4-9 雨の夜の秘め事

 立候補者二人が静かな火花を散らしていた頃。

 貸別荘の一室で、タウォード・スベルディスが雨の夜空を見上げていた。


「……勝手に部屋に入って来るなと言わなかったか?」


 彼は振り返った。フレデリック神父は穏やかな笑みを浮かべると、両手を上げて手の平を見せた。


「失礼。私の訪問くらい、隊長殿はお気付きかと思ったもので」

「何の用だ? お前と話し合うことなど俺にはないが」

「そうでしょうねぇ。私とて話し合いに来たわけではありませんから」

「それじゃ、なんだ? まさか楽しく世間話でもしようってのか?」

「それも一興」


 神父は両手を背後に回すと、ゆったりと室内に歩みを進めた。横目で舐めるようにタウォードを見る。右へ左へ間合いを取りながら近付いて来る姿は、獣というよりは毒蛇のそれだった。

 タウォードは睨むようにその姿を目で追った。


「生憎だが、俺はそんな気分じゃないな。お前の顔を見るだけで虫唾が走るんだよ。失せろ」


 フレデリックが歩みを止める。首だけをこちらに向けて顎を引いたかと思えば、一直線に間合いを詰めた。タウォードに避ける間も与えず懐に入り込んでシャツの胸倉を掴む。濃紫の瞳が目と鼻の先にあった。


「帰りたいのは山々なんですがねぇ……? 今一度釘を刺しておく必要があると思いまして。私も吐き気が込み上げるのを抑え込んで、こうして参上しているのですよ。ねぇ、隊長殿?」


 唇がぐぱぁと上下に裂け、尖った歯が剥き出しになる。長い舌が唇を舐め、熱い吐息と共に舌に開いたピアスが見え隠れしていた。タウォードは一瞬身構えたもののすぐに緊張を解き、黒い瞳で神父を迎え撃った。


「放せ。たかが神父が俺にこんなことをしていいと思ってるのか?」

「そのままお返ししますよ、隊長殿。痩せ猫一匹捕まえられない負け犬のあなたに、どうしてそんな態度が許されると思うのか? そろそろ分を弁えてもらいましょうか……」


 隊長は怒りに歯を食い縛った。


「無礼な奴め、放せ……っ」

「無礼? どちらがです? 目上の者は敬いなさいと、お家でお母様に教わりませんでしたか?」


 タウォードが腕を突っ張って抵抗する。窓に押し付けられた髪が水分を含み、じんわりと首元を濡らすのを感じた。しかし、神父の力は少しも緩むことなく、苦しそうにもがく彼の喉を締め上げている。


「勘違いなさらぬよう……私は神父です。仕えるのは偉大なる主と教皇聖下だけ。たまたま任務で能無しの兵隊の下に遣わされたとしても、あなたと私の間に主従関係は存在しないのですよ、隊長ドノ?」


 フレデリックがサッと身を引いた。

 タウォードが解放されたのは僅か一刹那。深く息を吸いバランスを失った彼の髪を黒手袋が掴んで手繰り寄せる。痛みに声を上げようとしたがそれも叶わず、体をぐるりと回されたと思えば、顔面から窓硝子に押し付けられていた。冷たい硝子の感触が体の芯へと伝わっていく。


「――あなたの任務は神官様の護衛、それから犯罪者の逮捕、でしたか? どうも後者は失敗続きのようですがねぇ。あんまり失敗ばかりしていると有らぬ疑いを掛けられて、大事な大事な神官様のお世話もできなくなってしまいますよ?」

「く……っ」


 神父は全身で押さえ付けたまま、タウォードに息をすることも許さなかった。眼球は圧迫され、あばらに窓枠が喰い込んだ。祈り手とは思えない力の強さに為す術もない。


「ああ、そうだ」


 パッと思いついたように指を一本宙に立て。フレデリックが唇を耳元に寄せた。


「こういうのは如何です? 次あなたが任務に失敗したら――」


 吐き出された声は低くざらついて、鑢のように精神を削る。


「――無能な頭は神官に〈浄化〉していただきましょう」


 最後の一圧しを後頭部に加え、タウォードは解放された。酸素が肺に雪崩れ込み、噎せ込んで体を大きく二つに折る。白みかけた視界で神父の姿を捉えた。


「ほざいてろ……イカレ神父が……っ!」

「やれやれ。どうしたら隊長殿は礼儀を身に付けてくださるんでしょうねぇ?」


 フレデリックは肩を竦めた。


「まあいいでしょう、スベルディス隊長。汚名返上のために精々努力なさることです。まずはもう一度トレーニングに励んでみては? 『たかが神父』に拘束されて振り解くこともできないなんて、スイス・ガーズの名が泣きますからねぇ……?」


 フレデリックは嘲るようにタウォードを見下ろした。


「私たちエクソシストというのは異端審問官の狗でしてねぇ。人の心に巣食う悪魔を退治するのがエクソシストの役目なら、神の家に蔓延る悪を取り除くのも私たちの役目でして。私はね――」


 カソックが膝を付く。前髪を掴んで咳き込む隊長に上を向かせた。

 囁き掛ける悪魔のような笑み。


「――あなたを見張りに来ているんですよ。あなたがあんまりに役立たずだから……またお人好しを拗らせて、聖下の勅命を放棄されたら困りますから、ねぇ」

「はっ! どっちが悪だかわかりゃしないな」


 タウォードは神父の手を振り払い、負けじと相手を睨み付けた。


「元気があって何より。しかし、『どっち』という言い方はよろしくありませんね。私たちは同じ主に仕える同胞ではありませんか。そうでしょう、隊長ドノ?」

「……黙れ」


 フレデリックが立ち上がる。神父は汚れを床に落とすように両手を軽く叩いた。カソックの裾を翻し、去り際に振り返る。


「失望させないでくださいね、スベルディス隊長」


 神父はそのまま退室した。途中、扉の前で一度止まるも、鉢合わせした相手を一瞥しただけで去って行った。


 タウォードは拳を壁に叩き付けて身を起こした。唾液と雫で濡れた頬。その屈辱と嫌悪を洗い流すために洗面台へ向かう。背後で扉が閉まる音がした。


「……タウォード」


 冷水を顔に掛ける。濡れた視界に、鏡越しの白い人影が見えた。

 自分が仕える神官と、同じ容姿。同じ色。

 顔を拭いて振り返ったタウォードは何も言わずその体を抱き締めた。


「ラスイル」

「タウォード、大丈夫?」

「……ああ」


 抱き寄せると胸の柔らかな反発を受けた。兄より幾分か髪は短い。けれど睫毛は兄より長く、赤い瞳はアーモンド形をしていた。


 それは禁断の恋だった。


 自分が今腕の中に抱いているのは、本当はこの世にはいないはずの人間なのだ。

『神官セメイル』の影武者として独立した存在を消去された、セメイルの双子の妹。


「フレデリックと鉢合わせした」

「構わない。あいつはとっくに俺たちのことなんて気付いてる。むしろ知っているからこそ、俺のことを見張ってるんだ」

「あいつに何かされたの」

「別に。真面目に仕事しろと釘を刺されただけだ」

「……そ」


 ラスイルは恋人を見上げ、ほっそりした指で頬に触れた。タウォードはその手を交わし、彼女の髪に顔を埋めた。


「タウォード、やっぱりこんなことやめよう。あなたにだけ辛い事を背負わせるのは嫌。今ならまだ引き返せるわ」

「……もう遅いさ」

「そんなことない」

「遅いんだよ。もう、引き返せない」


 耳元で囁く恋人の声が、あまりに震えて聞こえたから。

 ラスイルは両手で彼の顔を挟み、こちらに向けさせようとした。顔が見たかった。どうしても顔が見たかったのに、彼は顔を埋めたまま動こうとしなかった。


「私に嘘を吐くのはよくないわよ。自分に嘘吐くのだってね」

「嘘なんて吐いてない」

「それすら嘘。だってあなた……んっ」


 開きかけた唇をそのまま奪い、続きの言葉と一緒に封じてしまえ。

 驚いたラスイルが目を見開き、やがて大人しく瞼を伏せるまで、タウォードは唇を重ねたまま放さなかった。


「いきなり何よ」

「うるさいんだよ」


 名残惜しげに唇を離し。タウォードはまた彼女の髪に顔を埋めた。

 そして、擦れる小さな声で、言った。


「俺はお前が今までずっと辛い想いをしてきたことを知ってる――他の誰よりも。これは俺のためでもあるんだ。お前のために、俺のために、俺は絶対に逃げられない」

「……それなら私も、同じ罪を背負うわ」


 ラスイルはそっと目を閉じた。


 雨が激しくなったらしい。雨音が二人の世界を支配して、外界の一切を遮断する。


 聞こえるのは雨音だけ。

 二人の会話を聞いていたのも、雨音だけ。 

 それならば、自分たちも聞かなかったことにしよう。

 恋人の弱音も、自分の弱音も。



***


 積まれた本と隙間から垂れる資料。冷め切ったミルクティー。

 エアロンはタイプライターを叩く手を止め、カーテンの閉まった窓を見上げた。


 雨音は嫌いじゃない。外の喧騒も聞こえないし、重苦しい沈黙も制してくれる。雨樋を滴る規則正しい音に、時々吹く強風が窓を打ちつける。特定の周期も持たないその音は、誰かが作曲した音楽などよりもずっと彼の心を落ち着かせてくれるのであった。


 視点を変えて、ソファで丸くなる少女を見遣る。サイモン社長に託された資料を持って来たテレシアは、社長の政策について一通りの解説を終えた後、エアロンの質問に答えるためにずっと同室で待機していた。用がない間はエアロンの集中を妨げないよう大人しく本を読んでいて、彼が何か必要として顔を上げると、すぐさまそれを取ってくる。知識はないが従順な秘書もといメイドとして、彼女は懸命に役立とうと努めていた。


 もう午前一時を過ぎている。エアロンは伸びをして立ち上がると、自分のガウンを少女に掛けた。テレシアは一瞬小さな声を漏らし、また窮屈な眠りに落ちた。緊張続きの毎日で余程疲れているのだろう。彼女はスーツのボタンも外さず靴も履いたままで、肘掛に凭れるように体を縮めている。

 眠った横顔は黒髪に隠れて見えないが、手の隙間から微かに開いた唇が見えた。そこに息苦しい程の少女らしさを感じ、エアロンは目を逸らした。


 そうか、もう一時か。

 選挙演説の原稿は思ったようには進んでいない。今夜も眠れないな、とエアロンは冷めたミルクティーを飲み干し、再び原稿に向き直った。

 タイプライターを叩く。文章自体が得意分野ではないし、疲労心労が積もりに積もって頭が正常に働かない。昨日分の寝不足も祟ってか、随分前から視界が霞み始めていた。


 雨音を遮って、誰かが扉を叩いた。こんな時間に誰だろうと、エアロンは前髪を掻き上げて額を押さえる。


「どうぞ」


 メイド服姿のマチルダが差し入れの盆を持って現れた。聊か珍しい客人にエアロンも顔を上げる。


「あれ、マディじゃないか。どうしたの?」

「お疲れ様です、副主任」


 マチルダは愛嬌たっぷりの笑みを浮かべ、家猫のようにするりと入室した。散らかった机の上の物を退けて軽食と紅茶のポットを置く。


「ちょうどアンが行こうとしてたから、代わってもらっちゃったんです。ちょっと聞きたいことがあって。いいかしら?」

「いいけど。何?」


 いつでも明るいマチルダのことは嫌いじゃないが、疲れている時に会うに適した娘ではないようだ。その快活さに今は耐えられそうにない。

 マチルダはそんなエアロンの様子にはお構いなしに笑顔で彼を見下ろしている。


「社長の候補者演説って、明後日でしたっけ?」

「そう……もう日付が変わったから明日になったね」


 エアロンは呆れた顔をした。


「そんなことを聞くためにわざわざ来たの? 朝になってからでいいじゃん……」

「あたし、明日は一日エルブールにいないんですよ。何時からですか?」

「ほら、ここに次第が書いてある。説明するのが面倒だからそれごとあげるよ」


 エアロンは怠そうにメモ用紙を差し出した。マチルダは素直に喜んで歯を見せる。


「やった。ありがとう、副主任。ふぅん……ウズベラ宮の前でやるのね」

「見に来るつもり?」


 すると彼女は急に照れだした。


「だって、サイモン社長が演説なさるんでしょ? それは見に行かなくっちゃ」

「好きだねぇ。本当、マディは男の趣味が悪いから……」


 マチルダはムッとした。


「いいじゃないですか、サイモン社長。大人の魅力があって。ま、副主任はあたしの好みじゃないんでどうでもいいですけど」

「ほーら、男の趣味悪いじゃない。僕の魅力がわからないなんてさ」


 そんなくだらないやり取りをしていると、テレシアがソファで身動ぎした。マチルダが彼女に目を留め、興味津々で覗き込む。


「この子、誰です?」

「社長の新しい秘書だよ」

「へー。随分可愛い子じゃない? 社長はどこからこんな子探して来るんでしょうねぇ」

「知らないよ。ほら、マディ、用が済んだら出て行ってくれ。僕はまだ仕事があるんだから」

「この子、連れていきましょうか? さすがにここにずっと寝かせておくのは可哀想ですよ」


 エアロンは唸った。


「んー……そうだね。ホテルまで送るのも手間だし、下の客間に泊めてあげて」


 マチルダは「はぁい」と元気に返事をすると、テレシアを起こしに掛かった。テレシアは状況が読めずきょとんとしていたが、机に向かうエアロンに気付いて飛び上がった。


「あっ、ごめんなさい! 私ったら……」


 エアロンは疲れた顔で手の平を見せる。


「いいんだ。もう遅いから、今日は泊っていきな。明日の朝ホテルまで送ってあげるよ」

「そんな、すみません。ご厄介になってしまって」

「気にしないでいいのよ、テレシアちゃん。案内してあげるから付いて来て」


 マチルダはご機嫌に先頭を切って出て行った。テレシアもエアロンに頭を下げると慌てて後を追う。


 再び静けさを取り戻した室内で、エアロンはホッと溜息を吐いた。

 原稿はできそうにない。自分も諦めて床に就きたかった。


「なんでこんな時に主任はいないのかなぁ。こういうのはあの人の方が得意だと思うんだけど」


 椿姫つばき主任は選挙のことを知っているのだろうか。創立者にすら知らせていない社長のことだから、あまり仲の良くない椿姫にも伝えていないに違いない。


 主任はどこに行ったのだろう。

 そういえば、また知らないうちにいなくなっている。

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