4-7 タウォード・スベルディスの依頼
「おはよう、エアロン。よく眠れたかね?」
翌朝、エアロンはサイモン・ノヴェルの前で直立不動の姿勢を取っていた。
社長のこの質問は完全な嫌がらせだ。昨晩は短い仮眠の後に明け方まで書類仕事をこなし、やっと纏まった睡眠が摂れると一時間ほど眠ったところで、サイモンから呼び出しを受けたのだから。
昨日と同じワイシャツ姿のままネクタイだけ締めて招集に応じ、こうして上司の前に立たされている。寝不足の顔には新しい隈がくっきりと浮かび上がっていたし、肌には張りがなくなっていた。髪もいくらか艶を失った気がする。
「明後日に町民の前で候補者演説会が開催されることが決まった。その原稿を作っておけ」
「随分と急な話ですね……」
「選挙自体が急な話なのだから仕方がないだろう? 原稿の期限は明日までだ。いいな?」
明日まで――エアロンは一夜を過ごした事務机を思い浮かべた。あの書類の束がこれ以上増えなければ間に合う可能性はある。体が勘弁してくれと悲鳴を上げたが、それは聞かなかったことにした。
「……わかりました」
「結構」
「社長、一つお耳に入れたいことがあるのですが」
エアロンが言った。
「なんだ?」
サイモンは不機嫌そうだ。望まない発言は大体いつも彼の機嫌を悪くする。
「過去にサンドーベにて、僕とグウィードは神官セメイルと接触しています。昨夜の会食にて僕の存在が認知されてしまった以上、ヴァチカンがこちらに対して何らかの圧力を掛けてくる恐れがあります」
「ふむ……」
サイモンが目を細め、組んだ指に鼻を乗せる。事態を軽視したその態度、そしてどこか愉しむような眼差しに、エアロンは彼がこの件を一切憂慮していないことを悟った。
「それは大いに問題だな、エアロン。選挙まで何事も起きないよう、常に最善の行動を心掛けたまえ」
「……はい」
それだけ、それだけか。
疲労が全身を駆け抜けた。
ところが、意外なことに、サイモンはそんなエアロンの様子を見て穏やかな笑みを浮かべた。
「案ずる必要はない。お前が心配すべき事柄は私の選挙、そして、会社の利益だけだ。お前は自分の仕事に専念しろ。ヴァチカンは私があしらっておく」
「はあ」
エアロンは戸惑いの表情を隠しきれなかった。サイモンが肩眉を上げる。
「なんだ、不審そうな目をして」
「い、いえ」
不機嫌かと思いきや、今日はむしろ機嫌がいいらしい。エアロンは思い切って気になっていたことを訊ねてみた。
「社長の出馬について、タチアナは何と言っているんですか?」
だが、これは踏み込み過ぎたようだ。
翡翠の瞳がキラリと光る。
「――それを聞いてどうする?」
「……いえ、ただの興味です」
エアロンは一瞬身構えたが、サイモンはふんと鼻を鳴らした。
「出馬は私が独断で決めたことだ。会社について、私は姉から全権を委ねられている」
つまり、タチアナはまだ知らないのか。
エアロンは思案した。
タチアナ・ノヴェルは茨野商会の創設者だ。彼女が経営に携わったことは一度もないが、終戦直後に身寄りのない者たちを集めて会社を組織することを発案したのは彼女だからだ。彼女はグウィードや〈アヒブドゥニア〉号の船長といった最初期からのメンバーを集めるだけ集めた後は、今日に至るまで弟のサイモンに経営のすべてを託している。勝手な話だとは思うが、サイモンが甘んじてそれを引き受けているということは、それだけ彼女が尊敬を集める人物であるのだろう。
実際、タチアナ・ノヴェルは茨野商会の社員たちにとって雲の上の存在だった。会うことは叶わず、名前を知る者も一部だけだ。彼らの組織の創設者として、ただ崇めることだけを強いられているだけ。
創設者は――エアロンも顔を合わせたことは数回しかない――会社の現状についてどう思っているのだろう。彼女が創設時に思い描いた通りになっているのだろうか? サイモンが町長に就任してしまえば、事業は良くも悪くも拡大するに違いない。エアロンが当時聞かされた「隠れ家のような」という理想からは大きく外れることになる。
サイモン・ノヴェルは熟考するエアロンを注視していたが、しっしっと手を振った。
「エアロン、色々なことが気に掛かるのはわかるが、お前が口を出すことではない。お前は私が出した仕事を完遂すればそれでいい」
「……はい。出過ぎた真似を、失礼しました」
「よし。では、仕事に戻れ」
「はい」
追い出されるように廊下へ出る。
冷気が足を這い上がり、全身に悪寒が走った。
「……社長の命令は絶対だ」
下の人間は言われたことだけを聞いていればいいのだと。
犬のように、従順に。
「不愉快なものじゃないか」
舌打ちは高い天井に反響し、小石が当たって砕けるように、廊下の先へ消えて行った。
***
その日はまず、いつものように郵便物の確認から始まった。
営業所の執務室で届いた封筒を只管開封する。その殆どは目を通すだけでいい報告書だが、時折常連客からの相談事など、別途返信が必要なものもある。それを仕分けていくうちに、社長の呼び出しで搔き乱された胸中も少しずつ和らいでいった。
几帳面な字で宛名が書かれた封筒を破る。差出人はアーヴィンド・マクスウェル。〈エウクレイデス〉号での依頼の礼状で、元気いっぱいに笑う少年の写真が同封されていた。エアロンは思わず微笑んだ。
「相変わらずこの英雄くんは、やんちゃしているみたいだねぇ」
これは後で〈アヒブドゥニア〉号宛に送ってやろう、と写真を脇に置く。
偶然にもその次の封書は〈アヒブドゥニア〉号の船長からで、手を組んでいるイタリアマフィアがまたろくでもないネタを持って来たから長期航海に出る、といった旨の計画書であった。同封された請求書は見なかったことにする。
ふと、昨年の夏を過ごした豪華客船のことが頭に浮かんだ。
雑務に追われることもなく、優雅に過ごした海の上。新調したばかりの新〈アヒブドゥニア〉号も見学したが、小振りながら居心地は悪くなさそうだった。中でも特別に内装を注文したという船長室は、旧〈アヒブドゥニア〉号のそれそのままで、硬めの広いベッドとアンティークの事務机、それから階段があって――……。
階段?
階段なんて、ない。
「……あれ……?」
そうだ、〈アヒブドゥニア〉号の船長室に階段なんてない。当然だ。どうしてあの小部屋に階段なんてあると思うんだ? まったく馬鹿げている。
それなのに、自分は船長がその階段の前に倒れ込んでいる光景を知っている。船長室に階段があるのを見ているのだ。
「あれはいつの記憶なんだ……?」
船長室に階段はない。それは間違いないのだ。
でも、船長がいたのはあの部屋で、床には血溜まりができていて、座り込んだ船長の腹には――……。
「副主任?」
ノックの音が思考を乱した。
一瞬、自分が何を考えていたのかわからなくなる。
「お仕事中失礼します。お客様がお見えになりました」
メイドが扉の前に立っていた。
「あ、うん……お客さん?」
「いえ、ヴァチカンの方のようです。応接室にお通ししておきました」
やはり来たか。思わずレターオープナーを握り直す。
「ありがとう。何人だった? 神官は?」
「二名です。神官様はいらしていません。スベルディスと名乗る近衛兵の方と、神父様……でしょうか」
「ああ、そう……すぐに行くよ。お客様にお茶でも出しておいてくれ」
メイドが立ち去る。
エアロンは〈館〉に電話を掛けてグウィードを呼んだ。
「もしもし? グウィード?」
『ああ。どうした?』
低く唸るような相棒の声。
エアロンは受話器を肩で押さえながら机の引き出しを開けた。無造作に入れられたハンドガンが一丁。およそ十ヵ月前のあの日、橋の上でメルジューヌを撃ち抜いた銃だ。
「営業所にヴァチカンの奴らが来た。たぶん大丈夫だと思うけど、お前は捕まらないよう身を隠しとけよ。それから、なんとか好好の居場所を突き止めて、彼の安否を確かめてくれ」
『わかった。けど、サンドーベ以来連絡は取ってないんだろ? 居場所の手掛かりはあるのか?』
好好は流浪の詐欺師だ。姿と身分を商売ごとに変えながら欧州一帯を転々としている。エアロンは銃の弾数を確認しながら答えた。
「そうだな……主任が知っているかもしれない。最近は専ら主任と取引しているみたいだし」
『それじゃ、何かわかったら報告する。気を付けろよ』
「うん」
エアロンは受話器を置いた。今一度光に翳して銃身を眺める。
鈍く光る金属の色。彼と同じ色だ。
***
「お待たせいたしました。副主任のエアロンです」
応接室に入るなり、ドアの前に立ったまま名前を告げた。背後に回した両手はいつでもドアノブに触れる位置にある。
応接室で待っていた男二人は、ゆったりとソファに腰掛けていた。エアロンの入室を見ても立ち上がる素振りすら見せない。近衛部隊長が無表情のまま手招きをした。
「久しぶりだな。いいから座れよ」
タウォード・スベルディスは両手を上げて戦意のないことを示すと、その手で被っていたベレー帽を取った。灰色の髪がたっぷりと零れ落ち、濃紺の制服の上に流れを作る。やや吊り上った黒い瞳は前回会った時よりも暗く濁り、エアロンと同じくらいの年齢とは思えないほど草臥れて見えた。
エアロンは警戒心も剥き出しにゆっくりと腰を下ろした。タウォードの隣では派手な服装の神父が彼の一挙一動を目で追っており、その目付きが非常に居心地悪い。薄い唇を微かに歪めて笑っているが、濃紫の瞳には残忍さが窺えるようだった。エアロンはわざとらしく微笑んで膝の上で指を絡めた。
「これはどうも、ヴァチカンの皆様。えぇと……失礼ですが、僕たち初対面ですよね?」
「俺の顔に見覚えがないと?」
エアロンは全力で白を切る。
「昨晩神官様とご一緒しているのをお見かけしました。すみません、僕はあまりこの町から出ないもので、時勢のことに少々疎いのです。よくないことだとはわかっているのですが」
「そうか、しらばっくれるのが好きなんだな。まぁいいさ。今日はお前を逮捕しに来たわけじゃない。これから神官が現地視察を行う。バンベールの秘書も同行する。お前も来たいんじゃないかと思ってな、わざわざ呼びに来てやったんだ」
「はぁ、視察ですか」
エアロンは探るようにスベルディスを見た。隊長は澄まし顔で肩を竦める。
「わかりました。伺います」
三人は立ち上がり、営業所を出た。
営業所の前ではテレシアが待機していた。コートを着込んでいても尚寒そうに身を縮めている。背後には二台のタクシーが控えていた。
「あっ、エアロンさん!」
テレシアはエアロンを見るなり笑顔を弾けさせた。
「ああ、テレシア。このタクシーは君が?」
「はい。お二人は教会の方ですね。後ろのタクシーにどうぞ」
テレシアの案内でタウォードとフレデリック神父が乗車する。エアロンはテレシアと共に先頭車の後部座席に乗り込みながら、そっと彼女に耳打ちした。
「ちゃんと二台手配するとは、気が利くじゃないか」
「ありがとうございます。あの、教会の方が、ちょっと怖かったもので……」
そう言って、テレシアは視線を逸らした。
「怖い?」
「あの、はい」
俯いた頬が少し赤いのを見て、エアロンは思わず笑みを零した。
「確かにねー。わからないでもないよ。スベルディスの奴、顔怖いし」
「うぅん……もう一人の神父様も、なんか……あんまり神父様らしくなくて」
「ああ……神父ってもっとこう、地味っていうか真面目なのかと思ってたね。あんまり関わらないようにしておくんだよ。下手にいちゃもん付けられたら大変だ」
「はい。気を付けます」
素直に頷くテレシア。従順な娘だなとエアロンは思った。
タクシーは入り組んだ道を縫うように進み、問題の教会跡に乗客を運んだ。
営業所からの四人が最後の到着だったようで、現地には既に神官とそれを囲む衛兵、ケートヒェン・バンベールの秘書、町の担当者と教会が連れてきた数名の専門家が待っていた。
車を降りたエアロンに向かい、神官がにこやかに話しかける。
「ご足労いただきありがとうございます。本日は軽い現状確認を行いたいと思いまして。お時間を取らせてしまい申し訳ありませんが、少しだけお付き合い願います」
「いえ、お構いなく。皆様をお待たせしてしまい申し訳ございません。僕はサイモン・ノヴェルのもとより参りました秘書のエアロンと、こちらはテレシア・メイフィールドです」
「よろしくお願いします。エアロンさん、メイフィールドさん」
神官は穏やかな微笑を向けた。何度見ても稀有なその美貌に、隣でテレシアが小さく溜息を吐く。
視察は本当に簡単なものだった。町の担当者がヴァチカン一行を案内し、選挙関係者はそれにただぞろぞろと付いて行くだけ。
空き地には朽ち果てた石の塊が辛うじて元の荘厳な建物の様子を伝えていた。町の担当者の話では、この教会は何世紀も前に火災で焼け落ち、再興する程の信者もいなかったためにそのまま取り壊されてしまったのだそうだ。足元のタイルは未だ美しい流線模様を描き出してはいるものの、隙間からは雑草が顔を出していた。
神官は専門家と倒れた柱を指差して何か話し合い、ケートヒェンの秘書がそれを熱心に書き録っていた。
エアロンは退屈そうに周囲を眺め、集団から離れて石壁を回った。瓦礫に埋もれた石柱があるかと思いきや、屈んで見ればそれはどうやら女性の彫像だった。風化した衣服の波に指を這わせてみる。きっと元は見事な品だったのだろうが、生憎彼には古の美術に想いを馳せる心の余裕は持ち合わせていなかった。
早く終わらないかな。エアロンは前方で話し合う神官たちを眺め、苛立ちの溜息を飲み込んだ。
その背後に忍び寄る濃紺の影。
「エアロン」
「うわっ」
タウォード・スベルディスが真後ろに立っていた。
「やめてよ、驚かさないで」
「なんだよ。また何か企んでいたのか?」
「企んでるのはそっちでしょ。エルブールに何しに来た? 僕らを逮捕したいならさっさとすればいいじゃないか」
「するよ、今度な。だが、今は純粋に神官の護衛で来ている。別件に手を出している余裕はない」
「ふぅん……信用ならないね」
エアロンは横目でスイス・ガーズを睨んだ。
隊長は何か言いたげにエアロンを見上げ、それから漆黒の目を逸らした。
「何」
「お前に頼みがある」
「は?」
タウォードは警戒気味に周囲を見回した。視察の一団は遺構の歴史的価値に夢中なようで、物陰の二人には気付いていない。彼は懐から紙切れを抜き出すと、エアロンのズボンのポケットに捻じ込んだ。
「うわやめて、何すんの」
「お前のところ、殺し以外なら何でもするんだろ? これは依頼料だ。とっとけ」
「いやだよ!」
「静かにしろ。客を選ぶってのか?」
エアロンは小さく舌打ちをした。茨野商会は支払いさえきちんとなされれば、客の依頼を断ることは原則として許していない。どうやらそのことをスベルディスは知っているようだった。
「何? 僕らのことをどこで嗅ぎ付けたの?」
「どうでもいいだろ、そんなこと。いいから引き受けろ」
「――内容は?」
「神官の保護。この先何かあったとき、セメイルを守ってやって欲しい」
一瞬、エアロンには彼が何を言っているのか理解できなかった。それこそお前の仕事だろう、と。しかし、相手の顔は真剣そのもので、念を押すように鉛の瞳を見据えるのだった。
「どういうこと?」
「言葉のままだよ。セメイルの命が危険に曝されたとき、何としてでもあいつを守れ。いいな?」
「ちょっと、意味がわからないんですけど」
立ち去ろうとするスベルディス。エアロンはその腕を掴んで引き留めた。近衛部隊長は視線を地に落し、ただ一言ぽつりと呟くのだった。
「……俺には、もう守ってやれないから」
「はぁ?」
「おやおや、何をなさっているんです? お二人とも?」
問い詰めようと迫るエアロンを阻止するように、粘着く声が二人を裂いた。タウォードがハッとして振り返る。無地のストラを弄びながら、神父フレデリックが立っていた。
「フレデリック……」
「二人だけで内緒のお喋りですか? 親睦を深めるのはいいことですがね……選挙前という大切な時期です。特にそちらの……副主任さんは。色々と疑われたら困るのではないですか?」
エアロンは無言で神父を睨んだ。
この神父が口を開くのは初めて聞いた。なんという不快な喋り方だろう。声自体は聞き易くよく通るのに、舐めるような粘り気を持ち、それでいて囁きに似た独特の喋り方をする。たったこれだけの会話でエアロンは神父に対して嫌悪を抱いた。
「余計なお世話だ、フレデリック。世間話をして何が悪い?」
「悪い事ばかりでしょう? 怪しまれますよ――何か隠し事をしているんじゃないかと、ねぇ?」
男たちは暫く睨み合った。ピリリと張り詰めた空気の中、辛うじて透けていた太陽の姿を厚い雲が覆い隠す。曇天の空はまるで彼らの不穏なやり取りを体現するかのようだった。
「嗚呼。また天気が変わってしまいましたね」
廃墟の中心で神官が呟く。一同は揃って空を見上げた。
「なんだか雨が降りそうです。今日はこれで引き上げるとしましょうか」
その言葉を合図に、視察団は空き地を後にした。神父が今一度エアロンに視線を投げる。
列の最後尾に付いたエアロンはポケットの紙切れを取り出した。小さく折り畳まれた紙を広げ、そこに並んだゼロの数に目を見開く。それは多額の金額を託した小切手だった。
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