4-26 聖オークウッド総合病院

 真っ白な病室。

 開け放たれた窓から穏やかな日差しが降り注ぎ、横たわる青年の寝顔を包む。丸い輪郭はどこか幼くも見えたが、すっきりと通った鼻筋や引き締まった肌は成長した大人のそれだ。枕に広がる髪は鉄黒色。無機質な病室に鮮明な黒を投じている。

 動くものは何もない。

 ただ、青年の腕に繋がった点滴だけが、ぽたりぽたりと規則的に時を刻んでいた。



***


 その隣の診察室で、机に向かう女がいた。

 無造作に結った髪が白衣の背中に垂れている。細縁眼鏡の横顔も、お洒落とは言い難い服装も、目を引く明るい髪の色以外は全体的に地味な印象だ。ほっそりと長い指先だけが彼女の女性らしさを惹き立てているが、それを飾る指輪の一つも見当たらない。


「ノックしてって言わなかった?」


 女医は振り返りもせず、背後に立った男に言った。


「した」

「聞こえるようにだよ」

「したっつってんだろ――……」


 長く息を引き摺るような声。煙草の臭いが鼻に突く。

 タチアナ・ノヴェル医師は椅子を回し、扉に凭れる男を見上げた。細い指を突き付ける。


「病院は禁煙です」

「知ってる」

「そうじゃなくて。今すぐ消しなさい」

「うるせぇ女だな――……」


 それでも渋々煙草を放す。床に落ちた吸殻をゴム草履で踏み締め火を消した。散らばった灰に女医は心底嫌そうな顔をして見せる。


「吸殻をそこら辺に捨てるのもダメ」


 男は「あー」と意味のない声を上げながら移動し、診察台の上に寄り掛かった。

 ウェーブがかかった黒髪を掻き上げる仕草は無骨ながらも洗練されており、煙草臭さと共に強烈な色気を放っていた。編み込んだ髪。無数のピアス。その容姿はおよそこの病院という空間には相応しくない。


「それで? 小僧は目ぇ覚ましたのか?」

「ううん、まだ。メイドの子に聞いた話によると、数日前からかなりの過労状態だったんだって。脈は安定しているし、そろそろ起きる頃だと思うけど……」


 タチアナは眉を顰めて付け足した。


「精神科医の立場から言わせてもらえば、彼が起きないのは心の問題だと思うね。気懸りな事があったんだろう。何か、強いストレスになっていたことが」


 彼は興味が無さそうに鼻を鳴らした。


「他の奴らは?」

「元気だよ。グウィードが結構酷い有様だったけど、あの子は本当に丈夫だねぇ。さっすが君の愛弟子って感じ。一番重傷だったのはヴィスベットっていう運転手の子で、なんとか一命は取り留めた。ただ、随分酷いことをされちゃったらしくて、精神的ダメージがかなり大きいみたいなんだ。意識を取り戻してから誰にも会おうとしなくてね。まあ、外傷も酷いから、それを見られたくないのかもしれないけど……」


 手元のカルテに視線を落とし、タチアナは悲しげに呟いた。それから気を取り直すようにギュッときつく目を瞑る。


「アラストル」


 女医は男に呼び掛けた。


「サイモンが、ボクを裏切ったみたいなんだ」

「……わかりきっていたことだろうが」

「どうして? だって、彼はずっとボクに尽くしてくれていた。会社のことだってよく面倒を見てくれていたんだよ?」

「お前のそういうところが――……」


 アラストルは口を噤み、ふーっと息を吐き出した。


「――で、俺に何をしてほしいんだ?」

「あの子の目的が知りたいんだ。教会と手を組んで、一体何がしたいんだと思う?」

「調べて来いってか。手掛かりが足りねぇな」


 タチアナはちらりと扉の方を見た。


「手掛かりならあるよ。それがまさに、君を呼んだ理由なんだけどね」


 取り出したのは白いグローブ。赤い宝石が輝いている。

 アラストルは目を細めてそれを見た。


「おい、そりゃあ――……」

「奇蹟の秘密さ。うちの子たちはとんでもなく大胆でねぇ、ヴァチカン教会の神官様を攫って来ちゃったみたいなんだよね。その彼から興味深い話が聞けたんだ。〈浄化〉に纏わる真相と――教会の背後にいる、とある〈研究所〉の話をね」


 アラストルの眉がぴくりと動く。


「……なるほどな」


二人は何も言わずグローブを見つめ続けた。



***


 ねぇ、エアロン。

 起きてるんでしょ、わかってるのよ。


 柔らかい唇の感触。触れた額のその箇所だけが燃えるように熱い。


 エアロンは薄らと目を開けた。


「エアロン!」


 メイドが駆け寄って来る。エアロンは頭を動かし、視界に彼女の姿を捉えた。アンは泣きそうな顔で彼の髪を撫でた。


「よかった、あなた全然目を覚まさないから……本当によかった」

「んん……?」

「だめ、まだ起き上がらない方がいいわ。今人を呼んでくるから……嗚呼、エアロン! 本当に心配していたのよ!」


 アンがバタバタと廊下に出て行く。その足音をぼんやりした意識で聞いていた。


 随分と白い部屋だな。

 曇天のエルブールとは大違いだ。


 ――エルブール。


 一連の出来事が怒涛のように彼の中に押し寄せる。エアロンは胸のむかつきを覚え、無意識に口を押えた。


 ここはエルブールではないようだ。

 あれからどうなったのだろう?


 アンが中年の女性を連れて戻って来た。どうやら医者らしいその女は、彼の体をくまなく調べ、異常がないことを確かめた。


「よかったよかった。みんな心配してたんだよ? アン、グウィードにも知らせてきてくれるかな。あの子もすっごい心配して、ずっと君の病室の前をうろうろしてたんだ。他の患者が怖がるからやめさせたけど」


 女医は歳に似合わずケラケラと笑う。アンはグウィードを探しに出て行った。

 未だ状況が呑み込めないエアロンは怪訝そうに女医を眺め、一体この女は誰なんだろうと考えた。話しぶりから推察するに、自分を知っているのは間違いない。しかも、アンやグウィードなど他の社員のことも知っているのか。


「どうしたの、エアロン。喋れるかな?」

「え……あ、ここはどこ……?」

「病院だよ。聖オークウッド総合病院。ボクのお勤め先」


 女医が微笑む。その声はどこか聞き覚えがあり、燃えるような赤毛、翡翠の瞳――それによく似た容姿を持つ男を知っているような気がした。

 エアロンはゆっくりと体を起こし、女の顔をまじまじと見つめた。


「……タチアナ?」


 エアロンはぽかんと口を開けた。

 茨野商会の創設者。サイモン・ノヴェルの――。


「あれ? もしかしてボクの顔忘れちゃってた?」


 タチアナ・ノヴェルが不満そうに呟く。


「確かに何年も前に会ったきりだけどさあ……君たちの居場所を造った、言わば神様なんだぞっ、ボクは。もっとしっかり記憶に留めておいてほしいなぁ」

「すみません」


 再び扉が開いた。グウィードはエアロンが目覚めているのを見るや否や拳を握り、ツカツカと歩み寄って相棒を見下ろした。憎悪にしか見えない形相で睨む。そして無言のまま、布団越しにエアロンの胴体を殴った。


「うわっ。なんだよ、グウィード!」

「なんだよじゃねーよ! どれだけ心配したと思ってんだ! 馬鹿!」

「えぇー? 僕そんなに寝てた? 記憶がないんだけど……」


 本気で心配していたらしいグウィードは、顔をくしゃくしゃにしたままむっつりと背を向けて腰掛けた。斯く言う彼も、ガウンの下は真新しい包帯で覆われている。


「見たところ怪我なんてないのに、あなたが最後まで起きないんだもの。そりゃあ余計に心配するわよ」


 アンもベッドの横に椅子を並べた。タチアナが口を挟む。


「だから、ただの過労だって言ったじゃない」

「あの後何があったか教えてよ」


 エアロンは友人たちを交互に見た。


「なんで僕らはここにいるんだ?」

「ちょうど椿姫つばき主任が帰ってらして、タチアナ先生に連絡を取って下さったの。それでここに受け入れてもらえたのよ」


 では、主任もここにいるのか。

 エアロンはほんの少し安堵した。


「〈館〉には行かなかったの? 他の社員たちはどうなった?」


 アンとグウィードが顔を見合わせる。


「わからない。一応、主任の車から無線で連絡は入れたんだ。それで逃げてくれた奴もいるとは思うんだが……」

「〈営業所〉の前まで行こうとはしたのよ。でも、警察やスイス・ガーズが張っていて近付けなくて。それよりも、一刻も早くヴィズとグウィードを病院に連れて行く必要があったから、そのままエルブールを脱出したわ」

「お前とセメイルはその途中で拾ったんだ。その……あいつが連れて来てくれたから」

「あいつ?」


 聞かなくても答えはわかる。

 グウィードは苦い顔で頷いた。


「メルジューヌ・リジュニャン」


 エアロンは目を閉じた。

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