4-14 白と黒の逃走劇

 逃走は困難を極めた。

 大きな通りは悉く警察によって封鎖されており、その隙間を埋めるようにスイス・ガーズが走り回っている。気が付けば目的地も定めず、ひたすらに足音のない方へ逃げるだけになっていた。


「おい、お前の護衛ってこんなに多かったか?」


 グウィードは追手をやり過ごしながら、息も絶え絶えの神官に向かって話し掛けた。


「いえ……フレデリック、神父の……部隊が、加わってます……」

「お前、体力なさ過ぎだろ……しっかりしろ。あいつらに追い付かれたら困る」

「グウィードさんの足が速すぎるんです……あなたが運動して体を鍛えている時間、私は大聖堂で延々とお祈りを捧げているんですからね」


 セメイルは動きにくそうな僧衣をたくし上げ、半ば引き摺られるようにして懸命にグウィードに付いて走っていた。額には汗が滲み、呼吸は乱れて苦しそうだ。人質向きではなかったな、とグウィードは内心舌打ちをする。


「一体、どこまで行かれるつもりなんです?」


 薄い胸が上下する。セメイルは僧衣の喉元を肌蹴させながら訊ねた。


 一瞬、答えに詰まった。頭の中ではわかっていても、口に出すのは躊躇われる。言葉にした途端にそれ以外の道がなくなってしまうような気がしたのだ。

〈館〉には戻れないだろう。社長が自分を嵌めたのだから、当然〈館〉には追手が待ち構えているはずだ。


「俺は町を出る。お前は町外れの橋のところで解放する。そこまでどうか頑張ってくれ」

「はい……しかし、橋と言うと……」

「かなり離れちまったな」


 グウィードは絶望的な空気に見て見ぬふりをすると、前方から聞こえる足音に耳を澄ませた。人間離れした聴覚が衛兵の足音を聞き分け、人数と方向を確認する。彼は神官の腕を取って来た道を引き返した。


 ところが、生憎入り込んだその道は狭く、身を隠す場所は存在しなかった。

足音はすぐ後ろに迫っている。追手が角を曲がるその瞬間、グウィードは神官の体を抱き抱え、垂直に跳躍した。


「いたか?」

「いないな……逃げたのか? 確かに白い人影を見た気がしたんだが」

「神官様を連れているならそんなに遠くには行ってないはずだ。きっとその辺に潜んでいる。隈なく探すぞ」


 濃紺の制服が二人を探して駆け抜けて行った。


 グウィードはというと、一瞬のうちに掴んだ雨樋を軸に体を躍らせ、二階の窓を覆う鉄柵にへばり付いていた。

 辛うじて片足を民家の木枠に掛けているが、左腕で抱えたセメイルの分も合わせ、それ以外の全体重を右腕一本で支えている。布越しに盛り上がった筋肉は震えもせず平然として見えるが、袖から覗く手首には切れそうなほどくっきりと筋が浮かび上がっている。肉体に相当な無理を強いているのは明らかだった。

 二人は息を殺しながら、追手が早く過ぎるのを祈った。

 鉄柵に置かれたプランターから土の匂いがする。その鉄柵は美しい曲線を描いて見る者を楽しませるが、人二人分の耐久力は当然考慮されているはずもなく。嫌な音を立てて軋み始めた鉄棒の上部を苦々しく見守った。


「くそ」


 天上の何者かは辛うじて二人の祈りを聞き届けたようだ。

 辛くも、鉄棒の溶接部が外れるのと、すべての衛兵が角を曲がりきるのはほぼ同時だった。鉄棒が弾けるように飛び出し、バランスを崩した二人の体を地面に向かって叩き付ける。

 二階からの落下。その僅かな間にグウィードはセメイルを空中に投げ上げ、体を捻って四足で着地した。たっぷりの布と化した細い体を地面すれすれで抱き留める。

 何が起こったのか理解しきれない神官は、呆然と喉を晒して空を見上げ、毛髪が地面に触れるのを感じていた。


「あぁ、うう……死ぬかと思いました……」


 セメイルは思わず十字を切った。


「二階から落ちたくらいじゃ死なねえよ」

「私が言いたいのはそういうことではないのですが……ねぇ、グウィードさん」


 彼はグウィードに腕を引かれて立ち上がりながら、上目遣いに彼を見た。


「私をここで解放してくれませんか? そうすれば私がスイス・ガーズを嘘の方向に誘導し、あなたはその間に逃げることができる。如何でしょう?」

「あ? それは確かに、合理的かもしれないが……」


 グウィードはじっと相手を見つめ、連れて行くのと囮にするの、どちらが良策か考えた。

 完全に逃げ切るまでは人質を手放すのは危険だ。が、セメイルが足手纏いになっているのもまた事実。グウィード独りならもっと身軽に逃げられる。


「大丈夫です。信じてください」


 神官はそっと微笑んだ。長い睫毛にも色はなく、瞳が白い筋になる。グウィードは眉間に皺を寄せた。


「なんでそんなに協力的なんだ?」

「あなたもサンドーベで私を見逃してくれたでしょう。それに――」


 変色した右手を抱く。

 穿たれた刻印を隠すように包んだ左手さえも、既に罪の色に染まり始めていた。


「無実の者を裁くなと、私に言ったのはあなたではないですか。私は、今回の犯人とは無関係だと言ったあなたの言葉を信じます。だからあなたは、あなたを信じる私のことを信じていただけませんか?」


 グウィードは暫く返事をしなかった。


 嗚呼、こいつは――「信じてくれ」と懇願するこの聖人は、人に心から信じられたことがないのだ。

 信仰と信頼は違う。神官が受けてきた『信仰』はすべてを授かろうとするものでしかない。すべてを委ねる『信頼』とは似て非なるものだった。

 搾取され続けた青年は、どうか自分にすべてを委ねてくれと頼んでいる。きっとこの世には誰も、彼を本当の意味で信じ続けてくれた人間はいないのだ。


 グウィードは唇を引き結んで頷いた。


「……わかった」

「ありがとうございます」


 神官は一度だけ、頬を染めて笑った。


「いけませんねぇ……神官様、あなたは私たちがせっかく創り上げた偶像だ。そんな『悪人』と友情を育んでもらっては困ります」

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