4-28 エピローグ――日常の終わり
時を同じくして、ナポリ。
アンティークショップ〈サンタ・ディ・ルーチェ〉の二階にて、男が一人、年代物のカウチに寝そべっていた。
長身は座面に収まらず床に着いているが、目を閉じた表情は実に穏やかで、うっすらと開いた唇から穏やかな寝息が漏れていた。アシンメトリーな髪が瞼にかかり、白い刺繍に藍色の海を作る。痩せた胸は呼吸と共に上下して、右手が床に垂れたとき、簡素な腕輪が涼しげな音を立てた。
その彫刻のような寝顔をじっと見下ろす影がある。
少女は男の寝顔に暫し見とれ、それからハッと我に返った。ルチア・フォンダートは大きく息を吸い込み、寝ている男の肩を揺すった。
「船長さん、オリヴィエおばあちゃんが呼んでるよ」
〈アヒブドゥニア〉号の船長は閉じた瞼を動かすこともなく眠り続けている。
「せーんちょーうさーん、起きて」
男は目覚めない。
ルチアは頬を膨らませると、身を乗り出して男の耳に口を寄せた。
「船長さん、起きてってば……きゃっ!」
突然船長が腕を伸ばし、抱き寄せられたルチアの視界は一回転。気が付けば男の腕の中で横になっていた。
ぽかんと見つめる少女の瞳と、表情のない同じ色の瞳。
何が起きたのか漸く理解したルチアは声を上げて笑った。小さな指が頬をなぞり、藍色の髪を掻き上げる。
「船長さん、オリヴィエおばあちゃんが呼んでるの」
「……わかった」
「お電話だって。早く行ってあげて」
「……ああ」
船長は今一度ルチアをきつく抱き寄せると、午後の微睡を惜しむように深く息を吸い込んだ。ルチアがくすぐったそうに笑い声を漏らす。
「二度寝しちゃだめって、ミナギお兄ちゃんにいつも言われてるでしょ? ほら、船長さん起きて。お電話の人が待ってるよ」
ルチアがぴょんと飛び降りて、起動の遅い男の腕を引っ張った。船長は眠そうに地面に足を着ける。
〈サンタ・ディ・ルーチェ〉の一階店舗では、店の主であるオリヴィエ・ベルトーニが受話器を片手に待っていた。彼女は明らかに愛娘との触れ合いを楽しんだために遅れて来たであろう男を睨み、その手に受話器を押し付けた。すれ違いざまに男の尻を叩く。
〈アヒブドゥニア〉号の船長は受話器に耳を当てた。
「……プロント」
『もしもし? 船長ですか?』
船長は表情のない顔で眉だけを微かに寄せた。
「主任?」
『お久しぶりです。今話しても大丈夫かしら?』
船長は青い瞳をちらりと店内に走らせる。オリヴィエは肩を竦めてみせ、電話代は請求するぞとジェスチャーを飛ばした。船長は頷いた。
「ああ。どうかしたのか?」
『ええ、困ったことになりました。でも、その話をする前に、あなたに次の任務を引き受けていただきたいのです』
「……わかった。話を聞こう」
船長は丸椅子を引き寄せるとその上に腰掛けた。長い脚を組む。受話器を肩で挟み、万年筆をインクに浸した。
いつものように、穏やかに過ぎる午後のひと時。
骨董品に囲まれた、煩雑だが店主のセンスが光る店内で、船長が走らせるペンのカリカリという音だけが響く。
オリヴィエとルチアはカウンターに向かい合って座り、年代物のビーズを色別に寄り分けていた。ガラスケースの上に並べられた小皿が鈍い輝きの粒に覆われていく。時間の合っていない壁掛け時計が低い声で鳴いた。
仕分けの傍ら、ルチアが度々船長を盗み見る。男の横顔は相変わらず無表情で、一体どんな内容を話しているのかわからない。それでもどこか真剣な眼差しに、幼女は胸が締め付けられるような寂しさを覚えた。
穏やかな日常の終わりが、〈サンタ・ディ・ルーチェ〉に忍び寄っていた。
今、通りの向こうの広場で、興奮気味の少年が号外紙を配り始めたことを三人は知らない。
ある少女がそれを受け取り、連れの青年と額を突き合わせて読んだことを知らない。
そこに書かれた内容を知らない。
彼らの日常が崩れる時が来たことを、知らない。
「おばあちゃん!」
〈サンタ・ディ・ルーチェ〉の扉が勢いよく開いた。
駆け込んできたのはマダム・オリヴィエの孫娘、リュセだった。豊かな金髪を振り乱し、青い瞳を動揺に震わせている。
後に続いたのは〈アヒブドゥニア〉号の航海士ミナギ。リュセの荷物持ちとして付き合わされていた彼は、画材道具を抱えて困惑気味の表情だ。ずり落ちた眼鏡越しに船長の姿を探している。
「どうしたんだい、リュセ? そんなに慌てて――」
オリヴィエが老眼鏡を指で下げる。リュセはカウンターに走り寄った。号外を突き出す。
「見て! 今広場で貰ったのよ。神官様が……神官様が……」
「神官様? ヴァチカンのセメイル様かい?」
「エルブールっていう町を視察中にテロリストに狙われて、拉致されてしまったらしいの!」
オリヴィエが号外を引っ手繰る。リュセも肩越しに覗き込んだ。
「あぁ……」
突然の悲劇に、思わず悲嘆の声が漏れる。貪るように記事を読んだ。
***
そして、聖オークウッド総合病院。
彼らもまた肩を並べて新聞を読んでいる。読む、というよりも、そこに掲載された写真に目が釘付けになっていた。
白黒の写真――色彩はいらなかっただろう。そこに写っている人物には元々白と黒しかない。
一人は神官セメイル。テロリストに羽交い絞めにされ、白い喉元にナイフを突き付けられている。
そしてもう一人。テロリストとして紹介されているのは、今まさに並んで記事を読んでいる、この男だった。
「おい、どういうことだよ……」
グウィードが驚愕の表情を浮かべる。エアロンが悔しそうに歯を食い縛った。
「見たまんまさ。お前が神官を攫ったことが記事になってる」
「だけど、それは事実だけど、これはどういうことなんだよ!」
浅黒い指が示した大見出し。
『ヴァチカン教会の聖人、神官セメイル――スーバール教国家、アバヤ帝国のテロリストに拉致される』
「俺はアバヤ帝国とは何の関わりもないし、スーバール教徒になった覚えもない!」
「わかってるよ! わかってるから、怒鳴るな!」
エアロンの一喝にグウィードのパニックが急速に収まる。小さく「悪い」と呟いたグウィードは、手の中の自分の写真をただ呆然と見下ろした。
アバヤ帝国――南アジア最大の宗教国家。
スーバール教徒だけの共同体として息衝くその国は、もう数世紀もの間、鎖国状態を続けている神秘の国だ。決して異教徒を近付けず、自らも国の外には出てこない超排他的国家。
十六年前の世界大戦においても唯一関わりを持つことなく中立を保ち、その後の国際史でも一切舞台に上がっていない。
「何事ですか?」
二人の叫び声を聞き付けて、もう一人の当事者が現れる。神官セメイル、その人だ。セメイルは二人の間に置かれた号外紙を取り上げ、その見出しに深紅の視線を走らせた。表情が強張り、徐々に表れる恐怖の色。
「なんてこと……!」
かつて信仰を集める身だった者として、瞬時に理解したその意味は。
戦争が起きる。
――神官という、聖地ならぬ聖人奪還を目指した
「エアロンさん」
セメイルはエアロンの腕を強く握った。白手袋で隠した両手。見つめる眼差しには焦燥と強い意志が溢れていた。
「茨野商会のあなたに、依頼します。どうか私をアバヤ帝国に連れて行ってください」
***
重苦しい空気が店内を包んでいた。
マダム・オリヴィエは眼鏡を外して目頭を押さえる。
「おばあちゃん……また戦争になるの?」
あの悲劇をまた返すというのか、と。
オリヴィエは静かに首を振った。そんなこと誰にもわかりはしない。
「わからない。わからないよ、リュセ……私たちにできるのは、そうならないよう祈ることだけさ」
祈るんだ、神に。
その時やっと、〈アヒブドゥニア〉号の船長が電話を置いた。
「船長……」
一同が縋るように彼を見る。船長は立ち上がり、ぐるりと店内を見回した。そして、困惑して立ち尽くす航海士に目を止める。
部下の瞳を真っ直ぐに見つめて。船長は言った。
「ミナギ、仕事だ。帝国に乗り入れるぞ」
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第4話「曇天の街」終了
→第5話「赤と帝国」に続きます
※いつも拙作を閲覧いただきありがとうございます!
ATPは諸事情により、1月9日よりしばらく非公開にさせていただきます。再公開は2023年の夏ごろを予定しています。なお、エブリスタでは第5章の「赤と帝国」編を含むATP(AttoⅡ)が公開されておりますので、よろしければ続きはそちらにてお楽しみください。アカウントがなくても閲覧いただけます。
ご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。
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