4-16 救助要請

 エルブールの町を疾走中のエアロンは、屋根が途切れた地点で仕方なく足を止めた。眼下では警官が道を封鎖し、濃紺のスイス・ガーズが銃を担いで走り回っている。

 神官を誘拐した犯人がまだ捕まっていないのだろうか。今のところそれらしい姿は見ていないが、この包囲網を潜り抜けられるなんて余程この町に精通していると見える。

 なんとなく、嫌な予感がした。

 エアロンは窓伝いに屋根から下り、広場近くの珈琲スタンドに入った。


「いらっしゃい」


 大柄な店主はちらりと目を上げ、再びカウンターに凭れ掛かる男性客に向き直った。カメラを提げたその男はどうやら観光客らしく、エアロンを見ると興奮気味に手招きした。


「兄ちゃん、この町の人か? こんな状態なのによく外を歩けるなぁ!」

「今どういう状況なの? 僕、演説会には行かなかったからよく知らないんだ」


 エアロンはこれ幸いと隣に並び、エスプレッソを注文した。


「そうなのか? そりゃ勿体なかったな! すげー騒動だったんだぜ? バンベールって女の候補者が撃たれてよ、会場は大パニックだ。それをもう一人の候補者が宥めようとしたんだけど、今度は凶悪な面の野郎がステージに現れて、そいつを殺そうとしたんだ。スイス・ガーズがすぐに取り囲んだが、その野郎は神官様を人質に取って逃げやがった! すごい身体能力だったな、ありゃあ……」


 男はその時の様子を振り返りながら、高まる気持ちを静めようとコーヒーを啜る。


 神官もそこにいたのか。

 考えてみれば不思議なことではない。サイモン社長が教会と手を組んだのなら、政策として神官を利用するのは自然なことだ。エアロンは目を細めた。


「オレが思うに、奴らの狙いは最初から神官様だったんだよ。んで、失敗したから攫った。スイス・ガーズは何やってんだろうな? 早く捕まえないと神官様が殺されちまうよ」


 エアロンは嫌な予感が事実であることを確認するために観光客に向き直った。


「ねぇ、その逃亡犯ってどんな男だった? あんた見たの?」


 途端に男は身を乗り出し、一大スクープだとカメラを持ち上げて見せる。押し殺した声はエアロンに傾聴を促した。


「見たどころじゃねぇ。写真だってばっちりだ。しかもよ、実は俺は事件の前にその男を見てるんだぜ――ちょっとすれ違っただけなんだがよ? 中東風の顔立ちの、なかなかいい体をした男だった。全身黒尽くめってだけでも不気味なのに、あの目付きときたら! まるで狼だったね! それで俺のことを威嚇するみたいに睨むんだよ。そこで俺は気付いたさ――こいつぁ『ヒトゴロシ』の目だってね」


 気が付くと、エアロンはカウンターに拳を叩き付けていた。観光客の男は「ヒッ」と小さく悲鳴を上げ、守るようにカメラを胸に抱く。エアロンは男を睨んだまま、驚いて振り返った店主に小銭を差し出した。


「電話貸して」

「お、おう……あそこだ」


 エアロンは受話器を取った。電話のベルが反響する。長い長い呼び出し音の後、よく知る声が電話に出た。


『はい……茨野商会副主任執務室です』


 少し震えたメイドの声。エアロンは受話器に手を添えて囁いた。


「アン、僕だ」

『エアロン?』


 何かをどさりと取り落とす音。

〈館〉に控えていたメイドのアンは、安堵から大きな溜息を吐いた。


『よかった、心配したのよ。ねえ、今どこにいるの? 広場で何かあったっていう噂は聞いたんだけど、誰からも何の連絡もなかったから、あなた、また事件に巻き込まれたんじゃないかって――』

「もう巻き込まれてるよ」

『なぁに?』

「なんでもない。じゃ、社長からも連絡なしってこと?」

『ええ、まだ……』

「そっか」


 ということは、社長はまだ会社全体を抱き込んでいるわけではないのか。

 サイモンが個人的に教会と結託してエアロンを売ったのか?


「ねぇ、アンは僕を裏切ったりしないよね?」

『いきなり何? 私はあなたのメイドよ? あなたの命令が絶対です。ねぇ、なんでそんなこと言うの?』


 聞き慣れたメイドの声は、不安の影に揺れていた。


 そうだ。

 アンは会社内でグウィードの次に彼を裏切らないと断言できる人物。

 過ちを犯して立ち尽くしていた彼女を、引き取って再び前を向かせたのはエアロンなのだから。


「ごめん、気にしないで。ちょっと困ったことになっているんだ。社長に生贄にされてね。ヴァチカンに追われてるみたい」

『……なんですって?』

「僕はまだ大丈夫だけど、グウィードが神官を人質に取って逃走してるらしい。詳しいことは残念ながら僕も知らないんだ。できるだけ事を隠密に、グウィードを保護したい」


 アンは一瞬間を置いた。


『……どうすればいいの?』

「車がいる。あー、でも、主任が出張中ってことは、ヴィズもいないのか……」


 他に運転が得意な社員は誰かいただろうか。できればあまり多くの社員を巻き込みたくはなかった。また裏切られるかもしれないから。

 電話の声は一瞬遠のいたかと思うと、別の声に変わった。


『代わりました、ヴィスベットです』

「ヴィズ!」


 吐息交じりの冷めた女の声は、間違いなくあの運転手のものだ。エアロンは思わず受話器を見つめ、背後の視線を感じて声を押し殺した。


「出張は? いつも主任に付いてってなかったっけ?」

『今回はお一人でお出掛けになりました。ご用でしょうか、副主任』

「そう……まあいいや、頼みがあるんだ。グウィードがヴァチカンの奴らに追われている。外周道路に車を向かわせて、そこで彼を保護してほしい」

『承知しました。車は何で向かえばいいでしょうか?』


 女運転手が感情のない返事をするのはいつものことだ。あまりに淡々とした応答なので、彼女はこれがどれ程の危険を伴う任務か理解しているのだろうかと、エアロンは細やかな罪悪感を覚えた。


「小回りが利くものがいいんじゃないかな。最終的に〈館〉に戻るか、そのまま町を出るかはわからないんだ。小回りが利いて丈夫なやつがいいと思う」

『では、これからすぐに向かいます』

「頼むよ。どんな危険があるかもわからない。攻撃を受けても対応できるよう、十分準備して来てくれ。気を付けてね」

『わかっています』


 ヴィズはもう一度アンに代わった。


『私も行くわ』

「は?」

『待ってて。エアロン、あなたも気を付けてね』


 電話は一方的に切れた。

 カウンターに戻ると、先程の観光客が怯えながらも好奇の目で彼を見ていた。エアロンの険しい表情に、何があったのか知りたくてたまらないらしい。口元に浮かんだ媚びるような笑みに、エアロンは心底嫌悪を抱いた。


「電話、ありがと」


 エアロンは客と目を合わせないようにカウンターの前を通り過ぎ、扉を開けた。振り返りざまに鋭い一瞥を男に投げる。怒りを孕んだ鉛の瞳は、鈍く光る金属の色そのものだった。


「あんた、外見で判断するのはやめた方がいいんじゃない? それでいくと、あんたは見るからに頭が悪くて空っぽの人間って感じがする。器の小ささを露呈させるのは感心できることじゃないよ。それにそのお喋りな口も。もし僕が犯人の一人だったら、あんた今頃殺されてるかもしれないね?」


 凍り付いた空気を店内に残し、エアロンは町へ出た。


 さて、次は相棒を探し出さなければならない。


 エアロンは店の裏口に回ると路傍駐車のボンネットに飛び乗り、勢いを付けて二階の窓に手を掛けた。百九十はあろうかという彼の身長を以ってすれば、屋根によじ登るのはさほど難しくなかった。

 再び屋根に上がり、灰と茶の海原を見渡す。山間に密集した集落では、高い位置からでも全貌を見渡すのは不可能だった。

 斜面に沿って家々は山を這い上り、車も通れぬ狭い路地が入り組んでいる。屋根は僅かな隙間を埋めるように軒を連ね、逃亡者が身を隠すような細い道は覗き込むことなど到底できそうにない。


 エアロンは舌打ちを鳴らし、また屋根を伝って移動を始めた。


 明るい社会には見捨てられた僕だ。こんな時くらい味方してくれよ。

 名前も知らぬ神に祈る。半ば自棄になったエアロンを、天にいる何かは見捨てたりしなかった。


 鉛色の瞳に捉えた――曇天の町には不釣り合いな白。 

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