4-22 ラスイルという女

 一方その頃、外周道路は連鎖した接触事故により騒ぎになっていた。


 周りには野次馬の人だかりができ始めていたが、満身創痍の人相の悪い男と槍を携えた女という組み合わせは明らかに異様であり、二人の安否を確認するために近付くことすら躊躇われた。

 人々は口々にその時の状況を報告し合いながら、倒れた男女についてあらぬ憶測を立てていた。


 と、地面を擦るような鈍い音が聞こえ、野次馬は口を噤んだ。彼らが固唾を飲んで見守る中、まず男の方が動き出した。指先がピクリと動き、冷たい冬の道路を握るように爪を立てる。擦れてボロボロになった上着越しに屈強な筋肉が盛り上がって山を作り、力の入らない下半身を引き摺り起こした。体の下には赤い染みが残っていた。


 群衆のどよめきをトパーズの一睨みで黙らせる。ごわついた黒髪を振り乱し、グウィードはついに立ち上がった。辛うじて受け身は取れたものの、全身へのダメージは計り知れない。一歩足を踏み出すたびに、激痛で体が粉々に崩れ落ちそうになる。


「お、おい……兄ちゃん、動かない方がいいんじゃないか……」


 気の良さそうな中年男がおずおずと声を掛ける。それを無視して――正直なところ、答える体力も残っていなかったのだが――グウィードは意識のない女の横に膝をついた。


「おい……起きろよ……」


 女の肩に手を伸ばす。バイクスーツの厚手の感触が指を通して伝わった。

 投げ出されたしなやかな肢体に大きな損傷は見られないが、背面を強打したのであれば油断はできない。グウィードは女の上に屈み込み、ヘルメットを外した。

 白髪と共に群衆の感嘆が零れ落ちる。黒い男の黒い腕の中で、純白の輝きが放たれた。傷一つない頬。伏せたまま動かない長い睫毛に、艶のある赤い唇。兄よりも女性らしい丸みを帯びたその顔は、意識を失うことによってより美貌に儚さを増していた。


 グウィードは女の細い肩を抱き上げ、少し力を籠めて揺さぶった。


「まさか死んでないよな? おい、起きろ!」


 女はがっくりと頭を垂れて白い喉元を晒している。介抱しようとグウィードはバイクスーツのジッパーを少しだけ下ろし、首を横に向けて彼女の気道を確保した。黒いスーツから現れた素肌はあまりに対照的に白く透けて、双丘の膨らみに柔らかさを添えている。血と汗と埃に塗れた腕の中で女の匂いがふわりと広がり、消えた。

 脈を診る。女の体は雪のように白いのに、体温だけは妙に高い。規則正しく脈打つ生の証を確認し、グウィードはホッと溜息を吐いた。


 地面に寝かせようと体を動かした途端、白い睫毛に薄らと朱が挿した。ぐるりと辺りを見回す。自分を抱く男の熱に気付き、ラスイルは悲鳴を上げて身を退けた。


「わ、私に触るな! あっちへ行け!」


 ラスイルは気絶していた人間とは思えないほどの俊敏さで長槍を掴み、切っ先を向けた。対するグウィードは鼻先の槍を押し退けることもせず、立てた片膝に腕を乗せて気だるげに女を見上げていた。体を支えた右腕は傍目には逞しさを失ったようには見えないが、極近くに立っているラスイルには微かに痙攣しているのが見て取れる。


「元気そうだな。よかった。死なせてたらどうしようかと思った」


 ラスイルは乾いた唇に舌を走らせ、深紅の瞳で男を睨んだ。


「黙れ。よくも邪魔したわね。殺してやる」

「いいのか? 公衆の面前で神官と同じ顔した女が人殺しなんて、教会が許さないだろ」

「……っ」


 全身がズキズキと痛む。そのせいか頭は妙にすっきり晴れており、殺意を剥き出しにした女の前でも冷静さを保っていた。

 グウィードの指摘は尤もで、ラスイルは悔しそうに槍を下ろした。


「セメイルはどこに行ったの? 答えろ!」

「俺が知る訳ないだろ」

「あんたたちが誘拐したんだから、行先は知ってるはずだ。答えなさい」

「誘拐じゃねぇよ。保護だよ。お前らがセメイルを殺そうと追っかけて来るから、守るために逃げてるだけだ」

「守る? あんたたちが? ふざけたこと言わないで。セメイルには死んでもらわなきゃ困るんだから」


 再度槍を構えた。切っ先が喉に食い込み、グウィードに無理矢理上を向かせる。


 トパーズとガーネットがぶつかる一瞬。

 兄と同じ、瞳だった。


「お前、実の兄貴に対してよくそんなことが言えるな。お前の兄貴はタウォードとかいう奴に裏切りを告げられた時も、お前の心配をしていたっていうのによ!」

「うるさい! 黙れ、黙れぇ!」


 ラスイルは大声を張り上げると長槍を引いた。


 怒りに任せて突き出す槍頭。

 鋭い切っ先が男の胸板を貫こうとした瞬間、グウィードはその柄を掴んで止めた。身構えた女が足を踏ん張って更に体重を掛けるも、ブーツの靴底は押されるままにズリズリと後退する。隆々の筋肉に緊張が走った刹那、押し返された石突が脇腹を抉り、ラスイルは後方によろめいた。


「あっ」


 ラスイルが小さな悲鳴を上げ、槍を支えに体勢を立て直す。

 漸く立ち上がったグウィードは黒髪の隙間から狼の瞳孔を光らせ、彼女を睨んでいた。吐き出した荒い息は猛獣さながら。怒りに塗れた女の顔に僅かな恐怖が過る。


「黙るのはお前の方だ。どいつもこいつも好き勝手言いやがって、訳わかんねぇんだよ! 俺たちを悪者に仕立て上げて、セメイルを殺そうとしているくせに、あいつの命を守ってやってくれだなんて都合のいい頼みごとしやがって!」


 ラスイルがハッと息を呑む。グウィードは血とも汗ともつかない汚れを拭い、吐き捨てるように言った。


「俺にはお前らの考えてることが全く理解できないし、したいとも思わない。教会だ、殉教だ、そんなこと知ったことか。俺達には関係ない」

「それ……それ、本当なの」

「あ?」

「あんたたちに、兄さんを守れって、頼んだって話……」

「ふん。どっかのスイス・ガーズがな」

「タウォード……!」


 唇が震える。ラスイルは構えた槍を抱き寄せ、虚空を見つめて呆然と立ち尽くした。その仕草はバイクスーツの勇ましい姿とは正反対で。グウィードは痛烈に彼女の弱さを意識した。


 アーモンド形の瞳を吊り上げ、ラスイルが睨む。槍頭が再びこちらに向けられた。


「タウォードはどこ?」

「知るか。市街地のどこかだろ。エアロンが――俺の相棒が相手をしてる」

「あの、鉛色の、猫みたいな奴」

「そう。そういえばエアロンは、タウォードの野郎を蹴り飛ばしたいって言ってたな。あいつはかなり根に持つタイプだから、こういうことにかけては有言実行だ。今頃何されてるかわからないぞ」

「この……っ」


 グウィードは荒い呼吸を押し殺し、ニヤリと笑ってみせた。ラスイルが牙を剥く。


「あんたはほっといても野垂れ死にそうね。さようなら」


 捨て台詞を残し、ラスイルがグウィードの横を駆け抜ける。長槍の残像が青い線を引いた。


 グウィードは動かない体を引き摺って歩き出した。時折大きくふらついては、駐車した車に手をついて息を整える。一歩一歩前進することに全神経を集中させれば、痛みも不安も焦燥感も、掻き消える気がした。


 エアロンなら大丈夫だ。だって、俺の相棒なのだから。

 それよりも、今一番自分を必要としているのは。


 グウィードは鉄橋までの長い道のりを少しずつ前に進んでいった。

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