4-18 合流

 重いブーツが地面を叩く度、腹部を中心に痛みが走る。食い縛った歯の間から漏れた荒い息がねっとりと顔に掛かる。汗と苦痛を拭い去り、グウィードは消沈した神官を振り返った。


「おい! しっかりしろ! 走れよ!」


 セメイルは俯いたまま辛うじて足を前後に動かしてはいるが、逃げようという意思は完全に失っているようだった。汚れた僧衣がバサバサと両足に纏わり付いている。

 汗の飛沫と共に残してきた小さな吐息は、疲労だったのか、嗚咽だったのか。


「追い付かれるぞ!」


 グウィードは苛立ち紛れに罵声を吐く。色のない髪の隙間から淀んだ赤が答えた。


「置いて行ってください。私はもう……走れない……」


 睫毛を伏せて、眉を寄せて。唇を噛んだ青年の顔は今にも泣き崩れそうに歪んでいた。

 グウィードは琥珀の瞳を這うようにずらし、視界の隅に辛うじて神官を捉えた。

 焦りや苛立ちが治まったわけではない。しかし、神官の痛みは手に取るように理解できる気がした。まさに自分もつい先程、信じて尽くし続けてきた相手に、裏切られたばかりなのだから。


「だったらなんで泣いてんだよ」


 吐き捨てた声を風が掻き消した。

 黒と白の二人組は人目を買った。町民も、観光客も、思わず首を回して二人の姿を追う。行く手に立ちはだかった警官は、ナイフの一振りで薙ぎ払った。


 皮肉な話だ。

 この聖人には悲哀の表情が何より似合う。


 グウィードは走りながら考えていた。

 一目で敵意や恐怖を抱かれる黒の容姿を持つ自分と、その美しさで信徒を魅了し続ける白の神官と。

 きょとんとした野次馬の目が神官の姿を捉えた途端、その手を握るグウィードは憎悪の対象へと変わる。内面なんて、真実なんて関係ないのだ。


 それが黒の代償であり、白の恩恵なのだから。


「泣くってことは、現状を受け入れたくないってことだ。本当は嫌なんだろ? 自分にも、あいつらにも、違う結末を望んでるんだろ? だったら走れ! 生き延びて、それでなんとか未来を変えろ!」


 歯を剝き出してグウィードが怒鳴る。セメイルはハッと顔を上げた。

 もう一度だけ、きつく目を閉じる。神官は何も答えなかったが、増した速度が返答だった。

 路地に貼られた標識が鉄橋はこちらだと指差している。渓谷を越え、エルブールと外を繋ぐ境界だ。

 鉄橋へ続く外周道路付近は建物一軒ごとの規模が大きくなっており、その間を縫う道も太くなる。隠れる場所は限られるが、それだけ追い詰められる心配も減るということ。通りの右手にその姿を発見し、グウィードは外周道路に向かって一層足を速めた。


 それにしても、フレデリックはどこへ行ったんだ?

 はっきり言って、自分たちは追手を撒けるほどの速度は出せていない。いくら地の利がこちらにあるとしても、全く姿が見えなくなったのは不自然な気がする。


「グウィード!」


 聞き慣れた女の声が凄い速さで駆け抜けて行った。路上を疾走する白い改造車。

 ホワイトブリムが風に飛ばされ、立ち尽くす二人の前を横切った。かと思えば、甲高いブレーキ音を響かせ、Uターンして来た車が横付けされる。

 窓から顔を覗かせたのは金髪の女。緑の制服を身に纏った〈館〉の運転手ヴィスベットが、グレーの瞳で彼を見上げていた。


「お迎えに上がりました。どうぞ」

「助かった。神官、乗れ!」


 後部座席に神官を押し込む。メイドのアンが救急箱を膝に乗せて待機していた。


「見付けられてよかったわ。グウィード、エアロンは?」

「もう一人の野郎の相手をしてる。ヴィズ、車を出してくれ。とりあえずはこいつを安全な場所に避難させないと」

「承知しました。〈館〉へ向かいます」


 ヴィズが車を発進させる。

 仲間と合流し、鋼鉄の壁に姿を隠された安心感が逃亡者二人を包み込んだ。もう走らなくていいと知って全身から力が抜ける。無意識に溜息が漏れた。

 グウィードは負傷した腹部を庇うために腰をずらしてシートに座り、アンが投げ寄越した包帯を空中で掴んだ。


「グウィード、あなたボロボロじゃない。どうしたらそんな怪我するのよ?」


 バックミラー越しの女運転手が血の付いたシートを嫌そうに睨んだ。


「硫酸ぶっかけられた。すまん、ヴィズ、シートは後でちゃんと綺麗にするから許してくれ」

「硫酸ですって? そういうのはすぐ洗い流さなきゃ! 放っておくとどんどん酷くなっていくわよ。包帯は巻かないでね。ヴィズ、グウィードの手当てをしたいの。どこか水が使える所があったら寄ってくれない?」


 グウィードとアン、二人の間に身を縮めるようにして収まっていた神官セメイルは、ミラー越しに運転手と目が合って視線を落とした。


「すっかり立場が逆転したな」


 グウィードが痛みに冷や汗を掻きながら、セメイルに向かって苦しそうに笑う。神官は俯いたまま答えられなかった。


 アンがそっと微笑んで覗き込む。


 美貌とは無縁の彼女とって、セメイルの造形美は切なさを呼び起こすほどであったが、潤んだ瞳と微かに朱が刺した目尻、怯えた仕草に思わず同情が湧く。そこには聖人としての威厳など欠片もなく、捨てられた子犬のようだ、とアンは思った。


「神官様、私はメイドのアンと申します。あちらは運転手のヴィスベット。副主任エアロンの命を受けてあなたを保護するために参りました。どうぞ気を張らず、私たちを信頼してくださいね」


 セメイルは困惑した。


「エアロンさんが……? 一体そんな、どういうことなんです? 私にはもう、何がなんだか……」


 語尾が震える。アンは神官の白い髪を掻き上げ、切れた耳朶に脱脂綿を押し付けた。


「私もエアロンから聞いただけですが、『あなたに何かあったら守ってほしい』と彼に依頼したスイス・ガーズがいたそうですよ。事情は話せないが、自分にはもうあなたを守ってやることができないので、どうか代わりによろしく頼むと」

「まさか……」


 脳裏に浮かぶ親友の姿。

 長い視察の道中、常に自分を気遣ってくれていた友人の笑顔。

 泣きそうな顔で裏切りを告げた、タウォードの――……。


「なんだそれ。俺はそんなの聞いてないぞ」


 グウィードが不満そうに顔を出す。アンはムッとして睨み返した。


「仕方ないでしょう。エアロンだってどういうことかわかってなかったのよ、その時は。グウィード、気休め程度だけど鎮痛剤もあるわ。手当てが済んだらエアロンを迎えに行ってくれない? 一人にしておくのは心配なの」

「わかってる。あー……くそっ、あの神父ただじゃおかねぇぞ……」


 息をするのも辛くなってきた。グウィードは量の多い癖毛を掻き毟り、苛立ちも露わに窓の外を見遣る。

 僅かに見えるサイドミラー。白い車体に見え隠れする、黒い影。


「ヴィズ!」

「伏せて!」


 銃声が響く。

 運転手は咄嗟にハンドルを切り、車は大幅に対向車線に乗り入れた。紙一重で交わした対向車が避け切れずに民家に突撃する。ブレーキ音とクラクション、罵声が木霊した。

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