4-2 朝
水に身を浸す行為に神聖な意味を見出す文化や風習は、世界中で普遍的なものである。水そのものを神聖視することもあれば、特に流水の浄化作用を重んじる場合もある。
ぼんやりと壁に貼られた規則正しいタイルの並びを眺めながら、茨野商会の副主任、エアロンはそんなことを考えていた。
シャワーヘッドから吐き出された水は脳天から頭皮を伝い、青年の裸体を滑り落ちる。骨の凹凸に当たる度に流水はいくつもの支流に分かれ、再び集結して排水溝に消えて行く。
鉄黒色の髪がべったりと首筋に貼り付き、滑らかな皮膚をすべて流水が舐め尽くした時、エアロンはシャワーを止めた。
水の浄化作用か、皮肉なものだ。
あの体験を終えてから、この僕には。
――流水に触れる度に全身が穢されていくようにしか思えないのに。
「笑っちゃうね」
四方八方から体を潰そうとするあの激流の恐怖を、まだ覚えている。
途切れそうな意識の中で、指先から逃れて行ったあの髪の感触を、鮮明に。
不快感を吐き出すように水を蹴散らし、エアロンはシャワーブースのガラス戸を開けた。正面に腰を据えた大鏡は湯気で曇り、ぼんやりと青年の裸体を映しだしている。自身に合わせてぬるぬる動くその影がまた不快で、エアロンは思わず顔を背けた。
棚に置かれた籠に手を伸ばし、彼ははたと動きを止める。シャツがない。そうか、嫌な夢を見ていつもより早く目が覚めたから、まだアンが着替えを補充しに来ていないのだ。とりあえずは茶色いバスタオルを腰に巻き、エアロンはバスルームを出た。
彼の私室はバスルームが併設された数少ない部屋の一つである。寝室に戻るとちょうどアンが着替えを補充しにやって来たところで、彼に気付くと顔を上げた。ホワイトブリムの下で片眉が上がる。
「エアロン、そんな恰好で出てくるのはどうかと思うわ」
「だったら目を逸らすとかなんとかしてよ……きゃーって目を覆うとかさ」
「あら、見慣れちゃって驚きもしないわ。あなたがベッドにいなかった時点で、シャワーを浴びてるだろうっていうのはわかってたし。おはよう、エアロン」
「おはよ、アン。僕だって好きで裸体を晒してるわけじゃないんだよ。着替えが置いてなかったから。新しいシャツくれる?」
「うそ! やだっ、ごめんなさい」
風呂上がりを目撃した時以上の動揺っぷりである。エアロンは新しい着替えの一式を受け取り、バスルームに引き返した。と、アンがその後姿を呼び止める。
「あら? エアロン、背中に痣ができてる」
「え?」
エアロンは身を捩って背中を見下ろした。白い肌の上に薄く黒い痣がタオルに半分覆われる形で顔を出している。彼はそれを隠すように手で覆い、嫌そうに顔を背けた。
「あー、これ? これなら物心付いた時からあったと思うけど……」
「ああ、そういえばそんなこと言ってたわね。でもそれ、以前よりちょっと濃くなってるんじゃない?」
「そうかも。困るなぁ。僕の体は商売道具なんだぞ……」
「なに女の子みたいなこと言ってるの。あなたの商売道具はその胡散臭い営業スマイルでしょ。ほら、さっさと着替えてきてよ、もう」
メイドに背中を押され、エアロンはバスルームに追い出された。
服を着て出てくると、アンは既に洗濯籠を抱えて扉に手を掛けている。
「ねぇ? 僕の商売道具ってもう少し色々あると思わない? 端麗な容姿とか、類稀な頭脳とか」
「あのね、エアロン。メイドの朝は忙しいのよ」
エアロンは傷付いた顔をした。
「なんか今日は特に辛辣じゃない?」
「そんなことないわよ。朝食はどうする? 食堂に来る? それともどこかへ持っていきましょうか」
エアロンは濡れた前髪を掻き上げながら答えた。
「うーん……そうだね、執務室に。午前中は〈館〉にいるからさ」
「わかったわ。頭、ちゃんと乾かしてね」
「はいはい」
茶色いブーツが踵で扉を閉めるのを確認すると、エアロンはサイドテーブルからネクタイを取り上げた。上質なシルクのネクタイは血のような赤い色。慣れた手つきでタイを巻けば、滑らかな布地がひんやりと彼の指を撫でる。大きめの結び目を喉仏まで締め上げ、仕事着のカマーベストに手を掛けたところで、彼はふと目を上げた。
開け放った窓に映るのは、どんよりと重たい冬の空。風に吹かれた枯れ枝がカサカサと寂しい音を立てていた。
「やっぱり、まだ寒いな」
エアロンは厚手のカーディガンを羽織り、書類鞄を抱えて部屋を出た。
***
執務室での作業中、誰かが扉をノックした。書類の山にのたくるようなサインを綴る機械と化していたエアロンは、驚いて飛び上がった。
「誰?」
「俺」
不愛想な返事が扉越しに聞こえる。エアロンは舌打ちをしてペンを握り直した。
「入るぞ」
「いいよ」
この寒さでも軽装のグウィードは、彼の定位置であるソファに胡坐を掻いた。
「エアロン」
「まだ仕事中。あと十四分待って」
「……社長が呼んでる」
「……はいっ?」
エアロンがペンを落として振り返る。対するグウィードは眉間に皺を寄せ、困惑の表情で頷いていた。
茨野商会社長、サイモン・ノヴェル。滅多にエルブールに顔を出さないが、エアロンにとって
彼は歯を剥き出しにして苦々しい笑みを浮かべると、上目遣いに相棒を睨んだ。
「まさか。いつの間に戻って来てたんだ?」
「今着いたばかりだと思う。エントランスを通る時に呼び止められた。営業所に来いって――おめかしして、ランチの前に」
「はぁ? なんだそれ」
「そのまま伝えただけだ。俺も知らん。だが、社長もいつもより堅っ苦しいスーツを着てた。誰か重要な客でも来るんじゃないか?」
「僕は何も聞いてないけどな……まあいいや。ありがと」
エアロンは途中の書類をクリップで留めて机の端に積み上げた。立ち上がった上背を見上げ、グウィードが首を傾げる。
「お前、最近よく眠れてるか?」
「……なんで?」
エアロンは不機嫌な顔をする。瞬間的に悪夢の断片が首をもたげようとするも、彼の無意識がそれを許さなかった。
睡眠の質が悪いのは事実だ。だが、それを人に悟られるのは何か癪な気がした。
「いや、別に」
そんな彼の苛立ちを感じ取り、グウィードはすぐさま顔を背けた。
「あーあ。今日はお前と一緒にランチ行こうと思ってたのにな。無理かなぁ?」
「また明日だな」
「ちぇっ。グウィード、夕飯までに僕が解放されることを祈っといて。あの人のことだからきっと無理だと思うけど……」
「頑張れよ」
「はいはい」
書類鞄を拾い上げ、背中を向けたまま手を振った。相棒がそれに応えるよう一言「おう」と呟く。退出際にエアロンは、グウィードがソファーに倒れ込む鈍い音を聞いた。
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