3-17 ローマは雨が降っていた

 ローマは雨が降っていた。

 濃紺制服の衛兵が傘を広げるのを車窓に見ながら、神官セメイルは囁いた。


「タウォード、今回の件はなかったことにしましょう」


 タウォード・スベルディスが振り返る。


「上に報告しないつもりか?」

「いいえ。ただ、彼らが〈浄化〉の秘密を知ったことだけを伏せておきたいのです。騒動自体は既に耳に入っているでしょうから」


 タウォードはじっと神官の横顔を見た。セメイルはそれ以上何も言わず、差し出された傘の下に降りて行った。


***


 他の宗教文化の御多分に洩れず、ヴァチカン教会もまた、主なる絶対存在を光として表していた。突き抜ける空間を彩るステンドグラス。陽の傾きと共に映し出す方角を変え、描かれた物語をモザイクの床に投射する。色が降り注ぐ中、信徒は日差しに目を細め、微かな温もりと共に主の存在を感じるのだ。


 だが、白の礼拝堂はそうではなかった。


 ヴァチカン領の奥深く、一般信徒は近付くことすら許されない禁断の地に、その祈りの場はあった。聖人画が覆う壁。暗い色調の祭壇。唯一の光源は天井付近に点在する小さな硝子窓のみ。『白の礼拝堂』という呼称には相応しくないほど、そこは陰鬱な空間だった。


 カツリ、カツリと。神官は大理石の階段を上り、礼拝堂の扉を押し開けた。彼を迎える聖人たちにほうと畏怖の溜息を漏らす。広い聖堂に一人立ち尽くせば、それはまるで裁判に掛けられた被告人のように。抱えた罪も隠し事もすべて見透かされている――そんな気持ちにさせられる。

 神官セメイルは僧衣を引き摺って祭壇に進み、玉座に埋もれた老人の前に跪いた。


「教皇聖下」


 擦れた吐息と布擦れの音。

 祭壇に背を向けて腰を据えた教皇ベルナルドゥス四世が、色の抜けた眉の下から濁った瞳を覗かせた。痩せこけた体は金刺繍の法衣に溺れているようにも見え、紅いケープの色味すら、老いという宿命の下にくすんでしまっているようだった。ベルナルドゥスは死んだ皮膚が粉を吹いた腕を上げ、彼の神官を手招きした。


「セメイルよ、ここへ……顔を見せておくれ」


 しわがれた声に誘われ、神官は大人しく玉座の下へすり寄った。節くれ立った老人の手を優しく包めば、色の無い神官の手はなんと滑らかで、そして生に満ち溢れていることか。手の中で蠢く萎えた筋肉と血管の脈を不快に感じながら、セメイルはそれを自分の頬に当てた。


「わたくしはここにおります、聖下」


 親指が睫毛をなぞり、鼻筋を伝って唇へ。儚いほどに完成されたその造形を焦がれるように指で描いた。セメイルは浅い呼吸でそれに応え、老いた指が顎を持ち上げたなら、為されるがままそれに従った。


「セメイル、我が子よ……お前は本当に主に愛された人間だ」

「いいえ、聖下。わたくしは御寵愛を賜るような人間ではありません」

「そう己を卑下するものではない。でなければなぜ、お前にこのような役割を課したと思うのか。主は我らを主の似姿で創りたもうた。しかし、お前は天使の似姿で創られたのだ」


 神官セメイルは項垂れた。


「わたくしにはもう耐えられません……」


 彼は老いた教皇に縋った。


「我らの父よ、どうかお答えください。わたくしは義しいことをしているのでしょうか? 本当は主の教えに叛くようなことをしているのではないでしょうか?」


 老人の指がぴくりと反応する。それから慈しむように色の無い髪を撫でた。


「なんてことを、セメイル。お前は選ばれた使徒なのだ。己が間違っていると思うなら、見よ、広場の群衆を」


 教皇が手を差し伸べる。分厚い壁の向こうには確かに信徒たちの祈りがあるのだ。


「信徒たちは皆お前の奇蹟を信じ、お前に平安を見出している。それが義でないとすれば何とする。疑念こそ罪だと身に刻み付けよ」


 しかし、セメイルは頷くことができなかった。


「聖下、わたくしは……」


 尚も食い下がる神官を遮り、背後で高らかな足音が響いた。振り返ると男が二人立っていた。

 一人はタウォード・スベルディスだ。もう一人はスイス・ガーズのものではない、黒い軍服を着ている。近頃ヴァチカンによく出入りしている、素性の分からない余所者だ。


「参上しました、教皇聖下」

「うむ……セメイルよ、私はこの者たちと話がある。もう下がってよい。主のもとに祈り、正しき道に導かれんことを」


 神官セメイルが立ち上がる。直立不動の兵隊たちには目もくれずに彼は大聖堂から出て行った。


 閉ざされた扉を確認し、濁った瞳に光が差した。


「あぁ、憐れな」


 ベルナルドゥスは神官に触れた指を唇へ当てがった。


「疑いとは身の終焉である……さらばだ、我が神官よ。あれはもう使い物にならぬ」

「妥当な頃合いでしょう。セメイル様のお体ももう限界が近付いております」


 軍服の男が相槌を打つ。

 タウォードは何も答えず、教皇が身を起こす様を見つめていた。老人が背筋を伸ばし、黄ばんだ歯を見せて笑うのを。


「任務を与えよう、スベルディス隊長」


 その場所は白の大聖堂。

 ――光の届かない、陰鬱な場所。 

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