第5章「赤と帝国」
5-1 懐かしい悪夢
花の都――フィレンツェ。
偉大な芸術家たちの魂が今も息衝くその街は、決して歴史の面影だけを抱き続けてきたわけではなく、そこに住む人々と共に多様な変化を遂げてきた。
過去と現在が交錯する街。
彼女の横顔は気高い貴婦人でありながら、少女のような無邪気さで微笑する。
九月のフィレンツェは未だ日差しも厳しく、溢れ返る観光客を意気揚々と照らしていた。
彼は帽子を深く被り、人目を避けるように路地を突き進んでいたが、ふいに視界が開けて足を止めた。
色鮮やかな菓子が並んだショーウィンドウ。楽しそうな子供の声に思わず顔を綻ばせた。
少女が母親に呼ばれて駆けて行く。
ワンピースの後姿を目で追った、その視線の先に。
言葉なんていらなかった。
同じように肩を並べた大勢の人々。皆、口を開けたまま壮麗なその姿を見上げていた。
聳え立つドゥオーモ。
白、緑、赤――三色の大理石による幾何学模様は一見無秩序なようで、レースの如く繊細な編み目を描き出していた。後方にはクーポラの蕾のような丸い屋根が見えている。その色は晴天の下に特に映え、鮮やかなオレンジ色に輝いていた。
「きれぇーい!」
突然足元で声がして、彼は雑踏の中に引き戻された。眼前に現れた美しい建造物に心を奪われていた彼は、その少女が近寄って来ていたことにも気付かなかったし、少女の言葉が自分に向けて発せられたことにも気が付いていなかった。
黒いおかっぱ頭の女の子。先程お菓子屋のショーウィンドウに額をくっ付けていたあの子だった。
「とってもキレイね。そう思わない?」
少女は明らかに彼に向かって話している。
まずい。顔を見られるわけにはいかないのに。
しかし、少女は広げた両手に花の大聖堂を抱きすくめて、幸せそうに微笑んでいる。どうするべきか決めかねて、彼は帽子で顔を隠したまま小さく返事をした。
「そうですね」
その声があまりに小さく、無感動だったので。少女は傷付いた様子で振り返り、彼の顔を覗き込んだ。
「おにいさん、教会は好きじゃないの?」
「いえ、そんなことは……」
少女は不思議そうに彼を見ている。やがてその目が驚愕に大きく見開かれ。
ああ、ばれてしまったのかと、彼は逃げ出す準備をした。
大聖堂と彼を見比べる少女。何度も何度も首を振り、その度に黒い髪がふわりと広がる。そして、少女はまあるい顔に満面の笑みを浮かべて、彼の腕を取ったのだった。
「あなた、あの教会とそっくりだわ!」
セメイルは顔を上げた。
白く輝くファサードを仰ぐ。
他の建物より明らかに白く浮いている大聖堂は、それを恥じることなくむしろ堂々と、この青空の下満開の花を咲かせていた。
***
「セメイル」
誰かが彼の名を呼んだから、彼は目を覚ましてしまった。
色の無い睫毛を持ち上げる。深紅の筋が零れた。側頭部に感じる違和感と痛みは寄り掛かっていた窓硝子のせいだろう。
いつの間に雨が降ったのか、窓硝子は結露して白く曇っている。
すみません、と体を起こし、腕に垂れた雫を見遣る。
何かと思えば、泣いていたのは空だけではなかったようだ。
「大丈夫か?」
酷く不愛想な声が訊ねた。手袋の甲で涙を拭う。セメイルはこくりと頷き、向かいに座る男を眺めた。
色の無い自分を白と呼ぶのなら、目の前の男は黒だろう。浅黒い肌、黒尽くめの衣類。目深に被ったフードからはうねる黒髪が漏れ、吊り上ったアンバーの瞳を隠している。
彼の名はグウィード。もう十日程前になろうか、ヴァチカン教会に生贄として殺されそうになっていた自分を救ってくれた男。そして、教会によって神官を拉致したテロリストに仕立て上げられた国際指名手配犯。
「もう着くんですか?」
セメイルは乱れた髪を整え、キャスケットの中にしっかりとしまい込んだ。
元神官の拉致被害者と偽りの拉致加害者。容姿も立場も正反対だが、共に追われる身となった彼らは今、堂々とイタリア鉄道の二等車両に収まっていた。
グウィードは不機嫌そうに腕を組み、上着の中に沈み込んだ。
「もう少し。ただ、なんか……うなされているみたいだったから、起こした」
「そうですか」
うなされるような夢だっただろうか。
いや、泣いてしまうくらいだからそうなのだろう。
あの夢の続きは覚えている。彼はあの後連れの男に見つかり、少女から無理矢理引き離されるのだ。そして、買ってきたパニーニを押し付けられながら叱られる。勝手に一人で歩き回るな。結構心配したんだからな、と。
嗚呼。
確かにかつての親友が出てくる夢なんて、悪夢でしかないかもしれない。
セメイルは再度瞼を拭った。
「ナポリ、行ったことあるのか?」
「ありますよ。お仕事で何回か」
「スパッカ・ナポリは?」
「下町の方は殆ど行かせてもらえませんでした。なにやら治安が悪いそうで」
「治安が悪いっていうか、ドサクサなんだ。乱暴っていうか、雑多っていうか」
国内第三の大都市でありながら、過密による社会問題に喘ぐ街。陽気な活力に満ち溢れた、しかし、イタリアン・マフィアの勢力下でもあるという、光と闇が混在する街。
聖域に隔離されていた自分のような人間には無縁の世界だ、とセメイルは思った。
「グウィードさんは何度か訪れたことがあるんですか?」
「そんなに多くないけど。〈アヒブドゥニア〉号の交易拠点だから」
「今から合流する船ですね?」
「そう。その船の船長はかなり変わった人だから、慣れるまで苦労するかもしれないな。一応事前に教えておくけど、あのおっさんに名前とか過去とか聞いたりするなよ」
セメイルはきょとんとグウィードを見た。
「記憶喪失なんだ。戦時中に記憶を失ったらしくて、この十年より昔のことを何も覚えていないそうだ。本名も、生まれも、全部」
グウィードはそんな深刻な話をさらりと口にする。
茨野商会は特殊な事情を持つ者たちを壁も無く受け入れてきたのだろう。だからこそ彼らは自分のことも受け入れてくれたのだ。
表社会から身を隠している彼らだが、その温かさに自分には無い自由を感じた。
「それはお気の毒に……さぞ苦労なされたでしょうね」
「もう慣れたみたいだけどな。その人のことは、俺たちは単に『船長』って呼んでる。渾名で呼んでる人もいるにはいるんだが、俺はあのおっさんに渾名で話しかける勇気はないな」
セメイルはまだ見ぬ船の長に一抹の不安を覚え、複雑な表情を浮かべた。
「お、そろそろか。降りたら俺から離れるなよ。スリも多いし、押し売りだなんだって近付いて来る輩が多いから。顔もしっかり隠しとけ」
「はい」
列車は次第に減速していく。
セメイルは帽子を引き下げた。車窓を流れる賑やかな街並みから、色の無い顔を隠すように。
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