4-8 候補者二人

 神官セメイルの言った通り、その夜は雨が降った。

 雨は絶え間なくしとしとと、音もなく眠りに落ちたエルブールの町を濡らす。駅から少し離れた〈ホテル・エルブール〉もまた例外ではなく、その美しい外観を雨粒が伝い落ちていた。


 ケートヒェン・バンベールはエレベーターホールに立っていた。ボタンを押すとガリガリと鎖が唸り、鈍い音を立ててエレベーターが下りてくる。鉄格子を開けて乗り込んで。最上階のボタンを押せば、また箱は苦しそうに上昇していった。

 最上階は暖房が効いていなかった。ホールの前には扉が一つあるだけ。このホテル唯一のスイートルームだ。扉には紙切れが挟まっている。ケートヒェンはそれを引き抜いた。


『お入りください』


 線の細い字で一言だけ書かれていた。

 一応小さくノックをする。扉には鍵が掛っていなかった。焦げ茶の瞳で部屋を覗くと、暖かい空気が染み出して彼女を中へと誘った。


「失礼します。私をお呼びかしら?」


 暖炉に火が入っていた。その熱を反射して光る、銀のフレーム。


「こんばんは、ケートヒェン。貴女が応じてくれてよかった。夜中にレディを呼び出すという御無礼、どうぞお許しください」


 サイモン・ノヴェルが立ち上がる。彼は椅子を引き、ケートヒェンがそこに座るのをエスコートした。


「お気になさらず。どうせ同じホテルです。大した距離ではありませんわ」

「女性を呼び付けるという行為自体が失礼なのですよ。しかし、女性の寝室に押し掛ける方が失礼かと思いましてね――それでも、どうしても貴女とじっくり話がしたかった」


 サイモンは椅子に腰掛けながら、優雅に指を組んで付け加えた。


「――二人きりで、ね」


 細い体が僅かに震え、黒いパンプスが一センチばかり後退する。警戒の色を浮かべたケートヒェンの様子には気付かないように、サイモンは卓上に伏せられたカップを上に向けて置き直した。


「何か飲みませんか? ワインでもカクテルでも用意させましょう。アルコールがお嫌でしたらコーヒーなど。ただ今抽出しているところですが」


 微かな低音が派手な沸騰音に変わり、サイフォンのロートに熱湯が沸き上る。熱湯はコーヒーの粉末と混ざり合い、撹拌されて深い茶色の液体へと化した。マドラーを差し込み、ゆっくりと円を描いて味を調える。アルコールランプの炎が消されると、ケートヒェンは挑戦的に口元を歪めた。


「それでは、コーヒーを」

「ミルクと砂糖は? ブランデーもあります」

「結構です。私はブラックしか飲まないので」


 フラスコから液体が注がれる。サイモンはソーサーごとケートヒェンの前に押しやった。コーヒーの熱気が顔に掛かり、彼女は思わず顔を背ける。芳ばしいコーヒーの香りも、口に広がる仄かな苦みも、居心地の悪さを緩和してはくれなかった。

 田舎のホテルの簡素なスイートルームは逃げ場を求めるには狭すぎる。机を挟んで向かい合い、身を乗り出せば簡単に触れることができる距離に、政敵となる男が座っている。

 整った容姿だ。緩やかな髪のうねりからワイシャツの肌蹴具合まで、この男は自分の見せ方を全て計算しつくしている。こうした礼儀正しくも強引なやり口でどれだけの人間を堕としてきたのだろうかと、ケートヒェンは苦々しく考えた。


 サイモンは自分のカップにスプーンを渡して角砂糖を一つ乗せた。そこにブランデーを二滴、三滴。うっすら茶色に変色したグラニュー糖にマッチの火を近付ければ、砂糖は一瞬にして燃え上がる。炎は崩れた砂糖と共に消え、黒い液体の中に沈んだ。


「同じ選挙に立候補した以上、貴女と私は政敵だ。どちらかを蹴落とさなければ、出し抜いて勝ち上がらなければ、自分の望む未来を手にすることはできません」


 ケートヒェンが睨む。サイモンはコーヒーを掻き混ぜながら、穏やかに続けた。


「……とはいえ、目指すところは同じであるはず。貴女はこの町を愛している。破壊や貧困からこの町を守り、人々に更なる繁栄をもたらしたい――私も同じです」

「どうかしら? あなたのことは少し調べさせていただきました。生まれも育ちも外国であるし、こちらに会社があるとは仰っても、あなた自身は滅多にエルブールを訪れないそうね。それでどうして、この町に想い入れがあるというの?」

「それは貴女も同じでしょう。こちらのご出身とはいえ、大学はストラスブール。卒業後もずっとあちらを拠点に活動していらっしゃる。町を離れていた時間の方が長いのでは?」

「エルブールは私の故郷です。何年離れていたとしても、その事実は変わりません」


 焦げ茶と翡翠が睨み合う。互いの眼光がレンズ越しにぶつかり、場の空気を一層緊迫したものへ変えた。

 やがて、サイモンは唇を引き、薄い笑みを浮かべた。


「貴女を挑発するつもりはなかった。お若くてもその覚悟、感服いたしました。それでは引き続き、貴女の『覚悟』を伺いたい」

「……何のことです?」

「神官の登場ですよ、ケートヒェン。教会について、貴女はどうお考えかな?」


 ケートヒェンはぐっと唇を噛み締め、サイモンを睨んだまま黙り込んだ。探るような視線は相手が何を意図し、何を言わせようとしているのかを慎重に見極めようとしている。サイモンは続けた。


「思慮深い貴女のことだ。わかっておいででしょう――ヴァチカン教会がわざわざこんな田舎町に、神官ほどのアイドルを差し向けて来たのです。神官の来訪は公表されていないとしても、マスコミが嗅ぎ付けるのは時間の問題だ。昨年の事件のこともあるから、きっと嫌でも注目を集める。ヴァチカンがそれを利用して更に名を売ろうとしていることくらい、貴女もお気付きかとは思いますが。それにどう対処しようと考えているのか、私は訊いているのです」

「……仰りたいことは、わかりましたわ」


 ケートヒェンは一言ずつ、慎重に言葉を選びながら言った。


「ヴァチカンの進出は、私もあまり喜ぶべきことだとは思っておりません。エルブールはこれまで、ヴァチカンの後援なしでも独立してやってくることができました。しかし、町は今、混乱に傾きつつある……町民が信仰に救いを求めるのは自然な結果です。ヴァチカン教会もそれを見越して、エルブール以東の勢力拡大への足掛かりにしたいのでしょう」


 サイモンはさも感服したという顔で頷いた。


「さすがです、ケートヒェン。仰る通りです。ヴァチカンに利用されてしまえば、我々は教会の下に屈することになってしまう。そうなればこれ以上の発展は望めないでしょう。なんとかしてヴァチカンの侵攻を止めなくては」

「簡単ではありませんわ。ヴァチカン教会は少々強引な集団ではありますが、私がこれまで見てきた社会奉仕活動は称賛に値します。それを無視しても排除しようとするのは――」

「ええ」


 サイモンがじっとケートヒェンを見つめた。


「対処法は一つです。ヴァチカンに付け入る隙を与えないこと――政治が団結して、教会の代わりに人々を導いて行けばいいのです」


 男の口角が上がり、白い歯の隙間から赤い舌がチラリと覗く。わざと逸らした視線は睫毛の下で緑の筋となり、それがまた手の届かない残忍さを暗示するようで、ケートヒェンは男の仕草に魅せられた。この先は危険だと、己の理性が警告を発しても。


「和解を申し出ると?」

「いいえ。投降をお願いしています」

「……私に、あなたの下に下れとおっしゃるのですか?」

「如何にも」


 視界が揺れるような気がした。


「馬鹿馬鹿しい! 私をやり込もうだなんて、そうはいきませんよ、サイモン。言ったはずです。『正々堂々戦いましょう』と。要求は拒否します」


 サイモンは悪びれる風もなく肩を竦めた。


「……残念だ。どのみち私が当選した暁には、是非貴女に私の補佐をお願いしたかったのだが。貴女は聡明な女性だ。政敵だと言って手放すのは惜しい」

「ふん。あなたの自信はその口の巧さから来ているのね。私を聡明だと仰るのなら、あなたが私の元に下ればいいでしょう?」

「それは私の主義に反しますので。男というのは強欲なものでね。いつだって女性の上に立ちたいものなのです。相手が意志の強い女性であればある程猶更――」


 ふいに男が身を乗り出した。組んだ手の上に喉を乗せ、上目遣いに彼女を見る。フレーム越しの翡翠の瞳は赤毛を被って妖艶に、虎視眈々と彼女に狙いを定めていた。


「――自分の色に、染めてやりたくなるものです」

「もう結構!」


 机を叩く音が部屋中に響き渡った。

 ケートヒェンは豊かな胸の下で腕を組み、守るように肘を抱いた。上目遣いのまま動かないサイモンに侮蔑の視線を投げる。


「私の意志はあなたより強いのよ。選ぶのは私たちじゃない、町民よ。下手な芝居なんて彼らが許さない。政治は公平に行われるべきだわ」

「残念だ。実に、残念です」


 その口調があまりに動じず、悠々としているので。ケートヒェンは込み上げる怒りを鋭い一瞥に託し、颯爽と踵を返して扉に向かった。ドアノブに手を掛け、最後に男を振り返り。


「おやすみなさい、サイモン」


 叩き付けるように扉を閉じた。


 妙に頭が熱いのは、怒りのせいであって別の原因ではない。

 心拍数の増加も怒りのためだ。決して動揺などしていない。

 掻き乱された心の声を打ち消すように、ヒールの足音が声高に響く。


 立ち去る女の足音を遠巻きに聞きながら、サイモン・ノヴェルは窓際へ向かった。密会の間に雨脚は幾ばか強くなったように思われる。濡れた窓に反射した男の顔が、ニヤリと残酷な笑みを浮かべた。

 女の足音は言葉よりも多くを語る。それを彼女は知らないのだ。


「ゆっくりおやすみ、ケートヒェン」


 彼女はすでに自分のものだ。


 ――生憎、もう必要はないのだが。

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