5-7 ルチアのおまじない
航海士ミナギは備品の最終チェックに追われている。彼は船の方に掛りっきりで、辛うじて昼食に一回〈サンタ・ディ・ルーチェ〉に顔を出しただけだった。
〈アヒブドゥニア〉号の船長は相変わらず船の仕事はサボりがちに見えたが、今回ばかりは幼い娘のことを考えて、船員たちも見過ごしてくれているようだった。今はルチアを膝に乗せ、海図を広げるふりをして二人だけの静かな一時を過ごしている。
目立つ容姿のため外出を控えている神官セメイルは、リュセのデッサンのモデルをして時間を潰している。
キッチンからは時折食欲をそそる香りが漂ってきて、マダム・オリヴィエの晩餐会を一同は心待ちにしていた。
嵐の前の静けさ。そんな穏やかな時間だった。
〈サンタ・ディ・ルーチェ〉の扉が開き、グウィードへの迎えがやって来た。
「こんちは。グウィードさんいらっしゃあっすか」
聞き取りにくい程威勢のいい巻き舌が店内に響く。
入店したのは日焼けが眩しい白人の青年だ。歳は三十そこそこであろうが、傷痕となって体に刻み込まれた航海の経験が、彼に海の男としての威厳を持たせていた。痩身で蒼白い船長と並べると、どちらが本物の船長か首を傾げたくなるような立派な船乗りである。
その後ろからもう一人、背は低いが随分と人相の悪い男が現れた。
浅黒い肌に剃り込みの入った短髪、ギラリと輝く眼光を見る限り、こちらは生粋のラテン系人種。
擦り下げたサングラスの上から店内の人物を物色していた。
「ん、俺だ」
グウィードが立ち上がる。船乗りは白い歯を見せて手を差し出した。
「なんだ、狼とか仰々しい渾名が付いてるからどんな奴かと思ったら、オレよか若ぇにーちゃんじゃねぇか。オレはジャンルカ。〈アヒブドゥニア〉号の武器庫番だ」
「よろしく」
二人は握手を交わした。
「うん、確かにあんたは狼っぽいな。聞いたところによるとあんたぁ――」
「マンマミーア(なんてこった)!」
突然、もう一人の男が歓声を上げ、二階から下りて来たリュセに歩み寄った。大袈裟に両手を広げ、片膝を付いて数段上の少女を仰ぐ。
「愛しのリュゼッタ! また君に会えるなんて、俺はなんて幸福な男なんだ!」
「ひぃっ」
リュセが露骨に後退りする。
グウィードはイタリア男の情熱的な求愛行動に理解不能の眼差しを向け、苦笑いを浮かべる船員を振り返った。
「あれがマルコか?」
「ああ。あんなんでも一応マルケシーニ家の現当主だって話でな。ま、凄かったのはあいつの親父さんまでで、マルコ自身はうちの船長に厄介ばかり掛けるろくでなしだよ」
「てめぇ、ジャンルカ! 聞こえてんぞゴラァ!」
マルコはリュセに対する甘い声音とは打って変わって、ドスを効かせて罵声を吐いた。
カウンターの船長が腹立たしそうに顔を上げる。
「マルコ、やかましいぞ。静かにしろ」
マフィアは今にも殴り掛かりそうな勢いでジャンルカに詰め寄っていたが、船長に叱られると大人しく手を離した。今度はジャンルカやリュセに見せたのとは違う無邪気な笑顔を顔に浮かべる。
ルチアが怯えて船長のシャツに顔を埋めた。
「その言い方はないぜぇ、カピターノ(船長)! また長いお別れじゃねーか、ちったぁ大目に見ろや」
「先日の件、忘れたとは言わせない」
「あ、あー……その件は過ぎたことだろ? どの道スポンティーニの野郎が売りに出そうとしてたんだしよ、俺がちょっとくすねたくらい別に――」
「私は先日の幻覚剤のことを言っている。その件は聞いていない」
「ヴァッファンクーロ(くそったれ)! カピターノ、やめろ、手に持ったその物騒な物は下ろせ。悪かった、俺が悪かったからよぉ」
「追及されたくなければ早くグウィードを案内しろ。いいな?」
「ったく、ホントおっかねぇ野郎だなぁ」
マルコはしおらしく項垂れて後頭部を掻いた。その後続いた船長の溜息が、この若いマフィアがどれほど手の掛かる息子か物語っている。
〈アヒブドゥニア〉がイタリアン・マフィアと関係を持ったのは昨年のことだが、それはビジネスパートナーというよりもむしろ、飼い主と犬に近かった。
「グウィード、船に積む武器類を見てもらいたい。〈アヒブドゥニア〉が必要とするものはジャンルカが把握している。その他、マルコに役に立ちそうな物を一頻り用意させたから――」
「おう、かっぱらってきた!」
「――口を挟むな。お前が見て必要だと思う物があればジャンルカに伝えろ。エアロンから彼の分も〈アヒブドゥニア〉号で運べと言われている。エアロンが使いそうな物も選んでおいてくれ」
グウィードは頷いて立ち上がった。
ジャンルカがマフィアを小突き、マフィアはリュセと船長に熱烈な投げキッスを飛ばして出て行った。リュセはそれを泥でも掃うように叩き落とし、再び絵を描くために二階へ駆け戻った。
一気に静かになった店内で、今度はセメイルが一人で下りてきた。落ち着かなげに店内を見回し、そわそわと手袋の端を弄っている。
船長はルチアを片腕で抱いたまま彼のもとへ近付いた。きょとんと見上げるセメイルを椅子に座らせ、その膝に向かい合う形でルチアを乗せる。
突然幼女と見つめ合うことになったセメイルはどうするべきかわからずに、無言で二人を見下ろす藍色の男を見上げた。
「な、なんでしょうか」
「少し面倒を頼む」
「はぁ……」
初めて感じる少女の軽さ、そしてその柔らかさに、セメイルは触れることもできずに空を掻く。ルチアはセメイルの胸に手を置いて身を乗り出し、鼻と鼻を突き合せた。
「セメイルお兄ちゃん、お目目が赤いよ」
「天性のものですから」
セメイルがぱっと瞳を隠す。ルチアは小さな手でその手を退け、青い瞳を瞬いた。
「悲しいことがあったの?」
そこでやっと彼は、ルチアが瞳孔ではなく充血のことを言っているのだと気が付いた。
ふっくらと肉の付いた指が目尻を撫でる。腫れた瞼に指の冷たさが心地よかった。
「大丈夫だよって、言ってあげるね」
「え?」
「セメイルお兄ちゃんはもう大丈夫。すぐに元気になるよ。ね?」
ルチアはにっこりと笑った。
〈アヒブドゥニア〉号の船長は、そんな二人の様子を少し下がった所から見守っていた。気が付けば後ろにマダム・オリヴィエが立っていて、フンと満足そうに鼻を鳴らしている。
「セメイル様には悪い事しちゃったね」
「……もういいのか」
「ああ。神官様の口から教皇聖下を侮辱するような告発が出たのはショックだったけど……結局私らにできることは、聖下も神官様も両方信じるしかないんだよね」
彼女はそう言いながら赤くなった鼻を擦った。
「私はあの子の行いを見守るよ。セメイル様がこの件についてどう決着を付けてくださるのか――自分の信仰のことを考えるのは、それからでも遅くない」
「教会も組織である以上、一枚岩ではいかないのだろう。殊に宗教は合理で割り切れないものなのだから、間に挟まれた者の苦悩は計り知れない」
オリヴィエは男の横顔を見上げると肘を掴んで隣に並んだ。白髪頭をぽてりとその腕に当てる。
「辛い想いをしてるのはあの子だけじゃないだろ」
「……何の話だ」
「表に出さなければ無かったことにできると思ったら大間違いだよ。『辛い』とか『苦しい』っていう言葉がなんのために生まれたと思ってるんだい? 辛かったら素直にそう言いな。苦しかったら溜まった分を吐き出して、新しく息を吸い込むんだ」
船長は何も言わなかった。
マダム・オリヴィエはやれやれと大きな溜息を吐き、隠し持っていたお玉で彼の頭部を殴った。
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