4-27 後悔

 椿姫つばき主任はショールを体に巻き付けて待合室に座り込んでいた。暖房はきちんと働いているはずなのに、がらんとしていて妙に肌寒い部屋だった。

 彼女は濡羽色の髪を耳に掛け、同色の視線を床に落とした。指先が真珠の耳飾りに触れる。滑らかな手触りは掻き乱された彼女の心をいくらか慰めてくれるような気がした。


 廊下を区切る引き戸が開き、浅黒い肌の男が入ってくる。


「グウィード」


 男はびくりとして顔を擦った。平静を装ってこちらに来るが、その目が赤く潤んでいるのは隠し切れなかった。


「ヴィズの所に行ってたのかい」

「……会えなかった。ずっと面会を拒絶されてる」


 グウィードは彼女の隣に腰を下ろし、両手に顔を埋めた。主任は彼の肩をそっと叩いた。


「仕方ないさ。あれからまだ一週間と経っていないんだ。誰だって足を失うのは受け入れがたいだろう」

「俺が、もう少し早く駆け付けていたら――」

「自分を責めるのはやめな。捨て身でアンを逃がしたのは、彼女自身が決断したことだ。憎むなら、そう――彼女をあんな目に遭わせた奴らにするんだよ」


 その声に滲んだどす黒い意志に、椿姫は体内を冷たいものが流れ落ちていくのを感じた。憤り、無力さ、そういったものが熱を失い、冷たい使命感へと変わっていく。

 グウィードが驚いたように彼女を見ていた。


「グウィード、あたしはね、サイモン・ノヴェルやヴァチカンの横行を許しておくつもりはないんだよ。彼らを止めなければならない。あんたも手伝ってくれるかい?」


 グウィードはごくりと唾を呑んだ。


「当然だ。命令なんだろ? 俺に拒否権はない。そのつもりもない」


 その両眼が愚直なほどに疑うことなく彼女を見るので。椿姫は胸の奥に刺さった小さな痛みを、ニヒルな笑みで掻き消した。


「ありがとう。またちょっとばかし体を張ってもらうことになるよ。かなり大きな話になる」

「何か作戦があるのか?」

「今朝の新聞を見るといい。エアロンにも見せてやりな。彼ももう目覚めたんだろう?」

「ああ。昨日な。まだ少しぼんやりしているみたいだけど」


 主任は立ち上がった。


「もう十分休んだろう。奴らもこれ以上は放っておいてなんかくれないはずだ。叩き起こして支度をさせな。これからが大変になるんだから」


***



 エアロンは中庭にいた。どこか気の抜けた顔で、中央に植えられたオークの木を眺めている。彼には柔らかな日差しの温もりも、小鳥たちの囀りも届いていないようだった。

 グウィードが近付いて行くと、エアロンはぼんやりと振り返った。


「ああ、グウィード」

「よう。調子はどうだ?」

「最高。すこぶる良いよ」

「嘘吐け」


 朝一でタチアナ医師によるカウンセリングだったというが、どうせ何も話さなかったのだろう。何か彼にしかわからないものが、ずっと彼の心を捕らえて離さないらしい。けれど、それを周りに打ち明けようとはしてくれないのだ。


「なあ、売店まで行かないか? さっき主任に朝刊を読めって言われたんだ」

「いいよ」


 二人は連れ立って歩き出した。


 穏やかなものだ。あの曇天の空が嘘のよう。

 白く清潔な廊下に、開放的な大きな窓。看護師がしずしずと歩いて行く。『総合病院』と謳っておきながら受け入れ患者数は少ないのだろう。病室には空きが多かった。擦れ違った車椅子の老人が十分に離れたのを確認し、グウィードは口を開いた。


「まだメルジューヌのこと考えてるのか?」


 エアロンはギクリとして振り返った。


「えっ、何で」

「顔見りゃわかるよ。また何か言われたのか?」

「別に。僕のことが大好きだってさ」

「よかったな」


 エアロンは「あーあ」と言いながら頭の後ろで手を組んだ。


「『自分が信じたいものを信じるのは愚か者のすることだ』ってメルジューヌに言われちゃったよ。ホント、その通り過ぎてぐうの音も出ない。あの時、お前の言うことにもっと耳を傾けるべきだった。僕が間違っててお前が正しかったなんて、認めるのは癪だけどさ」

「過ぎたことだろ。次のことを考えようぜ」

「そうは言ってもね……あの時テレシアがメルジューヌだって気付いていたら、事態は変わっていたのかなって。どうしても考えちゃうんだよね」


 グウィードはちらりと相棒を盗み見た。どこか悲しげなその顔は自分と同じ。彼もどうしようもない後悔で自分を責めている。

 エアロンは小さく笑った。


「絶対殺したと思ってたんだけどなあ。だってさ、僕は間違いなくあの子の腹を撃ったんだ。そんな怪我で川に落ちたら、まず助からないと思うんだけど」

「そのことなんだが――」


 と、言い掛けてグウィードは口を噤んだ。

 このことをエアロンに伝えて何になる? 後悔を助長するだけだろう。


 グウィードは見ているのだ。

 エアロンが橋から落ちたあの日、あの瞬間。


 車に乗って立ち去るメルジューヌの姿を。


「お、ここだね。何か美味しいもの売ってないかなあ? 病院食って本当に不味くて――」


 山と積まれた新聞。その一面を見て、彼らは目を見張った。





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