5-5 焼かれた写真

四人は店に下りて行った。

 それぞれ胸に秘めるものは異なる。それでも心配そうに立ち上がった若い娘のために、そんな思いは表に出さぬよう努めていた。

〈サンタ・ディ・ルーチェ〉の店内には、リュセの他に眼鏡を掛けた青年と六歳くらいの女の子が増えていた。


「あっ! グウィードお兄ちゃんだ!」


 ルチアは両手を広げ、嬉しそうにグウィードに駆け寄った。淡い金髪がふっくらとした頬を縁取り、大きな瞳を輝かせる姿が愛らしい。


「なんだ、久しぶりなのに覚えててくれたのか」

「もちろん忘れないよ。ミナギお兄ちゃんが今日は大事なお客さんが来るって言ってたの、グウィードお兄ちゃんのことだったんだね」


 顔に似合わず子供好きのグウィードは照れ臭そうに少女の頭をくしゃくしゃと撫でた。ミナギもぎこちない笑みを浮かべ、久しぶりの知人に挨拶をした。


「ようこそ、グウィード。長旅お疲れ様でした」

「おう。お前も相変わらずみたいだな」

「ええ、まあ。あー、船長? 予備燃料のことなんですけど……」


 生真面目な航海士は階段を下りてきた上司に向かって言った。船長は「ん」と気の無い返事をしただけだった。

 ルチアが陰に隠れている色の無い青年に気付く。セメイルはサッと顔を背けた。


「あの人はだぁれ?」

「神官様だよ。ヴァチカン教会の、神官セメイル様だ」


 茶器を載せた盆を運びながらオリヴィエが答える。ルチアは船長越しに神官を見、不思議そうに首を傾げた。


「神父様?」

「違うよ」

「ルチア、彼はセメイルだ。ご挨拶を」

「セメイルお兄ちゃん、こんばんは。あたしルチア・フォンダートっていうの」


 少女はワンピースの裾を摘まみ、ちょこんと膝を折ってみせた。そして、無邪気な笑顔。ここの人たちはよく笑う、とセメイルは思った。神官は穏やかな笑みを返す。


「初めまして」

「お会いできて光栄です、神官様。俺は〈アヒブドゥニア〉号の航海士、ミナギと申します。往復の航海中ご一緒しますので、どうぞよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 ただし、この少年とも呼べる歳の航海士だけはあまり笑わないな、とセメイルは認識を改めた。

 さて、一同が一通りの顔合わせを済ませたところで、航海士ミナギは時計を仰いだ。外はまだ明るいが、もう十八時を過ぎようとしている。


「そろそろお暇した方がいいですね。お二人はどうしますか? フォンダート邸に?」

「いや、フォンダート邸は少し遠い。船に慣れさせるためにも〈アヒブドゥニア〉号に泊まってもらう」


 ミナギが睨む。


「……どっちの」

「新しい方」


 船長は目を逸らして答えた。


「わかりました。ルチアは?」

「船に。夕飯は適当に調達しておけ。私も後から戻る」

「承知しました。おいで、ルチア。夕飯は君が食べたいものを決めていいよ」


 航海士は本が入った紙袋を抱え、幼女の手を引いて出て行った。

 続いて、カウンターのリュセが店の奥を振り返る。


「おばあちゃーん? ご飯はぁ?」

「今から作るよ。店閉めとくれ」

「はぁーい」


 孫娘がクローズの札を下げに行った。

 残された男三人は意味深な視線を交わし、互いに次の動きを待っていた。


「え、と……あっ」


 何度目かもわからない沈黙に耐え兼ね、セメイルがしゃがみ込む。濡れたティースプーンを拾い上げた。


「私、オリヴィエさんに届けてきますね」

「キッチンは店の奥だ」

「はい」


 セメイルは示された方へ進んだ。

 狭い建物だ。店の奥は短い廊下が続いており、左に浴室と物置、右にダイニングキッチンがあるだけだった。突き当りの燭台に火は灯されておらず、薄暗い空間にぼんやりと静物画が浮かび上がっている。


 マダム・オリヴィエはコルセットスカートの上にエプロンを着け、夕飯の下拵えを始めていた。セメイルのノックに気付き、包丁を置いて振り返る。咄嗟に微笑を浮かべるが、彼女が彼の出現にギクリとしたのは隠しきれなかった。


「お料理中にすみません。さっきスプーンを落とされたようだったので」

「ああ、ありがとう。流しに置いといてもらえれば」


 オリヴィエが体を引いてスペースを開ける。セメイルは言われた通り流しにスプーンを片付けた。取り除かれた野菜のヘタが鮮やかだった。


「……今日は、お心を掻き乱すようなことをしてすみませんでした」


 セメイルがぽつりと呟く。オリヴィエは笑顔を繕った。


「いいえ、私こそ事情も知らずに。遠路遥々来てくださったのに、何のおもてなしもできずにすまなかったねぇ。明日は盛大に腕を振るうから、是非また来てくださいな」

「ありがとうございます」


 二人の関係はまだぎこちないけれど、オリヴィエの声に含まれた思い遣りは本物のように感じたので、セメイルは心の底からホッとした。

 孫娘が言う通り、彼女は強い女性なのだ、と。


 来た道を戻りかけ、ふとセメイルはダイニングの内装に目を留めた。

 全体的に茶色基調で落ち着いた室内は、やはり女主人のセンスの良さを感じさせる。

 特に興味を引いたのは暖炉の上のマントルシェルフ。十字架と聖母像が並べられた飾り棚からは彼女の信心深さが窺える。

 その中に一つだけ、中身の無い写真立てがあった。

 のっぺりした無人の枠縁が彼を手招きし、吸い寄せられるように暖炉に近付いた時、彼はその一瞬を酷く後悔した。

 きちんと手入れされたやけに綺麗な暖炉の中に、新しい灰が残されていた。

 黒く焼け焦げた写真――目が合ってしまったのだ。白に縁取られた、深紅の瞳と。


 神官セメイルは死んだ。

 一人の信徒の心の中から。


 セメイルはパッと口を押えると、逃げるようにその場を後にした。


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