4-15 vsフレデリック神父

 舐めるような、抉るような。


 ねっとりとした声が聞こえた瞬間、グウィードは身を翻して後ろに下がった。地面――グウィードが今まさに立っていたその場所が、何かの液体で濡れていた。

 小さく泡立った石畳を踏み締める黒のハイヒール。赤い舌がベロリと垂れた。


「捜しましたよぉ、お二人とも……さすが畜生は逃げ足が速い。しかもこんな『お荷物』を抱えて、よくもまぁこれだけ逃げ続けたものです」


 無地のストラがはためいた。

 神父フレデリックは黒手袋の親指に歯を立て、二人の逃亡者を見下した。


「こいつ……!」


 グウィードが目を見開く。


 いつの間に忍び寄った?


 神父が言葉を発するまで、その接近に全く気が付かなかった。動きが素早いなどと、そういう問題ではない。長身に加えて十センチ近くあろうかというヒールの高いブーツを履いているのに、この男には気配というものが一切存在しないのだ。


 グウィードは神官の腰に手を回して抱き寄せながら、仁王立ちの神父から距離を取った。ナイフを神官の喉に付き付ける。


「お前がフレデリック神父か……動くなよ。一歩でも動いたら神官の首を掻き切るからな」


 ところが、フレデリックはニヤァと口を広げただけで、なんの動揺も示さなかった。眼球がぐるりと大きく一回転し、真上に昇った瞳が濃紫色の筋になる。殆ど白目を剥いた状態で神父は笑っていた。


「どうぞ、一思いに――できるものなら」

「なっ?」


 神父のまさかの発言に、グウィードはあんぐりと口を開けた。フレデリックはさも可笑しそうに眼を細める。


「いくら虚勢を張ったところで、どうせ怖気付いてできないでしょう。社長さんから伺いましたよ。お宅の社員たちは『殺し』ができないとか。お優しいことですねぇ……」

「くっ……!」


 社長め、そんなことまで教えたのか。

 ヴァチカンの神父の口からそれを聞くことで、裏切りへの実感が重く心に圧し掛かる。挑発に応じてやろうとナイフを握る手に力を込めるも、抵抗するように添えられた神官の右手を見ると、どうしてもグウィードにはそれができなかった。結局は相手の言う通りだと認めてしまう悔しさに歯噛みする。

 そんな彼の様子を見て、フレデリック神父は嘲るような笑みで指を齧る。


「おやおや。本当によく躾けられたわんちゃんですねぇ」

「黙れ!」


 グウィードは神官を脇に投げ飛ばし、ナイフを手に地面を蹴った。平然と構える神父の顔面に切っ先を振り下ろす――が、その着地点にフレデリックはおらず、代わりに硝子が一瞬煌めいた。


「グウィードさん! その人に近付いてはダメです!」


 セメイルが叫ぶのとほぼ同時に、グウィードは腹部に強烈な熱を感じて身を引いた。皮膚が縮こまるような違和感に続き、べっとりと貼り付くような鈍い痛み。微かな異臭が鼻を突いた。


「いっ……なんだ……?」


 腹部には赤く腫れた肉が曝け出されていた。覆っていたはずのシャツには大きく穴が開き、断面は融けたように丸い粒を成して皮膚に直接貼り付いている。痛みは徐々に肥大して、外気の冷たさが患部を抉った。咄嗟に庇って手を当てるも、手の平にも同じような痛みを感じて驚愕と共に手を離す。


「『聖水』ですよ、グウィードさん」


 フレデリックが片手を上げる。黒手袋の指の間には液体の入った試験管。左右に振ると、粘り気を残してちゃぷんと揺れた。


「あなたは見るからに教養がなさそうですが、酸が物を融かすことくらいはご存知でしょう? こちらはとっても危険な濃硫酸。人体に触れれば、強い脱水作用で化学火傷を引き起こします。触らない方が賢明でしょうねぇ」

「なんだよそれ」


 グウィードは痛みを堪えながら苦々しく吐き捨てる。


「ヴァチカンてのはろくな神父がいないんだな」

「悪魔祓いは歴とした神に仕える人間の使命ですよ。私はヴァチカン公認エクソシスト。悪魔退治がお仕事です」

「悪魔だと? 本気で言ってるのか?」


 グウィードは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。嘲笑することで注意を逸らし、じりじりとセメイルに向かって後退する。腹の火傷による焦燥感を必死で頭から追い出しながら。

 フレデリックはツンと顎を上げて一度宙を見上げると、首を大きく捻って上目遣いに彼を睨んだ。


「嗚呼、これだから学のない異教徒は嫌いなのです。視界に入れるのも反吐が出る」


 武装神父が牙を剥く。


「あなたと我々では少々『悪魔』の定義が違うようですねぇ……バフォメットのような異形の化物だけを悪魔と呼ぶのであれば、それはファンタジー小説の読みすぎですよ。人間に憑りついて奇声を上げるだけが悪魔ではない。我々はこの地球上、現代に生きているのですから――『悪魔』という人間の敵もまた、時代によって姿を変える」

「例えば? 偶像で人々を抱き込み金を巻き上げる奴らとか?」


 グウィードは挑戦的に嘲り返した。


「それは目的によるでしょう。少なくとも我々ヴァチカン教会は、迷える子羊たちを導いてやるのが使命ですから。子羊どもの知能レベルに合わせてやるのも仕方のないこと。そうですとも、悪魔とは元より人間の心に巣食う悪の心――欲望、憎悪、無知、嫉妬、傲慢……」

「なんだ、お前たちのことじゃないか」

「口を慎みなさい、家畜風情が。無知で醜いあなたを見ていると不快感が込み上げる。少し躾が必要なようです」


 フレデリックが一歩踏み出す。グウィードはサッと神官セメイルを抱き起こすと、再び彼の喉にナイフを突き付けた。


「はっ。こういう時のための人質だな。お前の武器じゃ手出しできないだろ。大事な神官に醜い火傷痕なんて作りたくないもんな?」

「はぁ、まあそうですねぇ……」


 神父は試験管の液体越しに神官を眺めた。そして、微かに唇を引き上げ、更にもう一歩踏み出した。


「おい、聞こえなかったのか? そこから動くな!」

「生憎ですが……『神官』なんてものに愛着を持っているのは、ヴァチカンでも広報局の一部の人間だけでして。とりわけ私にとっては、成り上がりの田舎者修道士にしか見えないんですよねぇ。はっきり言って、生きるも死ぬもどうでもいい。ここで手に掛けてもなんとも思いません」

「なんだと、お前……っ」


 セメイルは項垂れたまま黙っている。その唇が白くなるほど噛み締められているのを見て、グウィードは教会の内部事情とセメイルが置かれた立場を一瞬にして理解した。

 所詮はこいつも傀儡か。

 仕立て上げられた偶像だ。


「それにねぇ、グウィードさん――そいつはもう用済みなんですよ」

「は?」


 フレデリックが試験管を構える。セメイルがハッとして顔を上げた。


「あぁ、まだ最期の大仕事がありますか。でも、それは私の管轄ではありませんので、ねっ!」


 濃硫酸をぶちまける。

 グウィードはセメイルを突き飛ばし、反動で自らも横に逃れた。一回転して両足をつくと、間髪入れず濃硫酸の第二陣が襲う。液体という広範囲をカバーする防護壁に、接近戦専門のグウィードは攻めに転じる隙を見出せない。


 避けるために体を動かすたび、負傷した腹部に鈍い痛みが走る。しかし、あと少しの辛抱だ、とグウィードは自身に言い聞かせる。濃硫酸はその形態上大容量の携帯は不可能だろう。奴が両手に携えている分だけ、躱しきればいいのだ。


 最後の一本――今だ。


 グウィードは素早く稲妻の軌跡を描いて距離を詰め、最後の一撃をすり抜けて神父の懐に滑り込んだ。飛び散った雫が上腕を焦がすが、そんな痛みでは彼を留めることはできない。

 返し手に握ったナイフを水平に振るう。フレデリックはその切っ先を甘んじて受け、手首を切り裂かれるのと引き換えにグウィードの腕を掴んだ。

 睨み合う刹那。濃紫の瞳が筋のように細く伸び、紅い舌が覗いた。

 フレデリックは弾みを付けて飛び上がり、グウィードの腹部に膝を埋めた。


「ぐっ、ああぁっ!」


 火傷の患部を容赦なく蹴り上げられ、グウィードは叫びと共に後方に弾き飛ばされた。呼吸も出来ないほどの痛みが体の中心から彼を貫く。辛うじて地面に手をついて着地した、その衝撃さえも追い打ちを掛ける。


「ッあ、くそ……!」


 擦れた悪態。落ちる影。

 追撃に迫るフレデリック神父の前に、白の神官が割り込んだ。


「いけません!」


 カソックの胸に抱き留められるように身を埋め、ドンッという鈍い手応え。小さな銀の小刀が神父の肩に突き刺さっていた。痛みに顔を顰め、フレデリックがセメイルの髪を掴む。


「いッ!」

「まったく反抗的で……目障りですよ」


 神父が小刀を引き抜き、血の付いた刃を神官の頬に這わせた。まだ温い血液と冷たい切っ先が優しく皮膚を撫でる。


「あなたには少々色が足りませんから、赤を添えてあげましょうねぇ?」


 小刀が髪の下に忍び込み、切っ先を耳の付け根に押し当てる。

 柔い肉が裂ける。セメイルは恐怖に震えた。


「ひっ……や、やめ……っ」



「「やめろ!」」



 男の声が重なった。

 フレデリックが手を止める。グウィードが顔を上げる。


 路地の入口に、近衛部隊長が立っていた。


「タウォード……!」


 セメイルが目尻を和らげ、安堵に満ちた声を漏らす。


 長髪を靡かせ、軍服の前を肌蹴たタウォード・スベルディスが歩み寄る。黒い双眸には感情もなく、淡々と太陽光を反射するその色は、右手に握ったハンドガンとよく似ていた。


「セメイルを離せ、フレデリック」


 武装神父は大人しく身を退いた。セメイルが縋るように親友を見る。


 ところが、タウォードが放った次の言葉は、セメイルの心を凍り付かせた。


「こいつは、俺の獲物だ」


 銃口は白の神官を捉えていた。

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