5-6 罪

〈アヒブドゥニア〉号は名前の無い男が率いる茨野商会の貨客船だ。

 会社の経営とは切り離されて独自に交易を行っており、海上運搬系の依頼が入った時にだけ召集される。一応は副主任エアロンの管轄下にあることになっている。

 彼らが乗船する新〈アヒブドゥニア〉号は昨年新調したばかりの機帆船。一

 般的な貨客船よりかなり小振りだが、白い船体が描く曲線は芸術品さながらの造形美を創り出している。側面には赤と青のラインが走り、ぼんやりとした月光をマストが切り取っていた。


 船長、グウィード、セメイルの三人は〈アヒブドゥニア〉号の食堂に座り、ミナギが買ってきた持ち帰りのピザを齧っていた。先に食事を終えたルチアがその脇で本を広げている。

 隣の長机には居残り組の船員も二人ほど腰掛けており、食の進まないセメイルを好奇の目で眺めていた。


「何の本を買ったんだ?」


 自分から無駄に話さない船長、塞ぎ込んでいる神官と共に囲む食卓は味覚を狂わせる程に空気が重い。耐えかねたグウィードはピザの耳を炭酸水で流し込み、静かに本を読むルチアに話し掛けた。


「えっとね、英語の教科書とイタリア語のご本。女の子が旅するお話。遠い国の昔話。あと綺麗なお写真が沢山載ってるご本もあるよ」


 ルチアは一つ一つを指差し、とても楽しそうに説明した。


「へぇ、ルチアは読書家なんだな。そんなに読めるのか?」

「頑張って読むよ」


 隣で聞いていた船長がちらりとグウィードを見る。

 切れ長の両眼がどこか悲しげに、それでいて手にしたナイフの如く鋭く光るのを見て、グウィードは男の無言の返答に気が付いた。

〈アヒブドゥニア〉号が長期航海に出ている間、ルチアに構ってくれる人間はいないのだ。幼い少女はいつ帰るともわからない船を待つ数ヶ月、一人遊びをして時間を潰さなければならない。

 グウィードは慌てて話題を変えた。


「これは?」

「それはねぇ、新しい日記帳だよ」

「日記つけてるのか」

「うん。毎日書くよ」


 少女は細い腕には似合わない重厚な革の日記帳を抱え、愛しそうに表紙を撫でた。


「みんながお船に乗ってる間、どんなことがあったかちゃんと書いておくの。帰って来たら全部船長さんに教えてあげるんだよ。ね、船長さん?」


 船長は無邪気な少女の微笑みに辛うじて肯定と取れる音で答えた。

〈アヒブドゥニア〉号の船長が食器を置いた。こんな時でもきちんと背筋を伸ばしてナイフとフォークを操っていた彼は、食後に口を拭う姿まで劇掛って見える。

 記憶の無いこの男もきっとある程度の家柄に生まれたのだろう、とグウィードは答えの得られぬ推測をした。


「ルチア、そろそろ寝る時間だ」

「はぁい」


 少女は大人しく本を片付ける。船長は手が止まっているセメイルを見下ろした。


「食欲が無いのか」

「……はい、すみません……とても美味しいのですが……」

「大変な事続きだしな。慣れない環境で疲れてるんだよ、お前も」

「食べ切れなければ残していい。グウィードが処理する」

「俺? まぁ……入るけど……」


 セメイルはすまなそうに眉を寄せると、残りのピザをグウィードの前に押しやった。


「船長さん、船長さんのお部屋で寝てもいい?」

「……構わない」


 船長は二人の視線を避けるように顔を背けながら答えた。

 ルチアが本を抱えて食堂を出て行く。その後姿を目で追いながら、セメイルがぽつりと呟いた。


「グウィードさん、私、海が見たいのです。少しでいいので付き合っていただけませんか?」

「あ? 別にいいけど……俺はまだ食べ終わらないぞ。海なら船室からでも見えるんじゃないか?」

「待ってます。海岸線を歩いてみたいものですから……」

「私が行こう」


 食器を下げた船長が戻って来てセメイルに言った。長身の彼に首も曲げずに見下ろされると威圧感が物凄い。セメイルは思わず身を竦め、上目遣いに彼を見た。


「えっ……」

「グウィードでは土地勘が無い。夜の街は危険だ。私が同行する」


 その声にあまりにも感情が籠っていないので。

 セメイルはそれを彼からの挑戦と受け取り、深紅の瞳で睨み返した。


「……甲板で待っていろ」


 藍色は返答も待たずに食堂から消えた。ギュッと唇を噛むセメイルに、グウィードが心配そうに声を掛ける。


「大丈夫か? 俺も一緒に行こうか」

「いえ、結構です。私もあの方と話したいことがあったので」

「……何かあったのか?」


 セメイルはハッとして笑顔を取り繕った。


「それにほら、これから命を預ける相手ですから。早くお近付きにならなくては」

「ふぅん……それならそれで、いいけど」


 グウィードは唇に付いたトマトソースを舐め取り、元神官の後姿を見送った。



***


〈アヒブドゥニア〉号の船長は古風な外套を羽織ってやって来た。

 淡い月光の中で見る藍色の髪はむしろ黒に見え、一瞬月が現れる時にだけ透けるような青を発した。その色はまさに海の色。セメイルの知らない大洋の色だった。


「これを」


 潮風に自らを抱くセメイルに、船長は薄手のコートを差し出した。


「サイズが合わないかもしれない」

「……お借りします」


 二人は港に下り、海岸線を歩き始めた。

 ナポリの港は眠らない。夜でも人通りは途切れず、荷下ろしや搬入作業が続けられている。仕事を終えた船乗りが酒瓶を手に歌い踊り、街の方では喧嘩の声も聞こえている。ハーバーに並ぶ巨大な客船の数々だけが、波に揺られて微睡の中へ誘われていた。

 二人は放置されたコンテナの間を縫うように進み、喧騒を逃れて暗闇へ向かった。

 やがて人の気配が完全に消え、頭上から降り注ぐ団欒の話し声も遠のいた頃、二人は海岸線で足を止めた。


「……海というと砂浜をイメージしますが、そんなことはないのですね」


 セメイルは柵を越え、更に海へと近付いた。

 波打ち際までの数メートルは巨大な石が埋め尽くし、完全な岩場となっている。後を追う船長が隣に並び、付き添った。


「夜に歩くのは無謀でした」


 靴先で足場を確かめながら歩く。時折踏み外してよろめく神官を船長が支え、二人は無言のまま、更に人気の無い方向へと進んで行った。

 聞こえるのは波の音だけ。港の明りは小さな粒と化してしまった。半月は雲が途切れる度に顔を覗かせ、海面に光の粉を撒き散らす。

 果てしなく広がる海原を前に、居場所を失った神官はちっぽけな存在にすぎなかった。


「嗚呼、こんな所まで来てしまいました」


 セメイルがぽつりと呟く。

 色の無い髪が海の青を反射していた。


「私、修道院の出なんです。北部の山際にある、小さな観想修道院でした」


 木々に囲まれた暗く狭い塀の中で、清貧と純潔、服従だけを心掛けて勤めを果たす生活。祈りの言葉以外口を開かない日々。

 それは共同体にありながら、同時に孤独だった。

 自分と主の他には何者も干渉しない閉ざされた世界。


 それが、どうしてこうなってしまったのだろう?


 煌びやかな衣装を身に纏い、大勢の付き人を従わせ、大衆を前に説教をする。

 妹を影に縛り付け、親友に裏切りの決断をさせて。

 挙句戦争の火種となった神官は、健気な信徒の心の支えまで打ち壊してしまった。


「こんな所に来るべきではなかった」


 なんと愚かな傀儡か。

 なんと呪われた偶像か。


「私は、こんな所に来るべきではなかった」


 ――鳥籠にいるべきは、本当は私の方だったのに。


 セメイルは両手に顔を埋めた。涙の粒がじんわりと、白い手袋を湿らせていく。


「私は沢山の人を裏切ってしまった! 多くの人の人生を破壊してしまった!」


 それは祈りの静かな涙ではなく、苦悩を吐き出す涙だった。自責の念が体の内を焦がし、嗚咽と共に込み上げては喉に閊えて咽返る。

 この色の無い髪が何よりも憎く、自分の生を主張する呼吸が憎く、他人に認識されてしまう己の存在すべてが憎かった。

 頭髪を握る指が白く変色し、壊死の進む両手に鈍い痛みが走った。


「……そして、主を。どんな時も私を御見捨てにならなかったあの御方を、私は裏切ってしまった」


 脳裏をちらつく写真の残骸。

 地獄の炎は信徒が燃やした暖炉の火よりも、熱いのだろうか。


「どうして神官の役目なんて、引き受けてしまったのでしょう? どうして彼らの企みに気が付かなかったのでしょう? ――いえ、本当は気付いていたんです。それでも妹を守るために、それしか道が無いと思ってしまった……」


 悔やんでも悔やんでももう遅い。こうなってしまった以上、彼はもはや偶像ですらない、ただの残骸でしかないのだから。


〈アヒブドゥニア〉号の船長は海色の視線で彼を射竦めたまま、感情の無い声で言った。


「しかし、選んだのはお前だ」

「わかっています――私の罪だと」

「わかっていない。それならば、なぜオリヴィエに〈浄化〉の真実を告白しなかった?」


 人の心から悪意を取り除き、従順な『善人』に変えてしまう『奇蹟』の力。その正体は人の手によって生み出された兵器だ。〈浄化〉と称して脳細胞を破壊された人間は、もはや人としての意思を持つことはない。

 セメイルは顔を上げ、苦々しい眼差しで男を振り返った。


「そんなこともご存知だったのですね」

「すべての事情は聞いている。〈浄化〉の秘密も、双子の妹のことも」

「それなら答えはおわかりでしょう。私の現状を知ってもらうために、〈浄化〉のトリックは必要無い。これ以上あの方を苦しめるような真実を告げるわけにはいかないと思ったのです」

「……本当に?」


 青い瞳が筋と化す。

 無機質な眼差しに、セメイルは思わずたじろいだ。


「本当に、オリヴィエへの気遣いだったのか?」

「そうだと言っています」

「自分のためではなく?」


 セメイルは答えなかった。


「自分の身を守りたかったのだろう? こんな状況に堕ち込んで尚、自分の身が大事だった。オリヴィエに真実を告げ、彼女に偽善者と罵られるのが怖かった。妹のことを考えることで、お前は己の『本当の罪』から目を背けようとしているのだから」

「……やめてください」

「本当にお前が悔いるべきは、教会の言いなりになったことでも、妹を鳥籠に閉じ込めたことでもない。〈浄化〉などという残虐な行為に目を瞑り、愚かにも罪を塗り重ねたことだ」

「やめてくださいと言っているでしょう!」


 セメイルは船長のシャツの胸元を掴んだ。

 顔を突き合わせるには彼はあまりに小柄過ぎた。背伸びしても届かない青い両眼が、真理という揺るぎない傍観者を具現化したようで憎かった。

 震える両手で男を引き寄せる。感じたことのない激痛が、心の痛みとして腕に走った。〈アヒブドゥニア〉号の船長は感情を欠いた目で、そして抑揚の無い声で言った。


「私は真実を述べただけだ」

「そんなもの聞きたくありません」

「自分でもわかっているはずだ。正面から向き合うには重すぎて逃げようとしている」

「……っ」


 淡々と吐き出される言葉が、罪悪感と呼ぶには大きすぎる感情をセメイルにぶつけた。


 教会への貢献?

 信徒の安らぎとなるために?

 結局は自分のエゴを正当化するための言い訳に過ぎない。


 セメイルは妹を守りたかったのだ。守れると思っていたのだ。

 しかし、それが単なる自己満足だったとラスイルの裏切りによって告げられた時、セメイルは自己を正当化する術を失った。

 ただの咎人となってしまったのだ。


「……どうして」


 言葉は上手く形にならない。

 これ以上の罪の重さには耐えられなくなった精神が、思考を止めて涙を流す。

 

 それは最後の砦だった。

 最後の砦だったのに、それを壊したこの男を、一度責めなければ自分が壊れてしまいそうだった。


「どうして! どうして私を彼女の所に連れて来たんです? どうして彼女に私を紹介してしまったんです! 私は数え切れない程の罪を犯して、その上更に、それでも私を信じてくれる信徒を裏切ってしまった!」


 それは考え得るどんな罪より最も重いと、セメイルは思った。

 教会が孕む闇を伝えたことで、一人の老婦人を傷付けた。

 信仰という心の支え。代々受け継がれてきた絆。不安に脅かされた現世で信徒を守るその教えは、一度壊れれば二度と元には戻せない。

〈浄化〉で犯した取り返しのつかない罪は兵器のせいにしてしまえ。

 ところが、同じく取り返しがつかないこの罪は、セメイル自身の罪なのだ。


「私は本当の罪人になってしまいました……どうして、ねぇ、どうしてなんです? これ以上私に罪を犯させて、一体何が愉しいんです? 私は元から偽善者です。でも、どうして彼女まで傷付ける必要があったんですか? 伏せておくことだってできたのに! その方が彼女のためにも、私のためにも、よかったはずなのに……っ!」


 涙は止め処なく溢れた。

 セメイルは男の胸板に拳をぶつけ、憎しみと共に叩き付けた。潮騒さえ掻き消せない程の嗚咽を止めることもできずに。

 船長はそれを黙って受け続けた。月光が照らした男の顔はやはり表情も無く、伏せられた睫毛まで海のような色味を帯びていることなど、泣き叫ぶ青年には気付けないことだった。


 やがて、聖人の成れ果てが殴る気力も失った頃、船長はそっと口を開いた。


「……すまなかった」


 抱き留めることも、拒むこともせず。

 男は色の無い髪に視線を落とした。


「お前に味方を作ってやりたかった。全てを知って、それでも尚、お前を信じてくれる味方を一人でもいいから、作ってやりたかった」


 セメイルが動きを止める。

 ゆっくりとその顔を見上げた。


「辛い想いをさせることはわかっていた。お前にも、オリヴィエにも。だが、これでお前には味方となってくれる人間が一人いる。無関係な私たちではなく、信徒の味方が一人。それはきっとこの先でお前の力になるはずだ」


 偶像としてではなく、義しく生きる一人の人間として。

 突然、無表情な男の顔に、自分を見上げる少女の笑みと皺の寄った老婦人の笑みが重なって見え、再び涙が視界を覆った。

 はらはらと流れ落ちた雫は月光を反し、足元に零れて海へ還る。

 

 セメイルは泣いた。

 声を上げて泣いた。


 駄々を捏ねる迷子のように、自分の道を見失った神官は泣き、涙が枯れて息ができなくなるまで泣き続けた。

 記憶を失った男はそれをただ見守り、じっと傍らに寄り添っていた。

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