4-3 サイモン・ノヴェルの出馬

 普段着でもフォーマルな服装を好むエアロンは、いつでも来客に対応できる恰好をしている。それでも同行する上司に合わせて色調を変える気遣いは必要だ。

 今回も社長がダークブラウンのスーツを着ているとの情報を得、アンと相談しながらクローゼットを漁った。悩んだ末、無難にチャコールグレーの上下に落ち着いた。


「なんでよりによってブラウンなのかな……」

「髪の色に合わせたんでしょう。社長は髪が明るいから真っ黒だとあまり似合わないもの。あなたはやっぱり、暗い色が似合うわ」

「おかげで茶色は似合わないんだけどね……」


 エアロンは憂鬱そうに姿見を眺め、並んで立つメイドのアンに目を留めた。

 メイドの制服は丈の長いエプロンドレスにホワイトブリム。暗色の壁に臙脂のカーテンという背景の中で、二人の姿は古典的美を体現していた。

 エアロンがニヤリと笑う。


「……似合うよ?」

「あなたもね」


 そんな冗談を軽く流し、アンがエアロンのコートを取り上げた。彼に袖を通すよう差し出すが、エアロンの背が高すぎるためいつも上手くいかない。結局自分でコートを羽織り、二人はエントランスへ向かった。


「アンも一緒に来るの?」

「ええ。だって私、あなたの専属メイドだもの。何の用事かわからないけど、付きっきりのメイドが一人いた方がいいと思って。メイド長にシフトの交代をお願いしてきたわ」

「ふーん。独りじゃないって心強いや。僕が社長に虐められたら助けに来てね?」

「それができるくらいなら、今頃あなたが私のメイドになってるわ」

「下剋上かぁ」


 中央階段を下りる。エントランスホールには既に運転手が待機していた。吹き抜けから垂れるシャンデリアを見上げ、金髪の女性が帽子を弄んでいる。彼女は下りてくる二人に向かって軽く頭を下げた。


「やあ、ヴィズ」

「副主任。表に車を回してありますので、すぐにご乗車ください。社長がお待ちです」


 ヴィスベットは不愛想にそれだけ告げると、制帽を目深に被って顔を隠した。彼女の声高い足音に導かれ、二人は社用車に乗り込んだ。

 営業所までの数分間はあっという間だ。通い慣れた道だからかもしれないし、これから待ち受ける社長との対面に吐き気を催すほどのストレスを感じているかもしれない。憂鬱そうなエアロンの横顔に、バックミラーから灰色の眼差しが飛んだ。


「着きました。また御用の際はお申し付けください」

「うん、ありがとう」


 二人は車を降り、人目を遮るように生い茂る垣根をくぐる。風と共にふわりと漂う少女の声を聞いたような気がして、何かが心の中でざわめいた。

 営業所の裏口をノックする。中で小さな足音がして、そして、扉が勢いよく開かれた。

 

 はたり。

 長い髪の房が跳ね上がり、肩に当たって広がった音。


 その音を境に、張り詰めた沈黙が訪れた。


 視界が揺れた。

 背筋を這い上がるように悪寒が貫き、額からどっと冷や汗が吹き出した。後頭部の毛が逆立つ。全身の筋肉が収縮する。カッと見開いた眼前に映るのは、果たして現実なのか。彼の妄執に過ぎないのか。


 エアロンは一人の少女と対峙していた。

 勢い余って鼻を突き出し、きょとんとした表情の可憐な殺人鬼。

 

 メルジューヌ・リジュニャンがそこにいた。


 止まった時間が流れ出す。エアロンはさっと上着を捲って背中に手を回した。銃を握ったその腕をアンが掴んで制止する。


「エアロン!」


 諌めるように彼を呼んだ。腕に食い込んだアンの指が彼に理性を取り戻させる。

 エアロンは銃から手を離した。

 目の前の殺人鬼は相変わらず黒目がちの瞳で彼を見ている。その表情は無垢で無邪気で無自覚で、どうして彼がそんなに動揺しているのかわからないようだった。


「えっ、と……」


 少女は上から下まで彼を眺め、ほんのりと耳朶を染めた。それから取り繕うようににこりと笑う。


「副主任のエアロンさん……ですよね? お待ちしておりました。どうぞ」


 そして、殺人鬼は二人に背を向けて中に入った。楽しげに左右に跳ねる黒髪を、見るからに線の細い灰色のスーツ姿を、エアロンは呆然と目で追った。


「メルジューヌじゃ……ない?」


 長く艶のある黒髪も、陶器のような白い肌も。小さくまとまった鼻やツンと尖った唇。彼の名を呼ぶ柔らかな声音までメルジューヌ・リジュニャンその人なのに、当の本人は彼のことを知らない素振りだ。

 唯一、彼が記憶の中の殺人鬼とは違う点と認識できたのは、少女の瞳の色だけだった。もっと深い青紫に近い色だったと思っていたが、少女の瞳は淡い紫。だが、それ以外は全て。

 行き場を失った激情が吐き気となって体内を蠢く。口を押えたまま立ち尽くす彼をアンが心配そうに見上げた。


「エアロン、しっかりして。大丈夫?」

「あ……うん。でも、あの娘は一体……?」


 立ち止まったままの二人を怪訝そうに振り返る少女。エアロンはやっとのことで敷居を跨ぎ、彼女の後に付いて行った。その一歩一歩が鉛のように重い。冷え切った指先は警戒心を解くこともできずに、腰の位置で強張っていた。

 少女は応接室の扉を開け、元気よく言った。


「サイモン先生、エアロンさんをお連れしました」

「ありがとう、テレシア」


 サイモン・ノヴェルは応接室のソファに座り、悠々と指を組んでいた。事前の情報通りダークブラウンのスーツを着て、黒のハイネックを合わせている。整った顔立ちに浮かべた笑みは慎ましくも、シルバーフレームから覗く翡翠の眼光には怪しい思惑が渦巻いていた。

 テレシアと呼ばれた少女が道を空け、エアロンをソファの前に通した。アンは早々に部屋を立ち去り、どうやら三人のためにお茶を淹れに行ったらしい。いけ好かない上司、殺人鬼に酷似した少女との間に取り残され、エアロンは落ち着かなげに拳を握る。サイモンは片手で示した。


「久しぶりだな、エアロン。掛けたまえ」

「失礼します」


 エアロンが浅く腰掛ける。テレシアはサイモンの隣に座った。


「無駄話に興じる時間はないので紹介しよう。エアロン、彼女はテレシア・メイフィールド。私の秘書だ」


 テレシアがはにかみながら握手を求める。エアロンは一瞬躊躇ったが、サイモンが見ている前では拒むこともできなかった。


「秘書?」


 秘書を雇うだなんて聞いていない。賃金の支払いは副主任の業務のはずだ。

 サイモンの秘書は以前から一人いるのだが、普段はパリにある社長のオフィスに控えているため、エアロンが直接顔を合わせたことはなかった。数回交わした電話でのやり取りは確かに女性の声だったが、声の感じでは目の前の少女よりも年上に感じた。

 そんなエアロンの疑問を見越してか、サイモン・ノヴェルは冷やかに笑って見せた。


「彼女は新しい秘書でね。当然会社の人間ではない。私の新しい肩書において必要な人材なのだ」

「何かまた新しいことに手を出すんですか? それで僕をお呼びになったと」

「その通り」


 社長は眼鏡の奥で目を細め、悦に入った笑顔を浮かべる。自分が今からする発表を、それを聞いた部下の驚愕を楽しむように、彼はゆっくりかつ明瞭に述べた。


「町長選に出馬する」

「……はいっ?」

「町長選に出馬することにした。この私が」


 エアロンは社長の期待以上の反応を見せた。一瞬きょとんと口を開け、それからハッとして息を呑む。


「ま、まさかこの町の、ですか? あなたが? 出馬するって? 選挙に?」

「何度も同じことを言わせるな。エアロン、前任のマシュー・ドレルムが殺害されて以来、町長の座は空席のままだ。これまで副町長が業務を兼任していたが、漸く時期候補を決める準備が整ったらしい」


 九ヵ月前の殺人事件――それが無意味なことだとわかってはいながらも、エアロンはテレシア・メイフィールドを盗み見ずにはいられなかった。予想通り、若い秘書は彼の視線の意味には気付かない。胸中に渦巻く疑念と葛藤を押し殺し、エアロンはあの悪夢のような出来事に想いを馳せた。

 一連の騒動に関し、警察の捜査は何の成果も挙げることができずに終わった。町の混乱は無理もないだろう――これまでエルブールが経験したことのないような凶悪な殺人事件。加えて、同じタイミングで小規模な電磁波災害まで発生したのだ。

 事件に伴う町民の不安や観光客の激減は、政治的にも経済的にも大きなダメージを与えた。それがやっと一段落し、町がいよいよ前に進む決心をしたらしい。


「出馬表明はもう済ませてある。投票は来月だ。急な話だが、事が事だ。準備に猶予がないことは仕方がないだろう」

「それ以前に、あなたがエルブール町長を目指す意義はなんですか? わざわざ目立つようなことをする理由がわかりません」

「簡単なことだ、エアロン。ドレルムの後ろ盾を失って、我社は一時存続の危機に瀕した――いつかは直面する問題であったとは言え、な。後ろ盾なしでは〈館〉の存在を公から隠しておくことはできまい。ならばいっそ、町ごと我社の手中に収めればいい。そう考えただけのことだ」


 随分と大胆な戦略である。しかし、上手くいけば確実で安全な方法ではあった。

 今から十年近く前、非合法ながら会社として産声を上げた茨野商会は、社会に居場所のない社員たちを抱えて安住の地を求めていた。その際に拠点として見つけたのが、このエルブールである。

 エルブールは近世には鉱山として栄えたこともあったというが、閉山されて久しい。景観を売りに細々と観光業で食い繋ぐも、戦後の不況は町に大打撃を与えていた。

 茨野商会は環境整備の資金援助と人脈を駆使した集客を、町は山中の館の贈呈と沈黙を誓い、契約は成立したのであった。社長が密かに根を回し、やがてエルブールには各界の著名人たちがお忍びで通う別荘が多く建つようになる。 

 そうして静かに避暑地として名を馳せるようになったエルブールは、小さすぎる行政主体が仇となり、当時の薄ら暗い取引を知る者も限られている。


「しかし、会社は? 社長職はどうするんです?」

「兼任すればいい。君たち管理職が今まで通りきちんと業務を全うしてくれれば、何も問題ないはずだ」


 エアロンは思わず表情に出てしまった不満を隠しきれなかった。


「対立候補はどれくらいいるのでしょうか。勝てる見込みは?」

「当然あるに決まっている。対立候補は一人だけだ。ドレルムの親戚らしい。町内の繋がりは根強いが……しかし、コネクションには現実的政策で挑めばいいだけのことだ」


 サイモン・ノヴェルは自信ありげに口の端を吊り上げた。欲しいと思ったものは周到に囲い込み、必ず手に入れる男だ。今回も必勝の策を練っているのだろう。エアロンは疑問を一旦脇に置き、これから為されるであろう社長の演説を待った。

 ところが、サイモンはじっとエアロンを見つめた後、不思議そうに首を傾げた。


「時に、エアロン、なぜ先程からチラチラと秘書を見ている? そんなに彼女が気になるのか?」

「え」


 大人しく座っているだけのテレシアが――はっきり言って秘書として役に立ちそうには見えない――突然振られた自分の話題に慌てて顔を上げる。二人には理解されないであろう複雑な表情のエアロンと目が合って、少女は恥ずかしそうに頬を染めた。


「いやっ、違います」


 咄嗟に否定してから、これが彼女の素性を探る絶好の機会だと言葉を足す。


「随分と若いなと思っただけで……彼女は誰かの紹介で?」


 返答を待って緊張が走るエアロンを尻目に、サイモンはゆったりとソファに身を預けた。


「そうだ。テレシアはサウスバーズパークのメイフィールド市議会議員の娘でね。彼に政治の現場を見せてやって欲しいと頼まれて、こうして秘書という役に就いてもらうことになったのだ」

「ということは、彼女に秘書経験はないということですね?」

「ああ。だが、問題ない。主な秘書業務は今まで通り第一秘書にやってもらう。テレシアには私の身の回りの世話をしてもらうだけだ。役員との会食などには彼女も出席させることになるだろうが、その際はエアロン、お前が彼女をアシストしろ」   

「……は」


 エアロンは硬直した。

 市議会議員の娘とは――やはり、メルジューヌとは全くの別人なのか。

 頭ではそれを理解しようと考えても、本能が彼女と一緒にいることを拒否しようとしていた。テレシアの補佐に就くということは、彼女と長い時間を共に過ごすということ。それは色々な意味において、怖かった。


 誰も口を開かない、無言の一瞬。

 そのタイミングを待ち構えていたかのように、メイドのアンがお茶を持って入室した。怒りと困惑、そして不安が入り混じった顔のエアロンに、探るような眼差しを投げる社長。初対面で露骨な嫌悪を向けられて項垂れる新人秘書のテレシア・メイフィールド。アンはその誰にも視線を向けることなく茶器を並べ、それぞれの器に紅茶を満たした。

 去り際、アンの手が微かにエアロンの肩に触れる。それが平静を取り戻させた。


「エアロン」


 サイモンが押し殺した声で返事を促す。


「……すみません。承知しました」

「そんなにテレシアを雇うのが気に喰わないか? では、教えてやろう。彼女を雇うのは私の政策としても重要な意味があるのだ」


 サイモンは澄ました表情を崩してニタリと笑った。テレシアは居心地悪そうに俯いている。  


「メイフィールド市議と話を付けた。私がエルブール町長に就任した暁には、サウスバーズパーク市と姉妹都市関係を結ぶのだ。積極的にサウスバーズパーク市内の学校から留学生を受け入れる他、企業の研修や旅行先としてエルブールを使ってもらう。この協定により更なる人の流入が見込めるだろう。また――」


 ここで社長は声を落とし。


「市議会にコネができれば、顧客の新規開拓にも繋がる。お前は随分と心配症のようだが、当然ながら私は我社への利益も考慮している」


 もっともらしく聞こえるが。

 エアロンが兼ねてより思っていることして、サイモン・ノヴェルの自信過剰な程の語り口は、聞いている者の思考力を奪わせる。今度もその洗脳を痛烈に意識しながら、エアロンは強いられるままに納得せざるを得なかった。


「なるほど。納得しました」

「もちろん、私が用意した策はそれだけではないがな。彼女は部下であると同時に、お預かりしている大切な客人だ。丁重な扱いを忘れるな」

「……肝に銘じます」


 エアロンはそう答える自分の声が辛抱に震えるのを聞いた。サイモンは彼のそんな様子は気にも留めずに、自分の用件を済ませたことに満足した顔をする。


「まだお前とは話し合うことが山程あるが、私は急ぎ打ち合わせに行かなければならない。当分は出馬の準備に掛かりっきりになるだろう。今日中に抱えている仕事をすべて済ませておけ。それから、夜には選挙関係者の顔合わせを兼ねた会食がある。お前も出席しろ」

「承知しました」


 怒涛のような命令ののち、サイモン・ノヴェルは突然つまらなそうに真顔に戻った。彼が立ち上がると、それに合わせてエアロンも起立する。テレシアはぱっと駆け出して扉を開けた。


「それでは、また夜に。詳細は追って連絡させる」

「はい。お疲れ様です」

「ああ」


 ブラウンのスーツが通り過ぎる。エアロンは長身を折ってその姿を見送った。

 若い秘書が扉の隙間からこちらを振り返るのを、彼は無視した。

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