4-19 カーチェイス

「なんなの?」


 神官を庇って身を挺したアンが叫ぶ。グウィードは更にその上に覆い被さり、並走するバイクを睨んだ。


「フレデリック……!」


 虫の胴にも似た黒い巨体。大型だが洗練されたデザインのバイクに跨り、神父フレデリックがハンドガンを構える。銀フレームのゴーグルの下で、薄い唇が割けるように笑みを浮かべていた。


「なんで神父がそんなもん乗りこなしてんだよ……っ」

「掴まっていてください。叩き落とします」


 白手袋が勢いよくハンドルを回す。後輪にまともに体当たりをくらい、バイクが大きく揺れて視界から消えた。

 ところが、地面すれすれで体勢を立て直し、バイクは再びバックミラーに姿を映した。フレデリックがタイヤを狙って発砲し、車体に当たって大きな音を立てた。


「まずいぞ! アン、銃寄越せ!」


 グウィードが窓から身を乗り出す。すかさずそれを狙って銃弾が降り注いだ。


「危ないわ! やめて、グウィード!」

「んなこと言ってられないだろ!」


 銃を握った腕を突き出し、支えるように左手を肘に添える。辛うじて片目だけ覗かせて追跡者を狙うも、身軽なバイクは易々と避け、応酬の銃弾を浴びせた。


「引き離しましょう」


 女運転手が淡々と告げる。灰色の視線を油断なくミラーに走らせながら右手でギアを変え、力いっぱいアクセルを踏んだ。白い改造車は爆音と共に急加速した。全身に耐えきれないほどの負荷が掛かり、座席に体が押し付けられる。


「うえぇぇぇぇぇ!」


 前を行く車を右に、左に避ける度、後部座席から悲鳴が上がる。グウィードは隣の神官を潰さないよう必死で天井に手を付きながら声を張り上げた。


「おい、 ヴィズ! あっ、危ないだろ!」

「そんなことは言ってられません。まだ付いて来る――」


 ヴィズは小さく舌打ちをした。

「グウィード、どこに向かうか指示をください。もうすぐ道が市街地に曲がってしまう。奴を撒かないまま市街に入っては市民を危険に晒しますし、小回りが利くバイクには勝てないでしょう」

「くそ、〈館〉は無理か。それじゃ、町の外へ向かってくれ」

「了解しました」


 車は一瞬速度を緩めたかのように思われた。が、ヴィズは見事な手捌きで重いハンドルを回し、建物スレスレで車をUターンさせた。


「ひぃぃぃ!」


 通り過ぎざまに銃弾が何発か車窓に当たり、後部座席に硝子の破片が降り注いだ。グウィードが体を張って二人を庇う。

 フレデリックはすぐさま向きを変え、彼らの後を追い続ける。


「ヴィズ! 前からもう一台!」


 アンが叫ぶ。ヴィズは即座にハンドルを切った。

 紙一重で交わしたもう一台のバイクは、捨て身で正面から突っ込んできた。辛うじて接触を免れ、車とバイクは正反対の方向へ大きく逸れる。

 歩道へ乗り上げた改造車は街路樹を掠めて軌道を修正した。


 バックミラーに一台、サイドミラーに一台。ヴィズは路肩に追い込まれたことを悟った。


「なんだ今の! あいつ、死ぬ気か?」


 もし僅かでも接触していたら、双方ともただではすまなかったはずだ。命を捨てるような乱暴な攻撃に思わずグウィードも驚嘆の声を上げる。


 未だ車内に散らばった硝子片に構うことなく神官がグウィードに乗り上げた。


「うおっ。危ないぞ、神官! ちゃんと座って――」


 割れた窓から顔を出す。色のない髪が強風に吹かれ、そのまま彼を車外に引き摺り出そうと大きく煽った。残った破片が指の腹を裂くも、セメイルは大声を張り上げた。


「ラスイル!」


 エンジン音に掻き消された声。


 妹の名を呼ぶ兄の叫びは、風に乗って後方の追跡者へと届いた。

 僅かに反応する素振りを見せる、二台目のバイク。


「下がれよっ、馬鹿!」


 嫌がる神官を無理矢理抱え、グウィードが席に着かせた。アンが念を押すようにセメイルの手を掴む。


 二台目のバイクが車窓に並ぶ。

 黒いヘルメットのため顔は見えず、同色のバイクスーツが艶やかに描き出す官能的な曲線だけが、運転者を女性だと物語っていた。大柄なバイクを左手のみで操り、右手は後方に回している。

 黒い背景にきらりと走る青の閃光。自身の背丈ほどはあろうかという長い槍を携えていた。


「おいおいおい……っ。あいつ、何するつもりだ……?」


 高速で爆走中にも関わらず、長槍を体の一部のように易々と扱っている。ひょいと真上に放り投げ。向きを変えて握り直したその切っ先は、真っ直ぐ左の後輪に向けられていた。


「嘘だろっ?」


 ヴィズがサイドミラーを睨む。しかし、後方には虎視眈々と狙うもう一台のバイクが迫っており、どう対処すべきか決めかねていた。


 行動に移したのはグウィードだった。

 ドアを大きく開け放つ。強風が吹き込み、硝子片が舞った。咄嗟に顔を庇った後部座席の二人に、彼は声を張り上げた。


「アン! 神官を頼むぞ!」

「えっ? まっ、待って! グウィード!」


 開かれたドアを避けて一度は大きく道を外したバイクも、徐々に距離を詰めて追い上げる。再び構えられた槍は無防備な男の体を切っ先に捉えていた。

 追跡者が槍を突き出す。反射的に身を捩ったグウィードはその槍の柄を掴み、座席の側面を強く蹴った。


「グウィード!」


 悲痛な叫びが彼を追う。

 槍を引き寄せるように支点として飛び出したグウィードは、高速で過ぎ去る車の間に身を躍らせた。バランスを失ったバイクが横転し、盛大に火花を散らしながら対向車線へ滑り込む。


 もんどりうって宙に投げ出された二つの肉体は、絡み合って一つの黒になり、地面に強く叩き付けられる――アンがその姿を確認しようと振り返った時には、既に遥か後方へ消えていた。


 メイドの視界に割り込む、黒いバイク。

 ゴーグル越しの濃紫の瞳が、銃を構えたままウィンクを飛ばした。


「あいつら……っ、なんなのよ、もうっ!」


 メイドが唇を噛み、握った拳をシートに叩き付ける。セメイルが妹の名を叫びながらもがいていた。


「アン、落ち着いて聞いてください」 


 運転席から聞こえた声は至極冷静だが、合間に混じる吐息の震えが彼女の動揺を表していた。アンは半狂乱になった神官を抱き留め、バックミラーに映るヴィズの顔を見る。


「もうすぐ鉄橋へ着きます。チャンスは今しかない。後ろのバイクは私が引き付けます。その隙に、あなたはどうか神官様を連れて、〈館〉へ」

「ど、どうやって……?」

「私が合図したら右の扉から飛び降りてください」


 アンは目を見開いた。


「でも……っ」

「大丈夫です。私を信じて」


 鏡越しに混じる視線。

 緊張で強張る運転手の横顔は、それでも端麗で、美しかった。


 噛み締めた唇がキュッと左右に上がるので。

 アンは力強く頷いた。


「わかったわ」


 ヴィズはにっこりと目を細めて笑っていた。


 神官の体を抱き寄せる。自分よりも細く感じる青年の体は、多少の抵抗を見せたものの、目を合わせると大人しく従った。


 ドアに手を掛け、全身の筋肉を緊張させて。


「今です!」


 合図と共にドアを開け、メイドと神官は車外に身を投げた。



*** 


 一人になった女運転手はサイドミラーをチラリと見遣った。

 後部座席は左右どちらも扉が開かれ、鏡の半分以上は白い車体に遮られている。その僅かな隙間から飛び出した黒い影。

 神父が二人を追おうとしている。


 深く息を吸い込んだ。膨らんだ胸が制服の前を押し上げ、ボタン穴が弾けそうなほど広がった。それでもまだ息が苦しい。肺が酸素を吸収しない。


「いかせませんよ、神父」


 ハンドルを切り、バイクの正面を遮って。

 ヴィスベットは全力でブレーキを踏んだ。



***


 膝を引き、体を縮め。

 布の塊と化した二人は、垣根を押し倒して民家の裏庭へと転がり込んだ。

 草木が折れる音、衣服を切り裂く音。

 それでも、骨が砕ける音がしないだけマシだった。

 叩き出された空気を吸い戻す。衝撃で一瞬飛びかけた意識が、酸素と共に戻って来た。アンは肘を付いて体を起こし、足を投げ出して倒れている神官に這い寄った。


「神官様! 神官様、しっかり!」


 乱暴に揺り動かす。

 滑らかな頬に赤い筋ができていた。生糸のような髪が煩雑に額に掛かる。微かに眉を動かして、セメイルは薄らと目を開けた。


「大丈夫ですか? お怪我は?」

「う……ん、大丈夫、です……」


 セメイルがよろよろと身を起こす。アンは全身の痛みを無視して立ち上がり、神官を支えた。刺繍が解れ、泥がこびり付いた僧衣をそっと叩く。母親のようなその手付きに神官は暫し目を細めていた。


「急ぎましょう。人が来ます。とにかくここを離れなくては……」


 アンはキュッと唇を噛んだ。

 恐怖と絶望が全身を駆け巡り、膝の震えが止まらない。


 いいや、違う。それは今の衝撃のためだ。

 恐れてなんていない。不安なんて抱かない。


 私にこの人を守り切れるかしら?

 ――否、守り通すのだ。


 きっと銃を手に独りで戦っている彼女の主が、そして、たった今身を挺して二人を逃がしてくれた同僚たちが、彼女にそう命じたから。


「行きましょう、神官様」


 アンが手を引いて走り出す。


 その時。

 何かが衝突する、大きな音を聞いた。


「ヴィズ……?」


 ガソリンが燃える臭いがした。

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