第4章「曇天の街」

 4-1 悪夢

 商船〈アヒブドゥニア〉号の甲板で、彼は暗い空を見上げていた。

 奇妙な夜だ。星一つない。

 夜?

 違う。だってあれは、あの雲の隙間に覗いているのは――太陽だ。


 舳先に男が立っていた。

 アシンメトリーな髪型。重苦しい外套。真っ直ぐに背筋を伸ばしたその後姿は、もちろん彼もよく知っている、あの人だ。それなのにそうとすぐに気付けないのは、やはりこの世界に色が無いから。

 そうだ、何かがおかしいと思ったら。

 色が無いのだ、この世界は。

 すべてが重たい灰の色――彼の瞳と同じ、鉛色。


 船長。

 呼びかけようと一歩踏み出すも、声が上手く出てこない。

 男が振り返る。悲しげな瞳を一度瞬かせて。



 男は、墜ちた。



 ――違う、違う、違う。

 ぐるりと世界が回ったのは、あれが夢だったからだ。


 今、彼は〈アヒブドゥニア〉号の船室で白い天井を見上げている。

 視界が回る。腹の中がひっくり返って、掻き混ぜられた内臓が正しい位置に収まらないような、そんな不快感。エアロンはベッドから身を起こし、汗で貼り付いたシャツのボタンを外した。


 特別な任務で〈アヒブドゥニア〉号に乗船してから、じわりじわりと悪夢の頻度が増えている。何もかもこの船酔いのせいだろう。絶えず波に揺られ、階下で響くモーターの音。どんなに寝ても寝た気にならないし、疲労は増していくばかり。

 そろそろ硬い地面に足を着けたい。エアロンは吐き気を堪えて船室を出た。


 ふと夢の内容が気になって、エアロンは船長室に向かい――そこで、足を止めた。

 まるで彼の訪問を予期していたかのように、船長室の扉が開いている。

 それなのに。

 照明が、点いていない。


「船長?」


 部屋に足を踏み入れ、暗闇に囁く。

 その沈黙は、彼が一足遅かったことを物語っていた。

 耳が物音を聞きつけるより早く、澄んだ空気の中で鼻が臭いを嗅ぎ分けていた。これはよく知っている――血の臭いだ。


 エアロンはコートの前を払い、隠し持っていたハンドガンを取り出した。満足に視界の利かない闇の中、深く息を吸って呼吸を整え、聴覚に全神経を集中させる。そして、船室へと身を躍らせた。


「エア……ロン……?」

「船長!」


 階段の下に見慣れた藍色の髪の男が這い蹲っていた。口の端から血を流し、片手は腹を押さえている。

 その指先から覗くのは。

 精巧な装飾を施されたナイフの柄。


 エアロンは傍に駆け寄り、血溜まりの中に膝をついた。もう体は言うことを聞かないにも関わらず、船長は這い進もうと腕を伸ばし続ける。ナイフの柄から新たに血が滴った。

 船長が何か伝えようと口を開くが、言葉は血の泡となり溢れ出すばかりで、ゴボゴボと耳障りな音を立てることしかできない。エアロンはその手を包み込み、懸命に死にゆく男に話しかけた。


「しっ。喋っちゃだめだ。今医者を呼ぶから、もう少しだけ頑張って」


 そう話しかける間にも、海色の青い瞳からは見る見る光が失われていく。エアロンはナイフの柄に手を掛けた。


「違う! 違う、違う!」


 違うんだ。彼じゃない。


「ここで死ぬのは、あんたじゃない。あんたじゃないんだ……ここで、この場所で死んでしまうのは――」


 青の奥の瞳孔が筋の様に細くなる。


「その通り」


 血で塗れた両手が、青年の手ごと柄を包む。突然の行動にエアロンが身を捩るが、男は強い力で放さなかった。そのままナイフを更に深く突き立てて。肉を貫く、鈍い手触り。


「『ここ』で死んだのは『私』ではない。だが、エアロン――お前が、殺したのだ」


 急激な水の音が、彼の鼓膜を覆った。


 それはもう、よく知っているあの男の姿ではなくなっていた。

 ほっそりとした白い腕が腰に回される。

 青紫色の瞳が、笑った。


「そうよ。『ここ』で死ぬのは『あたし』。あたしは死ぬ。濁流に呑まれて死ぬ。あなたが殺したのよ、エアロン。あなたのせいであたしは死ぬの」


 あなたのせいで。

 僕のせいで。


 ――メルジューヌが、死んだ。


 蛇のように絡み付く脚。こちらを見上げる両眼もまた、罪へと誘う蛇の瞳孔、そのものだ。

 逃れたいのに逃れられない。身を捩ることすら、その手を振り払うことすら。


「さようなら、エアロン」


 世界がぐるりと一回転し。

 


 そして、エアロンは深い闇に堕ちた。



***


 春はまだ遠い。

 山麓の町、エルブールは未だ冬の重たい凍雲を引き摺っていた。エルブールの冬は平野部よりも長く続くけれども、連峰に囲まれているためか降雪は多くない。雲が晴れさえすれば四方に聳える銀峰を望むことができるが、それは余程運がよくなければ難しいだろう。

 その曇天の空の下、茨野商会の本社兼社員寮〈館〉にも朝が訪れる。


〈館〉はメイドの起床によって目を覚ます。彼女たちはまだ薄暗い内にメイド服に袖を通し、館内のカーテンをすべて開けることから仕事を始める。それでも薄暗い西翼の階段に灯りを、談話室と大食堂の暖炉に火を点す。その頃になって漸くボイラー係が目を覚まし、セントラルヒーティングが機能し始めるのだ。

 続いてメイドたちは朝食の支度に取り掛かる。

 吹き抜けになった大食堂は、バルコニーから直接螺旋階段で下りることもでき、薄暗い〈館〉の中でも唯一光に満ちた空間である。社員たちの憩いの場であるその場所は、メイドや料理人たちにとって日に三度戦場と化す。厨房からパンを焼き上げる香ばしい匂いが漂い始めると、館内から続々と社員たちが現れるのだ。


 今、その大食堂の片隅で、黒尽くめの青年が一人で朝食を取っていた。目の前の籠は様々な種類のパンで溢れ返っている。中でも焼き立てのバゲットは職人たちの自慢の一品であり、切り分ける時の豪快な音と豊かな小麦の香りで食欲をそそる。そこにバターをたっぷりと塗り付け、モン・ドールチーズを山と乗せるのが彼の好む食べ方であった。

 グウィードは口の端に垂れたチーズを親指で拭うと、グラスに並々と注がれたオレンジジュースを飲み干した。それから空になった取り皿を手に席を立ち、メイドが控えるワゴンに向かう。


「おはよう、グウィード。今日も朝からよく食べるわねぇ」


 そう話し掛けるのはメイドのマチルダだ。任務によっては長期出張にも駆り出される彼女だが、普段はメイドとして従事している。マチルダは愛嬌のある笑みで炒り卵の大皿を彼の前に置いた。


「おかわり何回目?」

「三回目」

「そのくらいにしておいたら? 体が重くなって動けなくなっちゃうわよ」

「別にいい。食える時に食っておかないとな」

「いつだって食べられるじゃない」


 アツアツの卵と切り落としのハムを取り分ける。その皿に湯気の立つ白ソーセージを盛り付けながら、マチルダが言った。


「好き嫌いはよくないわ」

「嫌いじゃない。剥くのが面倒くさいだけだ」

「そう言ってみんな食べないんだもの。ヴァイスヴルストは足が早いのよ。消費に協力してちょうだい」


 結局タンパク質ばかり盛り付けられた皿を手に、グウィードは席に戻る。

 珈琲の香りが彼を待っていた。空席だったはずの彼の向かいに、赤い上司が腰掛けていたのだ。


「おはよう、グウィード」

「主任」


 十六年前の大災害を機に、欧州では日本人をめっきり見掛けなくなった。否、世界中で、と言っても差し支えないだろう。当然ながら、茨野商会においても椿姫つばき主任は唯一の日本人だった。


 コシのある黒髪が尖った輪郭に沿い、隙間から覗く真珠の耳飾りが光を添える。黒い眼光には、完璧に施された化粧により睫毛の重たい影が掛かっている。そして、唇に挿した紅。その色は彼女のトレードマークでもある、椿のような赤色だ。

 他の女性に比べても一際小柄なその体をショールで包み、椿姫は柔らかく微笑んだ。


「珈琲は?」

「ああ」


 椿姫が珈琲を注いでやる。グウィードはそれに一口だけ口を付けると、再び山盛りの朝食を消化する作業に戻った。


「あんたよく食べるねぇ……本当にそれ全部食べるのかい?」

「よそったからには食べる」

「これ、一つ貰ってもいいかい?」


 グウィードが頷くと彼女は籠からクロワッサンを一つ取った。

 暫くの間、椿姫は黙ってグウィードが朝食を平らげる様を眺めていた。途中でメイドが卵や野菜を勧めに来るも、食欲がないのか全て断っている。

 長い時間を掛けてすべての料理を胃袋に収めて漸くグウィードは顔を上げた。


「……俺になんか用か?」


 うねる黒髪の下で琥珀色の瞳が怪訝そうに瞬く。椿姫は手を挙げてメイドを呼んだ。


「ご用でしょうか?」

「コーヒーのお替りを。グウィード、あんたは?」

「おう」


 メイドがコーヒーを淹れ直す。


「ミルクとお砂糖はいりますか?」

「あたしはいい。グウィード――」

「俺もいらない」


 メイドの後姿を見送って、主任が驚いたように目を開いた。


「おや。あんたはいつも大量にミルクを入れるんだと思っていたけど。ブラックも飲めるのかい?」

「あれは俺のじゃない。エアロンのだ。あいつ、なんでもミルクを大量に入れないと飲まないから。だから、いつも余分にミルクを持っていく」

「ふぅん。手が掛かるね、本当に」


 エアロンの名前が出た途端に椿姫が僅かに眉を顰める。それをグウィードは見逃さなかった。


「エアロンが、どうかしたのか?」

「ああ……ちょっとエアロンのことで気懸りがあってね」


 主任はカップに口を付け、思案気に呟く。


「最近の彼の様子はどうだい?」

「どう、って?」

「――あの事件から半年以上経ったんだね」


 ああ、とグウィードが唸る。


『あの事件』とは忘れもしない。この町で四人の被害者を出した殺人事件。リンデマン一家殺害の第一発見者であったエアロンは、メルジューヌ・リジュニャンと名乗る真犯人と接触し、そして――……。


 メルジューヌ。


 高貴さと妖艶さを湛えたその名前をもう久しく口にしていない。その名が禁句であることは、彼らの中で暗黙の了解となっていた。


「完全に吹っ切れたようには見えるけどな。夏の長期出張以来、そんなに思い詰めているようなことはないし、普通に仕事してるだろ?」

「まぁね」


 椿姫つばきは顔を顰めたままだ。


「実は、アンが『エアロンが毎晩うなされているみたいだ』と言ってきて。そんなことあたしに言われてもどうしようもないんだが……それで仕事に支障を来すようなら、医者に見せるなりなんなり策を講じないと、と思ってね。でも、あんたの目から見てもなんともなさそうに見えるなら、まあ大丈夫なんだろう」


 グウィードは深い溜息を吐いた。


「あいつ、俺にもそう簡単に胸の内を打ち明けたりはしないからな。一応注意して見てみるよ。それで何かあれば報告するんでいいか?」

「ああ。あんたに話さないくらいなら、上司であるあたしには猶更何も言ってこないだろうからね」


 椿姫が立ち上がる。


「頼んだよ。じゃあね」


 赤いマニキュアがきらりと光り。

 赤いスーツの女上司は去って行った。

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