4-23 セメイルとラスイル

「止まれ、スベルディス!」


 銃弾が空を裂き、灰色の頭部を狙い撃つ。先を行く近衛部隊長はひらりと躱し、弾丸は家屋の石壁にぶち当たる。足音に混じり反響した銃声が、二人の通った道筋を描き出していた。


 土地勘のあるエアロンは、スベルディスが行く宛もなく逃げ惑っているだけだということは当に察していた。袋小路に追い詰められることだけは避けようとしているらしく、比較的大きめの通りを選んで逃げているようだ。方角では東に向かっている。


 東か――悪くない。東は切り立った山の麓に接しており、行き止まりが多くなる。後は銃弾でうまく誘導できれば。


 走りながらもエアロンは、追い詰めたスベルディスをどうするべきか決めかねていた。


 殺す?

 いや、ダメだ。奴からはまだ聞き出せることがあるかもしれない。


 こうなってしまった今、スベルディスを追う目的も、セメイルを保護している理由も、自分たちの身の潔白を証明できる可能性がそこにしか残されていないからだ。

 それに、都合の悪い人間を始末して終わるなんていう結末は、今まさに彼らを狙っている教会と同じではないか。それは僕の美学に反するな、なんて。考えたところで、エアロンは自分があまりにも『人を殺す』という行為について淡泊だということに気が付いた。


 ――何を恐れているの?


 脳内で問う少女の声。


 ――あなたにはできるわ。あなたには簡単なんだもの。


「うるさいな、黙っててよ」


 人を殺すことに憤りを示しておきながら、それを阻止しようとしておきながら、自分はそれを『選択肢の一つ』として受け止めている。

 ふいに思い出すまいと蓋をしてきた幼少期の記憶が頭をもたげ、エアロンは激しく首を振った。


 どうして今そんなことを考えたんだ? 今はそんなことを考えている場合じゃない。


 ほら、スベルディスの長髪が右の角に消えた。

 その道は――行き止まり。袋小路だ。


 続いて角を曲がったエアロンは、石壁の前で立ち尽くすタウォードを捉えた。ハンドガンを構え、左手を添える。隙を作らないようじりじりと間合いを詰めた。


「追い詰めたよ?」

「どうかな」


 振り返ったタウォードが微かに笑う。かと思えば、唐突に壁に向かって一直線に走り出した。


「なっ?」


 呆然と見守るエアロン。

 タウォードは勢いよく壁を駆け上がり、それを踏み台に弾みを付けて身を翻す。後方に詰まれた木箱、そして突き出た街灯を更なる足掛かりに宙を舞い、易々とエアロンの長身を飛び越えた。

 エアロンはすかさず片膝を地面につき、それを支点に体を捩る。上空から着地点まで立て続けに発砲した。内一発が辛うじて着地した片足を貫くが、逃亡する衛兵は両手で受け身を取ることで一回転し、続く銃弾を避けた。


「さっすが、伊達に隊長やってないんだ、ねっ!」


 ここで逃がしてなるものか。

 後を追って走り出したエアロンの前で、タウォード・スベルディスは立ち止まっていた。その向こうに現れた三つの人影。その内、見知った一人が声を上げた。


「エアロン!」

「アン?」


 その傍ら、もう一組が言葉にならない再会を果たしている。

 神官セメイルは変色した右手を掻き抱き、仁王立ちの近衛部隊長と見つめ合っていた。

 二人の姿は互いによく知る姿とはかけ離れており、身も心もボロボロだ。怯えて泣きそうな神官の顔も、虚ろで自暴自棄になった隊長の顔も、かつての笑顔と同じ人物とは思えない。


「タウォード――」


 神官が口を開こうとする。タウォードはそれを一睨みで黙らせ、ハンドガンを片手に地面を蹴った。


 躍りかかる衛兵。

 庇おうと身を乗り出すメイド。

 そして、それを拒んだ神官。


 セメイルは肩に銃弾を受け、後ろに控えていたテレシアの腕の中に倒れ込んだ。


「神官様!」

「とどめだ、セメイル」


 間合いを詰めたスイス・ガーズが二人の前に影を落とす。

 アンが体勢を立て直すよりも先に、エアロンが男の側頭部を銃のグリップで殴り飛ばした。どさりと崩れ落ちた体に跨って、エアロンが銃口を顎に突き付ける。


「捕まえた」

「はっ! 痛ぇよ、何すんだ」

「エアロンさん!」

「テレシア?」


 予想外の少女の声に、エアロンは思わず振り返る。アンが神官の傷を調べながら言った。


「私たちをここまで連れて来てくれたのよ。ほら、あなたのお使いだって――」

「何の話? まあいいや。アン、他の二人は? 逸れたの?」

「外周道路でバイク二台に襲われて……そこでバラバラになっちゃったから、わからないわ」

「そう」


 エアロンはちらりとテレシアに目を走らせた。

 スーツが汚れるのも構わず座り込んだ新米秘書は、痛がって呻く神官を優しく抱き抱えることで応急処置を手伝っている。薄らと汗の滲んだ額に黒髪を貼り付かせ、テレシア・メイフィールドはにっこりとエアロンに微笑み掛けた。

 エアロンは彼女については何も言わず、メイドの横顔に視線を戻した。


「アン、ヴィズとグウィードと合流して〈館〉に連絡を入れてくれ。サイモン・ノヴェルは僕らを会社ごと教会に売ったらしい。もうこの町は危険だ。残っている社員を町の外に逃がしたい。できるだけ、穏便に。迅速に。いいね?」


 メイドは従順に頷いた。


「わかったわ。あなたは?」

「こいつを処理したら僕も行くよ。急いで」


 エアロンが頷く。

 アンは神官をテレシアに託すと、道の向こうへ走って行った。


 さて、とエアロンは体の下でぐったりしているスイス・ガーズに向き直った。


「どうしてくれようか」

「殺すのか? やれよ。できるんならな」

「できるよ」


 エアロンは冷笑を顔に浮かべると、銃口を男の口に捻じ込んだ。


「僕にはできるよ? 人差し指にちょっと力を込めるだけ――簡単なことさ」

「だめです!」


 止めに入ったのはセメイルだった。テレシアの体を押し退け、血の滲む肩を庇いながらエアロンに縋る。鬱陶しそうに払い除けられても、腕を掴むその手は放さなかった。


「お願いです、その人を殺さないでください」


 色の無い眉を寄せる。苦しそうに喘いだ吐息が漏れる唇は、血の気が引いて更に色を失って見えた。エアロンは苛立ちも露わに舌打ちをする。


「何? 庇うの? 自分を殺そうとしたこの男を?」

「そんなことはいいんです。そんなことはどうだっていいんです。彼は私の唯一の親友で、私の妹の、大切な人なんです……」


 無理矢理銃口を上げさせる。

 タウォードが咽ながら地面に唾を吐いた。そして、命乞いをする神官を嘲る。


「甘ったれたこと言うなよ、セメイル。そんなこと思っているのはお前だけだ。俺はお前じゃなくて教会を選んだ。ラスイルだってお前のことを恨んでる。俺たちはもう、お前の味方じゃないんだ」

「な……」


 黒ずんだ右手がはたりと膝の上に落ちた。


 親友の言葉が理解できない。

 きょとんとした顔でセメイルは裏切者を見下ろした。


「当たり前だろ? お前のせいでラスイルは己の存在を消されたんだ。衣食住になんら不自由はなくたって、神官の影武者として生きる限り、あいつはお前の影でしかない。お前が神官を承諾してあいつを影武者にした時点で、ラスイルの存在は奪われたんだよ――お前に」


 鏡を見て、それが自分の顔じゃない者の気持ちがわかるか。


 映っているのは自分じゃない。

 呼ばれる名前は自分のものじゃない。


 ここにいるのは自分じゃ、ない。


 鏡に映る顔に指を這わせ、誰も知らない『自分の名前』を呟く彼女を。

 鏡に縋って声を上げて泣く彼女を、お前は見たことがあるのか、と。


 ゆっくりと目を見開き、小刻みに震える唇を噛み締める。白くなった一点が聞こえもしない音を立てて裂け、深紅の血が滴り落ちた。服にできた染みは、神官の色。ガーネットの色。

 セメイルは裏切者の嘲笑から目を離せずに、呆然と浅い呼吸を繰り返していた。


「――やめろ」


 見兼ねたエアロンが銃口をタウォードの頬に押し付ける。タウォードの乾いた笑い声が不快だった。


「ラスイルに同情してやれよ、エアロン。お前なら影武者の気持ちがわかるだろ? ……いや、わからないか。お前たちには少なくとも、『自分』はあるもんな。『檻』だって日陰なだけで、あいつが閉じ込められていた場所よりずっと広い」

「黙れって、言ってるだろ!」


 鈍い音を立てて頬骨を抉る。口内が切れたのか、唇の端から赤い筋が垂れた。

 痛みに顔を顰めるスベルディスをもっと痛め付けてやろうとエアロンが膝立ちになった、その時だった。


「エアロン!」


 咄嗟に顔を上げたエアロンは、何が起きたか理解する間もなく、体の側面に衝撃を受けて地面に投げ出されていた。柔らかいものが上に圧し掛かり、何かが視界の隅で立ち上がる。


 エアロンは上体を起こして腕の中のテレシアを見下ろした。


「くそ! 今度は何だよ!」


 弾け飛んだ銃を拾いに手を伸ばす。ところが、それは長槍によって阻まれた。

 装飾の美しい青い柄を伝って視線を上げると、黒いバイクスーツの女が立っていた。白い胸元も露わに、勇ましい立ち姿こそ女性の体付きをしているが、その顔は足元に座り込む神官のそれと瓜二つ。


 女は立ち上がったタウォードに肩を貸し、寄り添うように彼の体を支えた。


「ラスイル……っ」


 セメイルが喘ぐように妹を呼ぶ。ラスイルは美しい顔をくしゃくしゃに歪め、自身と同じ顔を持つ兄を見下ろした。作り出そうとした表情は嫌悪。しかし、眉に反して垂れた目尻は、複雑な彼女の心境を物語っていた。


「俺にはできなかったよ、ラスイル」


 タウォードが呟く。撃たれた左足は出血も激しく、足を地面に付くことすら難しいようだ。


「十分でしょう。茨野商会の人間が教会に対して武力で応戦した姿は大勢の住民が見た。神官が生き残ったとしても、悪役は十分上手に演じてもらったわ」


 ラスイルの声に表情はない。

 エアロンは女を睨んだまま銃を奪回する隙を覗っていた。


「神官はどうするの?」

「まぁ……ローマに帰って来るしかないだろ。こいつには他に行く所もないし、どこに助けを求めても、結局保護されれば教会に戻されるんだ。俺たちは放っておこう」

「こいつは?」

「そいつは……」


 タウォードが黒い視線をエアロンに落とす。


「そいつも、他の奴に任せよう」


 近衛部隊長は軍服の内ポケットから小型の無線機を取り出し、部下に連絡を入れた。瞳だけはじっと鉛色に向け、声は平静を装って部下に指示を出す。

 変な光景だと、エアロンは思った。


「行きましょ、タウォード。私に凭れていいのよ。無理はしないで」

「ありがとう」


 恋人たちは支え合いながら、残された者に背を向けた。自分たちが利用し、裏切った青年には一度も目を合わせずに。

 擦れた声を、怯える自分を奮い立たせ、セメイルは最後に妹の名を呼んだ。


「ラスイル」


 立ち止まる背中。

 振り返らない背中。


「待ってください、ラスイル――」

「そんな女存在しない」

「ラスイル!」

「私に話し掛けるな!」


 振り返った女は長槍の切っ先と共に深紅の視線で兄を射抜いた。

 有らん限りの怒りと憎悪を込めて。今まで感じてきた全ての理不尽をぶつけるように。


「兄さんにはわからないのよ! あなたには、兄さんには、私を責める資格なんてない。私は悪くない! 私は……っ!」


 震える唇を噛み、込み上げる嗚咽を飲み下し。

 ラスイルは想いを表す言葉も上手く紡げずに、ただただ涙を流していた。


「普通に町を歩きたいの……好きな人と腕を組んで、ショッピングを楽しんで、公園のベンチでお昼を広げて――そんな当たり前の生活を夢見ることの、何がいけないって言うの?」


 あなたがいなくなれば私は解放される。彼女の瞳はそう言っていた。


 溢れる涙を拭う妹。

 確かに、兄にはそれを咎めることなどできなかった。


 それでも彼女に手を伸ばし、止め処なく零れ落ちる涙を拭ってやりたいと、思った。


「……お馬鹿さん」


 届かない妹の頬に手を添えて、セメイルはにっこりと微笑んだ。睫毛の端に光の粒が溜まり、頬に滲んだ血を洗い流して顎まで伝う。

 その声は掠れていても力強い、安心させる兄の声だった。


「誰があなたを咎めたりしましょうか。私はあなたを愛しています。あなたのためだったらどんなことだってしてあげたい。あなたが笑ってくれるなら何を差し出しても惜しくない。一人の女性だけをこんなに愛するなんて、私は聖人失格ですね」


 ――でも、私のたった一人の妹なのです。


「けれど、それがあなたを私の影に縛り付けることになってしまった。あなたを守りたいという私の勝手を押し通して、あなたを鳥籠の中に閉じ込めてしまった。どうか――どうか、私の我儘を赦してください。我儘で最低な兄を、赦して下さい」


 伸ばした右手はどす黒い罪の色。


 嗚呼、この醜い右手では、穢れない貴女に触れることなど、赦されはしないのでしょう。


 背けられた視線を追い求めたが、彼女が兄を振り返ることは二度となかった。


 色の無い髪を無骨な手が優しく包み、嗚咽を上げる恋人を抱き寄せる。

 裏切者のタウォード・スベルディスは最後に一度、親友に眼差しを向けた。

 ハの字に眉を寄せ、目尻を下げたその微笑は、もう取り返しはつかないのだと、彼らの間に明確な線を引いていた。


「ごめんな、セメイル。もうお前の手を握る手は、残っていないんだ」


 ぱたりと腕が地に落ちた。


 衛兵の足音が近付いてくる。けれど、誰も動くことはできず、ただ呆然と、立ち去る二人の影を見送っていた。

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