5-2 〈サンタ・ディ・ルーチェ〉

 サンタ・ルチア港に程近い路地で、アンティークショップ〈サンタ・ディ・ルーチェ〉はひっそりと商いに勤しんでいた。

 街全体に溢れた雑多な色彩の中ですら、この店は気高さを失わない。上品なボトルグリーンの店構えは歴史を売る店に相応しい。

 マダム・オリヴィエ・ベルトーニは鼻に老眼鏡をちょこんと乗せて、ファッション雑誌を読んでいる。

 白くなった髪や顔に刻まれた皺は、生まれ持った彼女の美しさを少しも損なってはいない。むしろ、彼女の美はアルバムに封印された少女時代よりも遥かに洗練されているようだった。

 店内に溢れた品々に決して見劣りしない彼女の姿は、さすが多くの子どもたちを育ててきた「マンマ」の姿だった。


 ふいに僅かな日差しが遮られたので、マダム・オリヴィエは顔を上げた。見れば、ショーウィンドウに背を向けて、キョロキョロと周囲を見回している若い娘がいる。

 それは彼女の孫娘であった。

 孫娘は人気の無いことを確認すると、滑るように店内に入って来た。


「なんだい? そんなにコソコソして」


 オリヴィエは不機嫌そうに言う。リュセは息を切らせてカウンターに駆け寄ると、手を口に添えて囁いた。


「どうしよう、おばあちゃん。なんか危なそうな人が店に来る」

「はぁ?」


 リュセは祖母とは違う青い視線を何度も店先に走らせた。


「さっきね、駅前で露骨に怪しい二人組にうちの店の道を聞かれたの。黒尽くめのすっごく目付きの悪い男と、ずっと顔を隠してる女の子! 男の方は女の子がちょっとどこかへ行こうとすると凄い剣幕で連れ戻しに行ってた。マフィアかな? あの子、きっと脅されて連れて来られたんだと思う」

「マフィアぁ? マフィアが骨董品屋に何の用があるっていうんだい?」

「ほら、なんていったっけ、あのカモッラの! おばあちゃんが仲良くしてるマフィアがいるじゃない? きっとそいつに用があるのよ。中東系の顔立ちしてたから、外国の組織がカモッラの弱みを握るためにおばあちゃんのことを攫いに来たのかも!」

「映画の見過ぎだよ。確かにうちにゃマルコってマルケシーニ家の人間が出入りしてるけど、あの若造の弱みなんて握ったってどうしようもないだろうに。単に目印としてうちを利用しただけさ」


 オリヴィエは孫の頭をポンと叩くと、納得がいかない様子で膨れっ面をする彼女に笑い掛けた。

 体付きは同じ年頃の娘たちよりもずっと成熟して見えるが、やはりまだまだ子供だ。オリヴィエの人生の四分の一も生きていない。


「いいかい、リュゼッタ。神官様の事件があったからって、外国人に反感を抱くのはよくないよ。あの事件のせいで何の関わりもない中東系の人たちがどれ程肩身の狭い思いをしてるか知ってるだろう? そういう偏見を持つのはやめな」

「だって! 明らかに怪しかったもん! チラッチラ周りの目を気にしちゃってさ、観光客にしては挙動不審過ぎるって。ぜーったいに何か悪い事して、警察に追われてるんだよ」

「この街じゃ悪い事をしてない連中の方が少ないよ。その二人組のことはもういいから、とにかく窓際に積みっ放しの画材道具をなんとかしとくれ。商品と間違って売っ払うよ」


 孫娘がまだ何か言おうとするのを押し退け、オリヴィエはカウンターから立ち上がり、そして動きを止めた。

 ショーウィンドウの向こうに現れた人影。黒尽くめの男と少し小柄な男装の連れ。彼らは人目を避けながら〈サンタ・ディ・ルーチェ〉の看板を指差していた。

 マダム・オリヴィエは怪しい訪問客から目を離さずに、孫娘に耳打ちした。


「リュセ、リヴを呼んできな。二階にいる」

「わかった」


 少女が階段を駆け上る。同時に客の入店を告げるベルが涼しげな音を立てた。

 確かに怪しい二人組だった。

 一人はフードの下から警戒心も露わに彼女を睨んでいる。その体付きは決して大柄ではないが逞しく、ならず者を長年見続けてきたオリヴィエには、彼がカタギの人間でないことはすぐにわかった。

 そして、気になるのはもう一人の方。七分丈のズボンをサスペンダーで吊り、白いシャツにリボンタイを結んだ英国少年風の服装をしている。

 連れの男の背に隠れ、出来るだけこちらに顔を向けないようにしているが、なぜかオリヴィエにはその人物に既視感があった。

 オリヴィエはカウンター裏に回って彼らから距離をとると、ぶっきら棒に言った。


「いらっしゃい。何の用だい?」

「えーっと、人を探してるんだが、この店に――」


 黒尽くめの男が不安そうに店内を見回す。手元のメモと見比べているということは、この場所で合っているか確かめているのだろう。


「誰を探してるのかは知らないけどね、客じゃないなら帰っておくれ。待ち合わせなら余所でするんだよ」


 敵意剥き出しの店主の様子に男は酷く困惑している。連れが俯いたまま男の服を引っ張った。

 その時、誰かが階段を下りて来る足音がした。その音にオリヴィエも、怪しい来店者も、共に店の奥を見遣る。

 早足だが決して急いでいるようには見えない歩き方。堂々と背筋を伸ばし、首を捻って階下を見下ろす眼差し。どこか古風な仕草の一つ一つが、見る者に舞台の立役者の登場を印象付ける。

〈アヒブドゥニア〉号の船長は切れ長の瞳を筋のように細め、睨み合う三人を見比べた。

 その視線が来店者の善悪を見定めようとしているのは明らかで、それは彼が当たり前のように携えてきた金の長剣からも見て取れる。精巧な細工を施されたそれは、店内の品々に見劣りしない見事なものだった。


「リヴ……」


 オリヴィエの囁きを無視し、船長が来店者に歩み寄る。その後ろから怯えと好奇心が入り混じった顔をしたリュセが現れ、オリヴィエに寄り添った。

 長剣の柄から赤い房飾りが揺れる。藍色の剣士はその武器を抜くのだろうかと、二人は固唾を呑んで見守った。

 ところが、船長はその剣を横の棚に立て掛け、対する黒尽くめの男もニカッと笑って見せたのだった。


「船長!」

「久しぶりだな、グウィード」


 二人は握手も抱擁も交わさなかったが、細めた視線を絡め合うことで再会を喜んでいるようだった。


「道中危ない目に遭わなかったか」

「おう。堂々と国鉄乗り継いでここまで来たけど、問題はなかった。あんたは? いつから骨董品屋の用心棒になったんだ?」

「用心棒ではない。ここは〈アヒブドゥニア〉の卸先の一つだ」


 二人があまりにも自然に言葉を交わすので、リュセはぽかんと口を開けた。


「えっ……船長、その人と知り合いなの?」


 振り返った船長が頷いてみせる。その肩越しに琥珀色の瞳を覗かせ、黒尽くめの男は「あっ」と叫んだ。


「お前! さっきの女!」

「ひっ」

「お前、俺たちに嘘の道教えただろ! 危なく卵城見に行くところだったんだからな!」

「げげっ、ばれた!」


 リュセが小さな悲鳴を上げて祖母の後ろに隠れる。オリヴィエは緊張を解いて溜息を吐くと、無表情のまま見守っている藍色の男を睨んだ。


「リヴ、彼らは誰なんだい?」

「私の会社の人間だ。彼はグウィード。それから――」


 一同の視線が、男の陰に縮こまる華奢な人影に集まった。

 グウィードが一歩退き、背中を押す。もう一人の来店者は暫く躊躇った後、ついにキャスケットを脱いだ。

 ふわりと広がった色の無い髪。見覚えのある深紅の眼差しに、祖母と孫は驚愕の声を上げる。


「う、嘘! 本物?」

「おいおい、そんな……どういうことだい?」

「おう。神官セメイル様だ。本物だぜ」


 セメイルは赤面した顔を隠すように前髪に触れながら、グウィードの袖をちょいと引っ張った。


「グウィードさん、『元』です。そこはきちんとしておきたいのですが……」

「待ってくれ。ということは、え? 神官様はアバヤ帝国の人間に拉致されてしまったんだろう? なんでここにいるんだい? ヴァチカン教会はもう取り戻せたのかい?」

「あっ! おばあちゃん、この人新聞に載ってたテロリストの人だ! やだ、超怖い!」

「違う。俺はテロリストじゃない」

「リヴ! あんた、テロリストの片棒を担いでたのかい? 元からカタギじゃないとは知ってたけど、なんて男だ!」

「違う。私もテロリストじゃない」


 店内は混沌とした。

 怯える女性陣、弁解を試みる指名手配犯、無力な元神官。

 結局場を収めたのは何事にも動じる素振りを見せない藍色の男だった。

 船長は青い一瞥でそれぞれを黙らせると、通報しようとしたオリヴィエから受話器を取り上げた。


「オリヴィエはヴァチカン教徒か」

「……そうだよ」

「そうか。それでは少し聞きたくない話かもしれないが。端的に述べると、セメイルは教会に裏切られ、殺されそうになっていたところを我が茨野商会が保護している。帝国に拉致されたというのはヴァチカン教会が流した全くのデマだ。帝国のテロリストなど存在しない」

「……は?」


 場が凍り付いた。そして、氷が溶けるようにゆっくりと、船長の言葉がオリヴィエの脳に染み込んでいく。徐々に開いていく唇は渇き、吐息には震えが混じった。


「リヴ、自分が何を言っているのかわかっているのかい?」

「当然」

「……聞き捨てならないね」


 オリヴィエは敵意を込めて船長を睨んだ。


「教会への侮辱は教皇聖下への侮辱だ。聖下に対しての暴言はいくらあんたでも許さないよ。教会にあの御方がおられる限り、そんなことは――」

「では、なぜセメイルがここにいる?」


 二人は無言で睨み合った。

 船長の告発はあまりに重い。世が世なら異端審問で火炙りだ。

 教会が姦計を、しかも外交問題に関わるでっち上げを行っているなど、絶対にあり得るはずがないのである。それなのに、やはり神官は二人の間にいるのだ。


「オリヴィエさん」


 セメイルが静かに進み出る。少し緊張したその声は、オリヴィエもラジオで耳にしていたものと同じだった。


「船長さんが仰っていることは、残念ながら全て真実です。私は教会から命を狙われ、彼らに助けられました。そして、教会の企みを阻止するため、彼らに協力を求めたのです」


 深紅の眼差しは直視するには耐え難い。オリヴィエは視線を泳がせ、ちらりと孫娘を見遣った。リュセが状況を理解したかはわからないが、場の空気に気圧されて何も言えないでいる。

 オリヴィエは〈アヒブドゥニア〉号の船長に向き直った。


「神官様に免じてこれ以上の追及はよそう――今は。だけどきちんと説明はしてもらうよ?」


 その目がスッと細くなり、齢を重ねた顔が苦悩に歪む。


「信じてるよ。信じているからこそ、疑うようなことはしたくないんだよ」

「……すまない、オリヴィエ」


 船長は抑揚の無い声で答え、店の奥に下がるオリヴィエの後姿を見送った。

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