4-25 正体

 濃紺の制服が視界に現れた時、エアロンは自分の体力が限界に達したのを悟った。全身をどっと疲れが襲い、鉛のように重かった。

 後ろでセメイルが小さな泣き声を漏らしている。このままでは自分は悪者として逮捕され、セメイルは教会に連れ戻されるだろう。結末は変わらない。


 そんなエアロンの肩を小さな手が叩いた。


「テレシア……」

「無理が祟ったわね、エアロン」


 覗き込む少女の顔はどこか無機質で、淡い紫の瞳孔が歪んで見える。

 相変わらずの愛らしさは健在だ。が、先ほどまでの彼女とは何かが違った。明らかに。

 少女は目を細めてにっこり笑う。


「大丈夫。エアロンのことは、あたしがちゃんと守ってあげる」


 そう言って彼女は立ち上がった。


 スーツの後姿。ポニーテールが雄々しく揺れる。ボックススカートをたくし上げ、ストッキングを押さえるガーターリングを晒した。そこに吊るされていたのは、見事な大振りのボウイナイフ。


「テレシア……?」


 スイス・ガーズが駆け寄って来る。手に手に銃を握り、座り込む神官、倒れたままのエアロンを指差す。

 その前に新米秘書が立ちはだかった。


「武器を下ろせ! お前たちは包囲されている!」

「ごめんなさい。一応あなたたちは同盟相手だけど、必要があれば始末してもいいって言われてるの。逃げるなら今の内よ? 兵隊さんたち」


 ナイフの柄にキスをする。

 ふっくらとした唇のシルエットが美しくも悍ましい。

 スイス・ガーズが身構えた、その瞬間には、血飛沫が石畳を濡らしていた。


「うわああぁぁ!」


 断末魔が響く。別の衛兵が銃を少女に向けるも、引き金を引く前に頸動脈を掻っ切られていた。アッと叫ぶ暇もない。銃声より多くの悲鳴が路地を埋め、エアロンが見守るその前で、ガーズの屍が積み重なっていった。

 少女は小柄な体と瞬発力を存分に活かし、男たちの間を縦横無尽に跳び回る。銃口が狙いを定めるよりも早く至近距離に踏み込んでナイフを振るう。

 何発かの銃弾がテレシアを掠め、彼女自身の血も流れたが、殺戮の神と化した少女の手を止めるには至らなかった。


 今、最後の一人を切り倒し、テレシア・メイフィールドがナイフを下ろした。返り血を浴びた頬を拭い、結った髪を解く。たっぷりとした長髪が白い顔を覆い、そこに立っていたのは、記憶の中の殺人鬼だった。


「もう大丈夫よ、エアロン」


 テレシアがエアロンに歩み寄る。無意識のうちに彼は身を引いた。


「どうしたの?」

「お、お前は……!」

「なぁに? そんな怯えた顔しちゃって。何か怖いものでも見た?」


 少女が彼を押し倒す。被さった体はとても軽い。

 垂れた黒髪が視界を覆い、二人を外界から切り離した。精巧な陶器のような少女の顔から、エアロンは目が離せない。


 メルジューヌ・リジュニャンは両手で鉄黒色の髪を掻き抱き、エアロンに顔を近付けた。


「嗚呼、エアロン。あたしも会えて嬉しいわ」

「嘘だ、嘘だ、嘘だ……っ! だって、君は、僕が――」


 ――殺したはずなのに。


 殺人鬼は愛らしく首を傾げて見せた。


「何を今更驚いているの? あなただって本当は気が付いていた癖に――サイモン先生の新しい秘書がメルジューヌ・リジュニャンだって。テレシア・メイフィールドなんて娘は存在しないって」

「違う。僕は……っ」

「あら。一応言っておくけど、あたしは『メルジューヌじゃありません』なんて言ってないわよ。あなたがそれを認めたくなかっただけ。だから、あなたは自分で自分に暗示を掛けた。『あれはメルジューヌじゃない。あれはテレシア・メイフィールド。メルジューヌとは別人なんだ』って。そうじゃないかしら?」


 目の前の少女はこんなに無邪気に笑うのに、それがどうしてこうも恐怖を煽るのだろう。

 エアロンは数日前、相棒とランチの際に交わした会話を鮮明に思い出していた。

 メルジューヌの言う通りだ。グウィードの指摘を否定した彼は――……。


「うふふ、エアロンったら。自分の信じたいものを信じるなんて、愚か者のすることよ。でも、あなたのそんな弱さが知れたのは嬉しかった」

「やめろ……っ」


 視界が霞み始める。少女の体を押し退けようとするのだが、やはり体は動かない。藤色の瞳と愛らしい笑みだけが彼の世界を埋めていた。


「あなたの目が覚めた時、きっとあたしはもうそこにはいないわ。やっとこうして会えたのに、こんなすぐにお別れなんて……でも、また会える」


 メルジューヌが身を乗り出す。甘い匂いが微かに香った。


 細い指に誘われてエアロンは目を閉じる。

 少女の唇が額に触れた。


「おやすみ、エアロン。大好きよ」

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