4-4 テレシア・メイフィールド
「メルジューヌがいる?」
ベーグルを口に運ぶ手を止めて、グウィードはぽかんと口を開けた。隣のエアロンは下を向いたまま呻き声で答える。口に含んだ物を漸く呑み込み、エアロンは睨むように言葉を吐いた。
「違う。メルジューヌに限りなく似ている別人」
二人は営業所の裏庭に椅子を並べ、寒空の下で食事を取っていた。社長から早めに解放されたおかげで遅めのランチを共にすることができたが、塞ぎ込んだエアロンのために楽しい食事会とはならなかった。
グウィードはベーグルの下からはみ出した厚切りベーコンを噛み千切ると、口の端を拭って相棒を注視した。
「でも、似てるんだろ。どれくらい似てるんだ?」
「目の色」
「……だけ?」
「以外」
「はぁ?」
エアロンはベーグルサンドを握り締め、苛立たしげに横目で睨んだ。
「だから、目の色以外は同じなんだよ!」
「……具、落ちるぞ」
グウィードは花のように開いてしまったベーグルを見、呆れ顔で指摘した。
垂れたレタスを引き抜いて口に運ぶ。その指を舐めながらエアロンは先程の謁見を思い出し、例の少女を過去の殺人鬼と重ねた。
「あれはどう見てもメルジューヌだった。背格好、顔付き、髪や肌の色も全部――でも、目の色だけが違うんだ。あの子は淡い紫の目をしていた。僕の記憶にあるメルジューヌは、もっと濃い色の瞳だったはずだ……」
「それはメルジューヌだろ」
「違う」
「いや、メルジューヌだろ」
「違うっ!」
叩き付けたマグカップがテーブルに当たって大きな音を立てた。噛み付かんばかりに振り返ったエアロンは、唖然として見つめる相棒の姿にハッと目を開く。一瞬我を忘れた自分を恥じて、居心地悪そうに身を捩った。
グウィードが静かに彼の名を呼ぶ。
「エアロン」
「……社長が、彼女はある街の市議会議員の娘だと。それが本当なら、あの殺人犯と同一だとは考えにくい。だから――」
グウィードは淡々と言葉を継いだ。
「メルジューヌとは違うって言うのか。限りなく似ているが、他人の空似だと」
「うん」
エアロンは取り繕うように言い足した。
「それに、以前見た時よりなんていうか……幼いっていうのかな? 随分と印象も違うんだ。メルジューヌって、もっと怪しくてふてぶてしい感じだった気がするし、それに――」
気まずい沈黙が流れる。
俯いてしまったエアロン。暗い色の髪が日差しを浴びて、瞳に近い色に輝いた。その輪郭をなぞるように視線を這わせ、それから徐に顔を背けて、グウィードはベーグルサンドに齧り付いた。
「お前がそう言うなら、そうなんだろ」
「……ん」
二人ともそれ以上何も言わなかった。
それが本物のメルジューヌであるにしろ、全くの別人にしろ、確証が得られるまで十分に議論すべき問題だったのだ。しかし、二人はただ押し黙っていた。話し合う内にあの日のことを思い出すのが嫌だったから。
やがて、たっぷりの時間が気まずさを体の芯まで染み込ませた頃、グウィードが口を開いた。
「なぁ、エアロン。お前、この間から変じゃないか?」
「変?」
「ああ。特にあれだ」
グウィードは束の間躊躇いを見せる。
「――メルジューヌのことになると様子がおかしい」
エアロンは言葉を詰まらせたが、即座に言い返した。
「そりゃね。親しくしていた人たちを一家丸ごと殺されたんだ。ショックも受けるよ。そのせいで僕が犯人だと疑われるはめに――」
「お前が?」
グウィードが遮る。エアロンはじっと相手を見た。鉛色の瞳は対峙する琥珀よりも鈍く輝く、金属の色。そこに浮かぶ冷酷さと苛立ちを、グウィードは動じることなく見つめ返した。
「……どういう意味」
「お前がそんなに感受性豊かだとは思わなかっただけだ」
「僕に喧嘩売ってるのか?」
「人が殺されるところだって、人を殺す奴らだって、俺たちは戦争で沢山見てきただろ。お前は俺より『そういう世界』を知ってるはずだ。確かにお前はリンデマン巡査部長と仲良くしていた。だが、それは会社の――」
「やめろ」
エアロンが睨む。
「僕が誰かの死を悲しんじゃいけない? 僕はそんなに血も涙もない人間だって言いたいわけ?」
「違う」
再び遮ったグウィードの口調は強かった。射抜くような狼の視線にエアロンはたじろぐ。
「俺が言いたいのは、お前がそんなに動揺する原因は一家の死じゃないってことだよ。隠すなよ、エアロン。何をそんなに気に病んでる? あいつと一体何があったんだ」
エアロンは答えられなかった。
「……わからないんだ」
どこか遠くの方で、靄が掛かったようなメルジューヌの声が聞こえた気がした。
彼に会えて嬉しいと、ずっとそれだけを夢見てきたと言う彼女。終わりを求めながら、それでも彼に『物語の始まり』を告げた真意はなんだったのか。
「僕にもわからない。ただ、彼女のことを思い出すと、どうしてか……落ち着かないんだ」
両手に顔を埋める。前髪を握る手に力が入り、指が白く変色した。その隙間からついに弱音が溢れ出す。
「最近よく眠れない。それもなぜなのかわからない。仕事続きだし、クタクタだし、本当は眠いはずなんだ。なのに眠れない。眠りたくない」
「エアロン……」
「何か夢を見ている気がするんだ。原因はきっとそれなんだ……だけど、どうしても思い出せなくて、思い出そうとすると気分が悪くなって」
「……そうか」
それ以上は言うなと、グウィードがコップを差し出す。エアロンは無言で受け取り、生温いリンゴジュースに口を付けた。
「アンが心配してるらしい。主任も気にしてた」
彼がジュースを飲み干すのを見守りながらグウィードが言った。少しでも打ち明けられて気が抜けたのか、コップを置いたエアロンからは弱った様子が消えている。彼はいつもの調子でフンと鼻を鳴らした。
「主任も? 嘘だね」
「嘘じゃない。今朝俺のところに来たぞ。どうしても眠れないなら医者にでもかかった方がいいんじゃないかって。睡眠薬は?」
「はっ。どうせ自分の仕事が増えるのが嫌なだけだろ。僕は大丈夫だよ。アンにもそう言っといて」
「あんまり無理するなよ」
エアロンは伸びをしがてら体を捻って営業所を振り返った。窓越しに室内の時計を見、「あと十分」と休憩時間をカウントする。グウィードは手を拭きながら空を仰いだ。
「社長が出馬か。いつも大変だな、エアロン」
「仕方ないさ。僕はお前と違って優秀だからね。あーあ、僕だってたまには気楽に羽を伸ばし――」
唐突に、エアロンは口を噤んだ。
二人の前に小さな人影が立ちはだかり、握った拳を地面に向けて突っ張った。微かに紅潮した頬。不安げに寄せられた眉。エアロンが顔を顰め、グウィードが目を見開いている前で、その少女は口を開いた。
「あっ、あの! エアロン、さん――」
初対面から敵意を剝き出しの青年に声を掛けるのは相当な勇気がいるようだ。しかも、その隣には見るからに凶悪な風貌の男がいる。
テレシア・メイフィールドはこちらを睨む男たちに潤んだ瞳を向けた。
「テレシア・メイフィールド……僕に何の用だ」
組んでいた脚を下してエアロンが言う。完全な威嚇体勢をグウィードが諌めた。
「おい、怯えてるぞ。こいつが例の新人秘書か?」
「そう」
テレシアはグウィードに向かって悪人か善人か探るような視線を送ると、僅かに彼から距離を取ってエアロンに近付いた。
「あの、これからお世話になりますので、一度ちゃんとご挨拶しておきたいと思って。初めまして。テレシア・メイフィールドです」
エアロンは目を細めたまま答えない。グウィードが居心地悪そうに二人を見比べた。テレシアは悲しそうに眼を伏せると、垂れた黒髪を耳に掛けた。その姿は可憐で心を打つものがある。
「エアロンさん……私、もう何か失礼なことをしてしまったのでしょうか? まだあんまり、秘書のお仕事とか、マナーとか、色々と身に付いてないから……きっとこうしてお休み中に突然伺うのも失礼でしたよね」
「え。い、いや……」
言い淀むエアロン。見かねたグウィードが脛を蹴った。
「いてっ」
「エアロン」
「……わかったよ!」
エアロンはとうとう観念した。自分の気持ちがどうであれ、目の前の少女に対する自分の振る舞いは単なる八つ当たりだ。大人げない振る舞いを指摘され、エアロンは頭を掻きながら上目遣いで彼女を見た。
「ごめん、テレシア。君が僕に何かした、ということではないんだ。ただちょっと……僕の嫌いな相手に姿が似ていてね。本当にごめん」
「そう、ですか……嫌いな……」
複雑な表情で目を上げるテレシアに、エアロンはぎこちない笑みを返す。罪滅ぼしの微笑だが、当然その下ではグウィードの足を踏んでいた。
「おい、馬鹿。痛い」
「これからよろしくね。サイモン社長はかなり自分勝手なところの多い人だから、僕も君も何かと苦労すると思うけど、一緒に頑張ろうか」
たったそれだけの言葉で気が晴れたのか、新米秘書は弾ける笑顔で答えた。
「はいっ!」
エアロンはゆったりと脚を組み直し、寛いだ姿勢になった。
「社長は? どこか行ったの?」
「はい。何か大事な電話をしなくちゃならないからって、お一人で自室に戻られました。私は少し町を見てくるよう言われました」
「踏んでる。痛い。踏んでる」
「へぇ。一通り見て回ったの?」
「いいえ、これからです。夕方に戻ればいいそうなので、少しゆっくりできるかなって。そんなに大きい町じゃないし」
「エアロン」
「んー、そうだね――」
エアロンは顎に手を添えて考える。
「川沿いに少し下ると別荘が集まってる地域があるんだけど、あそこは町の関係者の所有地もあるから、ざっくりでも名前と場所は把握しておいた方がいいよ。軽く話題に出すだけで印象がぐっと良くなることもあるからね」
「そうなんですね。勉強になります」
「いい加減にしろ、この」
ついにグウィードが革靴の下から脱出した。テレシアが不安そうに横目で見る。
「あのぅ……そちらは……?」
「あー」
相棒たちは顔を見合わせた。
「彼はグウィード。僕の友人だ。目付きは悪いけど中身は意外といい奴だから、そんなに怯えなくてもいいよ」
「それ、褒めてんのか?」
グウィードが怪訝そうにエアロンを見る。彼ははっきりとした吊り目で、黒い瞳孔が浮かび上がる琥珀色の瞳は、まさに獣のそれである。本人にその気はまったくないのだが、悲しいことに初対面の人間は彼に威嚇されていると誤解するのが常だった。
テレシアはにっこりと笑い、グウィードにペコリと頭を下げた。
「グウィードさんですね。よろしくお願いします」
「お、おう」
グウィードは間誤付きながら頷き返した。悪い人ではないと言われて素直に信じられる人間も珍しい。その笑みが眩しかった。
エアロンが時計を振り返るのとほぼ同時に、営業所からメイドのアンが顔を出した。セッティングの途中なのかテーブルクロスを腕に掛けている。アンは一瞬テレシアに目を留め、そのままの表情でエアロンを見た。
「エアロン、時間よ」
「はーい」
さてと、と立ち上がったエアロンは、長身を反らせて大きく伸びをした。そして、二人を交互に見る。
「それじゃ、僕は午後の仕事があるから。テレシアは町に行くんだね」
「はい。会食の準備まで三時間くらいあるんですけど、三時間あれば町内を一周できるでしょうか?」
「さすがに徒歩で一周は厳しいね。でも、見るべき所を回るだけなら十分だよ。グウィード、案内してあげなよ」
「え、俺?」
予期せぬ提案に思わず声が裏返る。エアロンは腰に手を当てて片足に体重を掛けた。
「いいじゃん。暇だろ? テレシアには僕の負担を減らすため――じゃなかった、大事な社長秘書として頑張ってもらわなくちゃならないんだ。お前が案内してやった方が効率がいいだろ」
そう言われるとグウィードに断れる理由はない。
「わかった。テレシアは? それでいいのか?」
「えっ、あっ、はい。グウィードさんが、構わないのでしたら……」
若い秘書は睫毛を伏せ、上目遣いに青年を見た。
「俺は問題ないけど」
「ありがとうございます! 是非、お願いします」
そして、笑顔で頭を下げる。その様子を見守っていたエアロンは僅かに目を細め、くるりと二人に背を向けた。立ち去りながら言い残す。
「頼んだよ。喧嘩しないように、仲良くね」
「おう。また後でな」
「お仕事、お疲れ様です」
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