4-20 誰かを守る手

 三人の姿が見えなくなってから、タウォードが最初にした事は銃を下ろすことだった。草臥れたように肩に手を置き、首を回す。灰色の髪がさらりと音を立てて零れ落ちた。


「あれ? やらないの?」


 エアロンが銃を構えたまま片眉を上げる。タウォードは深い溜息を吐いた。


「殺るよ」

「なら始めようよ」


 しかし、スイス・ガーズは動かない。エアロンは心底怪訝そうな顔をした。


「話をする気はないのか?」

「話したいことがあるの?」


 猫のような三角の瞳はこの状況を楽しむ色もなく、どちらかといえば苛立っている。そんなエアロンを見て、タウォード・スベルディスは鼻から細く息を吐き出すと、ぼんやりと宙を仰いだ。


「何さ」


 エアロンには裏切者の近衛部隊長の気持ちなどわからないが、当然向こうにも彼の胸中はわからないのである。

 裏切られた自分の立場、会社の行く末、友人の安否、目の前の男からの不可解な依頼――それらの全てが頭の中を掻き回し、どうやらその元凶の一端を担うスベルディスが悠長に構えているのが気に入らない。

 これは何かの時間稼ぎなのかと、相棒が去った方角をチラリと盗み見た。


「違うよ。時間稼ぎとかじゃない」


 タウォードは見透かしたように言った。


「お前、自分がなんでこんな目に遭っているのか、なんで社長に裏切られたのかとか、知りたいと思わないのか?」


 エアロンの眉がピクリと上がる。タウォードは満足気に、それでいて疲労感の隠せない笑みを浮かべた。


「セメイルはな、元々は単なる修道士だったんだよ。孤児院上がりで、あの特異な容姿を嫌った両親に捨てられたんだと。小さな観想修道会で人目を忍んで生活していたセメイルは、ヴァチカン内部でも密かな噂になっていた。そのタイミングで『あいつら』が来たんだ――」

「待ってよ。僕はお前の話を聞きたいなんて言ってない」


 エアロンは苛立ちも露わに遮った。


「思い出話して感傷に浸りたいなら、別の時にしてくれない? 今じゃなければお茶でも淹れて、いくらでも付き合ってあげるからさ」

「いいから聞けって」


 タウォードは気にせず先を続ける。


「『あいつら』は〈研究所〉の人間だと名乗った。始めは教会も取り合わなかった。そりゃあ、兵器だの科学だのって、宗教からすれば本来関わりたくないものだからな。ところが、現教皇ベルナルドゥス四世は彼らのことを受け入れた。先の世界大戦で教会の信用は地に落ち、本当に藁にも縋りたい思いだったからだ」

「いい加減にしろ! 黙れよ!」


 エアロンが発砲する。威嚇射撃はスベルディスの足元僅か十センチの場所に当たったが、相手は動かなかった。生気のない目に薄ら笑いを浮かべて肩を竦めるだけである。


「相棒が殺されかかってるんだ――お前の仲間に、お前が裏切った人間を守るためにね! すぐに追いかけてやらなきゃダメなんだよ。悪いけど、お前の話なんて聞いてる暇はない!」

「落ち着けよ。本当に聞かなくていいのか? 自分にも関わることなのに? 〈研究所〉の人間の中に、お前のところの社長がいたと言っても?」


 エアロンが小さく息を呑む。鉛色の瞳孔が縮み、銃を持つ手が揺らいだ。

 タウォードが頷く。


「そうだ。サイモン・ノヴェルは最初から教会と繋がっていた。今回のことも、サイモン・ノヴェルが持ち掛けたんだ」


 エアロンは答えない。もう一度だけ視線を後方に走らせ、そして銃を下ろした。


「手短にしてよ。長引いたら撃つから」


「よし、それでいい。〈研究所〉の奴らが持って来たのが、セメイルが使っているグローブの話だった。教会は偶像を創り出すことを決め、セメイルに話を持ちかけた。あいつも最初は断ったんだ。自分は祈りと清貧の生活を送れればそれでいいのだ。そもそも捏造された聖人など神に叛くものだ、と。だが、教会にはセメイルにうんと言わせる切り札があった――それがあいつの双子の妹、ラスイルだ」

「神官の影武者?」

「ああ。成長して孤児院を追い出されたラスイルには食い扶持がなく、酷い条件で身を売るか、飢え死にするかの二択を迫られていた。教会がそれを見つけ出し、保護した。もしセメイルが『神官』の役を引き受けるのなら、ラスイルを影武者として雇おうという条件を出した。だから、セメイルは妹のために要求を呑んだ――」


 ラスイル、という名前を口にするたび、タウォードの顔が微かに綻ぶ。そこには愛おしさと苦悩が入り混じっていた。


「はじめからセメイルは〈浄化〉の真実を肯定してはいなかった。あいつは絶えず迷い苦しんでいた……〈浄化〉は使用者の肉体をも蝕む諸刃の剣だ。肉体的にも、精神的にも、『神官』を通して教会に疑問を持ち始めたセメイルはそろそろ用済みだったのさ」

「それで、僕らのせいにしてセメイルを殺そうって言うの? 言うことを聞かないお人形はもういらないから?」

「セメイルの体は限界に来ている。あと何回も〈浄化〉は使えないだろうな。奇蹟が起こせない聖人なんて置いておいても意味がないだろ? 急に奇蹟が起こせなくなりましたなんて、そんなこと言えるわけがないからな」


 タウォードは悪びれもせず言った。


「ヴァチカン信者ってのはな、殉教が好きなんだよ。そうして成り立った宗教だし、やはりアイドルの最期は劇的で意味のあるものでないと。『神官セメイルは視察でエルブールを訪れ、異教徒のテロリストによって殺害された』――そういう筋書きだが、当然実行犯が必要だ。だから、サイモン・ノヴェルはお前たち茨野商会を差し出したんだ」

「なんだよ、それ……」


 理不尽だと、それだけが頭を過る。


「神官を殉教させたいなら、あんたたちで勝手にやってよ。僕らを巻き込まないで」

「サイモン・ノヴェルに言えよ。俺は事情を知らないが、奴にとってもお前らがもう用済みだったんだろ」


 込み上げてきたのは怒りではなく、悔しさだった。食い縛った口の内に苦い味が広がる。


 僕らが何をしたっていうんだ。

 ただひっそりと生きていただけじゃないか。


「気の毒だとは思うさ」

「黙れよ、教会の狗め」

「仕方ないだろ。俺にだって守りたいものがある。だけど、片手で銃を握ったら、誰かを守る手はもう片方しか残ってないんだ」


 タウォード・スベルディスは空いた左手を見つめ、苦しそうに呟いた。


 重い沈黙が二人の間にあった。もしそれを擬人化して例えるならば、立ち尽くす二人の間にどっかりと腰を下ろし、さぞや退屈そうに、馬鹿にした顔で見比べているのだろう。それくらい無情な超自然的な力の中に、二人は佇んでいた。


 運命とは斯くも理不尽なものだ。

 けれど、それを甘んじて受け入れる僕らじゃない。


 エアロンは銃口を真っ直ぐタウォードへ向けた。


「偽善者。お前は本当に――偽善者だ」


 事情を説明することで僕らへ情けを掛けたかったのか。


 離した手を握れない代わりに、金を僕らに握らせて、罪悪感を掻き消したかったのか。


 残された手で守りたかったものはなんだったんだ?

 

 ――全部、全部偽りじゃないか。


「すまん」

「すまないと思うなら、死んでよ。僕らの代わりに悪者になってよ。それが本当の善意ってものじゃないの? 僕らに情報を与えて、怒りを逸らさせて、それでお前の罪が掻き消されるだなんて思うなよ」


 弾丸が隊長の耳を掠める。長髪に小さな穴が開き、灰色の房がふわりと漂い落ちた。それでも、タウォードは何も言わず、動くこともしなかった。できなかった。


「……そうだな」


 お前の言う通りだよ、エアロン。


 タウォード・スベルディスは感情を失った顔に筋肉が収縮しただけの笑みを貼り付けた。


 そして、逃げた。

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