4-10 ショーの開幕
結局ろくに休むこともできないまま、候補者演説の日が来てしまった。
睡眠時間を返上して作り上げた原稿は、意外なことに手直しを命じられることもなく、すんなり受け取ってもらうことができた。代わりに次の仕事がわんさか降ってきたけれど。
薄い雲が掛かった仄暗い日差しを受けて噴水の水が鈍く輝く。水は常に同じ色、同じ速度を保って零れ落ちているのに、天気によってどうしてこうも表情を変えるのだろうかと、彫刻の女神に尋ねても答えは返ってくるはずもない。夏は大理石の滑らかな微笑で人々を魅了する女神像も、寒空の下では陰鬱な眼差しで広場を眺めるだけだった。
ウズベラ宮前の広場は訪れた住民の群れで犇めき合っていた。その中を日雇いの若者たちが立候補者紹介のリーフレットを配り歩く。宮殿前に設けられた仮設ステージには演台の準備が整っており、開会の時を今か今かと待っていた。
サイモン・ノヴェルの秘書補佐として立ち会っているエアロンは、ウズベラ宮内の控室から広場の様子を見下ろしていた。歪んだガラス越しの群衆は肉眼にも増して不快に見え、僅かに聞こえる喧騒が彼の頭を揺さぶった。
連日の睡眠不足が祟る。立っていたら具合が悪くなってきた。エアロンはこめかみを押さえ、椅子を求めて室内を振り返った。
先程から走り回っているのは選挙管理委員長のオットー・ハイエルだ。初の大仕事でてんてこ舞いなのは同情するが、ちらつく禿げ頭は不愉快極まりない。対して、まったく緊張する様子も見せず堂々と構えているのは我らが社長サイモン・ノヴェル。〈館〉から連れてきた手隙のメイドをスタイリスト代わりに、スーツの埃落しを受けながら原稿を読んでいる。
客商売の御多分に漏れず、政治家は第一印象がモノを言うと聞いたが、社長は一体どんな印象を与えるつもりなのだろう。ブラウンのスーツに黒のナロウタイという衣装は確かに彼のルックスにはよく合っているかもしれないが、政治家のセオリーからは明らかに外れてしまっている。
今入って来たのはテレシア・メイフィールドだ。彼女の扱いは秘書というより小間使いが正しく、今もちょうど広場の広報局に声明文の写しを届けに行ってきたらしい。ついでに下の屋台で買ってきた飲み物をサイモンに手渡している。
テレシアは窓際のエアロンと目が合うとはにかみながらこちらにやって来た。
「お疲れ様です。よかったらこれ、どうぞ」
テレシアは珈琲のカップを差し出した。
「テレシアの分じゃないの?」
「いえ、エアロンさんに。私にできることって、これぐらいですから」
そう言って隣に並んだテレシアはどこか悲しげに広場を見下ろした。
昨日より少しばかり睫毛が長いのは慣れない化粧に挑戦したからだろうか。髪も高い位置でポニーテールに結っているし、彼女にとって今日は越えなければならない第一の壁なのだろうとエアロンは思った。口を付けたコーヒーは、仄かにスパイスが効いている。
「あれっ、あんな所にメリーゴーランドなんてあったんですね」
テレシアがパッと笑顔を咲かせる。エアロンは彼女の頭越しに窓を覗き込んだ。
「ああ、毎年冬になると来るんだよね。あんまり乗る人もいないけど」
「今日は賑わってるみたいですよ」
若い秘書は無邪気に指差し、一度に二十人も乗れないであろう小さな遊具に心躍らせた。乗っているのは幼い子供たちばかりで、喜んでというよりは親に連れて来られて訳もわからず乗せられているように見える。
「なぁに、テレシア、乗りたいの?」
「えっ。そ、そういう訳じゃないですけど……っ」
咄嗟に赤面して否定する姿が愛らしく、エアロンはつい顔が綻ぶのを感じた。
「いいなぁって。あんな風に両親に連れ出してもらったことなんて、私には――」
エアロンの微笑が消える。テレシアはハッと口を噤み、気まずい空気を掻き消そうと窓に額をくっ付けた。
「あっ、あの男の子転びましたよ。大丈夫かな、怪我は――」
「――僕も、ないよ」
「え?」
「演説会終わったら乗りに行こうか。まぁ、僕は見てるだけだけどさ」
エアロンがニヤリと笑った。
「連れ出してあげるよ。乗りたいんでしょ?」
「あっ……はい!」
笑みを零したテレシアは微かに染めた頬を手の甲で押さえ、恥ずかしそうに顔を隠した。たったこれだけのことでそんなにも純粋な反応を見せられてしまうと、エアロンもなんだかむず痒くなる。
「エアロン」
だが、彼の癒しの時間はそこで終わった。サイモン社長の冷たい声が二人を引き裂き、無慈悲に手招きする。エアロンは少女を窓辺に残して招集に応じた。
「なんでしょうか」
エアロンは社長の前に立つと、両手を背面で組んだ。
「ホテルに大事な書類を忘れてきた。机の上にある。取って来い」
「今、ですか?」
「そうだ。今、必要としている」
緑の瞳は淡々と彼を見ている。
エアロンは眉を寄せた。なぜそれを自分に命じるのだろう。お使い程度ならテレシアに任せた方がいい。彼の方ができる仕事の幅が広いからだ。
「しかし……万が一のこともあります。護衛はいた方がいい。僕が傍を離れるのは――」
「その点は問題ない。グウィードを呼んでおいた」
「えっ、グウィードですか?」
彼は驚いて目を開いた。社長が苛々と跳ね除ける。
「これ以上時間を取らせる気か? 急げ」
「……わかりました」
エアロンは早足で部屋を出た。
地上に降りると一層喧騒が煩く頭を叩いた。人々の体臭、香水、食べ物の臭い――鼻から吸い込む空気で更に気持ちが悪くなり、エアロンは逃げるように裏道に入った。殆どの店が今日は閉めている。黒猫が一匹横切ったくらいで、他にすれ違う人もない。
ホテルに着いた。選挙のためか、教会のためか。いつもより車が多いな、とエアロンは思った。待ち構えていた支配人が入り口で出迎える。
「ノヴェル様の使いの方でしょうか? お電話にてご事情は伺っております。どうぞ」
身なりのいいホテルマンは腰を曲げてルームキーを手渡し、そのまま一歩退いた。丁寧に撫で付けられた髪が照明を反射して線を引く。酷く疲れていたために、エアロンは支配人が一度も彼の目を見なかったことに疑問を抱くこともできなかった。
エレベーターが軋みながら上昇する。昨日も通った道だ、特に何も考えない。片手でキーを弄びながら、鉄格子を押し開けた。部屋は目の前だ。扉に鍵を挿す。
帰りは階段の方が速いだろうかなどと、少しは頭を過ったかもしれない。その体力も惜しいよ、と疲れ切った体が答えた気がした。
扉を開ける。
暗い。
昼間なのにカーテンが閉まっている。
そう思った時には、複数の男に体の自由を奪われ、何かの薬品を嗅がされていた。
――意識が遠のく、声も出せずに。
倒れ込んだ青年の前に男の影が落ちた。
「おやまあ。呆気ないものですねぇ」
カソックの裾が彼の髪を掠めた。フレデリック神父は黒手袋で唇をなぞり、さもつまらなそうに鼻を鳴らした。
「縛り上げて連行しなさい。神官様がお待ちです」
スイス・ガーズが直ちにエアロンを抱え上げる。彼は人知れず運び出された。
フレデリック神父はその後姿を見送りながら残忍な笑みを浮かべた。
「さて、踊ってもらいましょうか――愉快なショーの始まりですよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます