5-3 スケッチブック
「なあ、ルチアはどうしたんだ?」
一同は骨董品屋の二階に場所を移していた。
船長はリュセが運んできた紅茶を啜り、茶器越しにグウィードを見た。
凶悪な外見の黒尽くめと万年仏頂面の剣士が向かい合う様は、見ているだけでも異様な圧力を発し、隣に腰掛けるセメイルが完全に委縮してしまっている。
その元神官の横顔を、さり気無く部屋に居残っているリュセが食い入るように見つめていた。
「ミナギと本屋に行っている。直に帰って来るだろう」
船長は素っ気無く答えた。
ルチアとは、ある事件をきっかけに茨野商会が身柄を保護することとなった孤児の少女だ。戸籍上はリベラトーレ・フォンダートという架空の男の養子になっているが、〈アヒブドゥニア〉号の船長が実際の父親代わりである。
陸に定住することを好まなかった〈アヒブドゥニア〉号が改めてナポリを本拠地に定めたのも、幼い娘のためを思ってのことなのだろう。〈アヒブドゥニア〉号の長期航海は少女との出会いを境に明らかに減っていた。
「へぇ。勉強頑張ってるらしいな。もう読み書きはできるようになったのか?」
「ああ。イタリア語は日常生活程度なら支障無い。英語の読み書きはまだ心許ないが、ルチアならすぐに覚えるだろう」
「まだ小さいのに大変だな」
「語学の習得は若い方が有利だ。本人も楽しんでやっているようだし、問題はない」
「楽しんでるわけじゃなくって、船長と一緒にいると覚えざるを得ないの間違いでしょ。船長、時々何言ってるかわっかんないんだもん」
リュセが二人の会話に口を挟んだ。グウィードが怪訝そうに眉を上げる。
「何言ってるかわからない?」
「そ。船長ってマルチリンガルじゃない? たまに会話中に使う言語間違えて、意味わかんない言葉喋り出すのよ。それに付いて行こうとしたら娘だってそうなるって」
「あー、なるほど」
グウィードにも心当たりがあった。
そういえば、同じく多言語話者であるエアロンと船長の会話は言語が入り乱れることが間々あり、傍で聞いていても理解ができないことで有名だった。
船長は睨むようにリュセを見た。
「なぜお前がここにいるんだ」
「いちゃ悪い? ここはあたしのおばあちゃんのお店ですぅー。あたしがいるのは当然のことでしょ」
リュセは唇を尖らせるとツンとそっぽを向いた。蜂蜜色の髪が尻尾のように後を追う。船長は溜息を押し殺して会話に戻った。
「言語は多く使えればそれだけで生きる術になる。彼女のような身の上であれば猶更だ」
「……そうだな。俺たちもいつまで面倒見てやれるかわかんないもんな」
急に現実が圧し掛かってきた。
本当に、どうしてこんなことになってしまったのか。
グウィードの耳にはいつまでもエルブールで聞いた声が響いている――サイモン・ノヴェルの裏切りの声が。
「茨野商会はもう終わりかな。社長に裏切られたんだ、もう会社とは言えないよな」
グウィードは肘を付いて両手に顔を埋めた。
「〈アヒブドゥニア〉はそのまま海運業で生計を立てていけるだろ? でも、バラバラになったら食い扶持が無い奴だって沢山いると思うんだ。みんな置いてきちまった。他の奴らは大丈夫だったんだろうかって、ずっと考えちまう」
船長は淡々と言った。
「自分の身すら危うい今、他人の心配をしても無駄だ、グウィード」
「そうだけど……」
「気休めにしかならないが、〈アヒブドゥニア〉は茨野商会がこの先どうなっても、絶対にお前たちと未来を共にすると約束する」
その口調には相変わらず感情は伴わないが、どこか励ますような優しさが込もっていた。グウィードは弱弱しく微笑んだ。
船長は紅茶を啜って一息吐いた。
「エアロンはどうしている?」
「ん? ああ、あいつならまだタチアナ先生の病院にいる。主任と仕事の話してたけど――」
その後、二人は仲間の近況や今後の計画について、取り留めもなく話し続けた。
***
一方、傍で聞いているだけのセメイルは、彼らを巻き込んでしまった当事者であるために非常に居心地の悪い思いをしていた。
会話の流れから茨野商会の今までを推測してはみるものの、二人の不愛想だが親しげな口振りに胸が痛む。
だって、彼らの日常を壊したのは自分なのだ。
救いを求めて室内に視線を巡らせる。
カウチが一つと書物机が一つ。彼らが座るソファが一式。調度品はすべて年代物の高価な品で揃えられ、棚には古ぼけた書物と青い目の人形が飾られていた。
そして、先程から意識しないように努めてはいたのだが、椅子に反対向きに座ってずっとこちらを見ている少女がいる。リュセだ。
「あ、あの……」
観念したセメイルは遠慮がちに少女を見上げ、作り慣れた笑みを浮かべた。
「私に、何か?」
「あっ」
リュセはパッと顔を赤らめ、緊張から視線を泳がせた。
庶民的な服装のため幾分かは親しみが持てるが、それでも口を開けば神官なのである。若い娘にはヴァチカン教会の高位聖職者が自分と同じ部屋にいることが理解ができなかったし、それが直接自分に話し掛けているとあれば、猶更現実とは思えないのであった。
「え、あの、本当に神官様なんだなぁって思って」
「ああ……」
セメイルは察するように頷いた。
「すみません、突然このような形で押し掛けてしまって。さぞ驚かれましたよね」
「あっ、いやっ、そんなことは! あたしこそジロジロ見てしまってごめんなさい。その……あんまり綺麗な……人だったから……」
セメイルは思わず顔が熱くなるのを感じた。
「あの……いえ……」
セメイルは口を濁し、俯いた。
そうだ。
例え教会に裏切られようとも、事情を知らない一般信徒にとっては彼が聖人であることは変わらない。庶民の服に身を包み、惨めに他人の陰に隠れている己を恥じた。
「お祖母様はどうされていますか?」
「おばあちゃんなら下の部屋でお祈り捧げてる。何言っても反応しないから置いてきちゃった」
「そうですか……」
その聖人がこんな形で姿を現したら。
代々信じ続けてきた教会が、無実の人間を利用するような悪事を企てていると突然告げられたら。教会の裏切りはセメイル個人への裏切りだ――しかし、それを信徒に告げれば、それは信徒への裏切りへと変わる。
自分は敬虔な老婦人を裏切ってしまったのだと、知った。
「神官様?」
項垂れて顔を上げることもできない神官をリュセが覗き込む。
いつの間にか隣にしゃがみ込んでいた少女の瞳は、青く澄んで、無垢だった。
「あたしには事情がよくわからないけど、おばあちゃんは強い人よ。ちょっとびっくりしただけだから、神官様が気にすることなんてないと思う。それにおばあちゃんって嘘が大嫌いなの。嘘吐かれるくらいなら辛い思いしても本当のことを言われた方がマシ! って、きっとおばあちゃんならそう言うわ」
そして、少女は歯を見せて笑う。
セメイルは表情が崩れるのを止められなかった。
どうか、この子がこれを微笑だと受け取ってくれますように。泣きそうな顔だとバレていませんように、と願いながら。
「ありがとうございます、リュセさん」
リュセは彼に名前を呼ばれたことが嬉しかったらしく、ニカッと歯を見せて笑った。
「ね、ね、神官様ってつまりは今オフなんでしょ? この近くに美味しいピザ屋さんあるから連れてってあげる! あとねぇ? お願いがあるのー?」
「な、なんでしょうか……」
リュセはねだるように眉を寄せ、大きな目を潤ませてセメイルを見る。彼は急に積極的になった娘に圧倒されながら、露わな胸元を見ないよう目を背けていた。
「絵、描かせてください」
「……絵?」
「そう! あたし美術学校通ってるの。今はサボってこっちに遊びに来てるんだけどね」
きょとんと見つめるセメイル。リュセは立ち上がって机の上からスケッチブックを取って来た。〈アヒブドゥニア〉号の船長がちらりとこちらを見る。
「リュセ、あまりセメイルに迷惑を掛けないように」
「だいじょーぶ! 神官様だから特別に見せてあげるわ」
戸惑う彼の手にスケッチブックを押し付ける。セメイルは白手袋で覆った指先で表紙をなぞり、そして中を開いた。
溢れ出す色彩。
水彩絵の具で描き出された少女の世界が、全てのページを覆っていた。
「わぁ……」
彼女が描くのは地中海の青、空を染める朱、咲き乱れる草花――そして、身近な人々の横顔だった。
実物よりも遥かに鮮やかな色彩を乗せたその絵の数々は、動植物や天体、無機物に関わらず活き活きと輝く。
荒い筆先が躍動感を生み、描き出すのは間違いなく、笑顔。色彩だけの空、波に揺られる帆船、俯いた横顔など、直接的な表現は全く無いにも関わらず、彼女が描けばすべてが笑っているように感じられるのだった。
「先生には繊細さが欠けるとか言われるんだけどね。でも、あたしは描きたいものを描くのよ。悪くないでしょ?」
「ええ……ええ、とても美しいと思います」
セメイルは狂おしい程の愛情に駆られ、食い入るようにその絵を見た。
鮮やかな色彩――自分には無いモノ。
「描かせてくださる?」
「私なんかでよければ」
「やった! ありがとう、神官様!」
リュセがキャッキャと声を上げる。セメイルは右手を抱き締め、微笑んだ。
船長とグウィードの方もそろそろ話題が尽きたようだ。まるでそのタイミングを待っていたかのように、扉の前にマダム・オリヴィエが現れる。顔はやつれ、僅かに赤くなった目を隠すように手を添えて、オリヴィエは船長に声を掛けた。
「リヴ、話を」
「わかった」
「リュセ、あんたは下に行きな。店番を頼むよ」
「……はい」
孫娘は大人しく部屋を出て行く。
重苦しい空気が舞い降りた。
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