁ。でも、まだまだ現役だぜ」
いつの間にか背後に立っていたジャンルカが誇らしげに答える。グウィードもどこか嬉しそうに目を細めた。
「まさかもう一度旧〈アヒブドゥニア〉号に乗ることになるとは思わなかった。売りに出したんじゃなかったのか?」
「そうなんだがよ、買い手なんざ早々付くわけねぇからな。アバヤ帝国じゃ、未だに民間の商人には木造船しか許可していないそうだ。鋼鉄船で行けば領海に近付いただけで警戒される。逆に言えば、西洋人が帆船でやって来るなんて思ってないだろうから、旧船の方がいいだろうってさ。慣れるまで大変だろうし、新船に比べりゃ不便だが、まぁ我慢してくれな」
ジャンルカはそう言うと二人の背中を押し、旧〈アヒブドゥニア〉号に乗船させた。
全員が乗船してから船が岸を離れるまで、殆ど時間は掛らなかった。別れは惜しめば惜しむほど辛くなる。船の操縦全般を取り仕切る若き航海士の号令で、船員たちはそれぞれの持ち場へ散って行った。
最後まで陸に残っていたのはやはり船長だった。一番不愛想だが一番人に懐かれる彼は、オリヴィエとリュセからのフランス式挨拶を甘んじて受け、マルコの握手と見せかけた強引な抱擁にもされるがままになっていた。
ところが、睡魔を堪えて彼を見上げている幼い娘には何と声を掛けていいかわからず、お互い無言で見つめ合ってしまった。
「ほら、ルチア。リヴになんか言ってやんな」
オリヴィエが片膝を付き、ルチアの背中をそっと押す。
ルチアは歳にしては随分と大人びた娘だったが、この時も泣いたり拗ねたりする様子は見せなかった。
彼女は死を理解できない子供ではない。しかし、今回の長い別れについては実感が湧かないのか、船長が立ち向かう危険を理解していないのか、どこか不思議そうな顔で彼を見上げ、言葉も無く見つめることしかできなかった。
船長は同じ海色の視線を結びつけた後、長い沈黙を挟んで言った。
「……行ってくる」
「あ……うん。気を付けてね」
ルチアはやっとのことでそれだけ答えた。小さな拳をギュッと握る。オリヴィエが辛そうに眉を寄せた。
突然、少女の体が宙に浮いた。
「きゃっ!」
「おら! 挨拶なんて深く考えなくていいんだよ、クソッタレ! てめぇも同じようにやりゃあいいんだ」
マルコが乱暴にルチアを持ち上げ、船長の前に突き出していた。
瞬き一つしない男に満開の笑顔を向けて。ルチアは頬にぎこちなくキスをした。
「待ってるからね、船長さん」
「必ず戻る」
地面に下ろされた少女は男の脚にひしとしがみ付いた。柔らかい金髪に指を走らせながら、船長がマルコに目を向ける。
「ルチアに手荒な真似はするな」
「わあってら。俺にとってはこんなガキ、どこでくたばろうと知ったこっちゃないが、カピターノが怒ると怖いことだけは身を持って知ってるからな」
「リュセにも手を出したら許さないからね」
オリヴィエが口を挟む。
「あ? それはまた別の話だろうが!」
「マフィアなんかに孫をやってたまるかね。同じろくでなしでもまだリヴにやった方がマシだよ」
「……マルコ、ルチアとオリヴィエを頼む」
「おう。任せろ」
船長は最後にもう一度だけ少女の頭を撫でると、見送る三人に頷きかけて踵を返した。
腿に感じる冷やりとした感触には気付かないふりをして。堪え切れなかった少女の嗚咽が背後から聞こえた。
〈アヒブドゥニア〉号は出航した。
目指すは帝国――禁断の地。
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