3-14 使者を弔う聖母のお膝下
先に仕掛けたのはグウィードだった。
持ち前の瞬発力を活かし、ブーツで勢いよく地面を蹴る。対する神官は微動だにせず迎え撃ち――黒い拳が頬を殴ろうとした、その瞬間。グンッと世界が一回転し、グウィードは人骨の壁に叩き付けられていた。衝撃で息を詰まらせる彼の上に、崩れ落ちた頭蓋骨が降り注ぐ。
「そんな正面から向かってこなくても……」
ぽつりと呟いたセメイルをグウィードが咳き込みながら睨み付ける。
「今のは、柔術か」
「聖人の嗜みです」
「伊達に非道なことやってないってことだな」
「まあ、そういうことです」
グウィードは神官を破るヒントを探して地下墓所内を見回した。
長方形の部屋の中、二本の柱の間に立つ神官。彼の足元にはランタンが置かれ、接近戦に持ち込みたいであろう神官は、恐らくその光の円の中から出ない。輝かんばかりの白い僧衣が人骨の壁を背に浮かび上がっていた。
「一つ聞かせろ、神官」
「なんでしょうか」
全身に浴びた骨粉を叩き落し、グウィードが立ち上がる。煤けた黒髪の間から狼の瞳が覗いた。
「マッシモはどうした」
「……マッシモ?」
神官が首を傾げる。
「わからないのか」
「はい。どなたでしょう?」
「マッシモはな、マッシモ・ベントラムは……」
足元に転がった頭蓋骨を――名も無き死者の残骸を掴む。投げ付けられたそれを神官が避けると同時に、黒い影が弾丸のように飛び出してきた。
「お前が『裁き』を下そうとしていた人間だよ!」
カァンと金属が叩き付けられる音。ランタンが割れる。
闇が腰を下ろした。
「っ!」
視界を失った神官が身を翻す。
敵はすぐ近くにいる。それは感じられるのに、全身黒尽くめの〈狼〉は暗闇に紛れ、完全に姿を消していた。
闇雲に差し出された白い右手。黒い大きな手がそれを捉えた。
「あ……っ!」
右手を背後に捻り上げられてセメイルが膝をつく。ごわついた癖毛が頬を擦る。吊り上ったアンバーの瞳が、すぐ真横にあった。
「もう一度聞く。マッシモはどうした」
「あの方……ですか」
神官は、笑った。喉に当てられたナイフが肌を傷付けるのも構わず、彼は大きく声を上げて笑った。グウィードはギョッとする。
「な、なん……」
「もう手遅れです、グウィードさん。あの方はもうこの世にはいない」
「何?」
「あなた方が無線機でお喋りに興じている間に、マッシモさんの裁きは執行されました。今広場にいるのは彼ではない。我々が用意した役者さんです。残念でしたね、グウィードさん」
神官の乾いた声が墓地に響く。その笑いを止めさせたくて。グウィードはカッと目を見開くと、怒りに任せてナイフを一層強く押し付けた。
「嘘だ」
「本当ですよ。彼は今頃――そう、車の荷台に押し込めてあります。昨晩私が〈浄化〉した、罪なき女性と一緒にね。大丈夫、亡くなったわけではありませんから」
「この……!」
切っ先が食い込む。白い首に赤い筋が伝った。
痛みが、罵声が、聖人に快楽を呼び覚ます。神官セメイルはにっこりと微笑み、空いた左手でグウィードの頭を掴んだ。
「すみませんが、その手を退けていただけませんか? 〈浄化〉は左手だけでも使えるのですよ。今、私がこの能力を解放すれば、あなたの脳細胞は死にます。あなたという人格も死にます。マッシモさんのようにね」
「……っ」
恐怖が走る。しかし、グウィードはその手を離さなかった。
長く吐き出した吐息が怒りを押し殺した。
「悪いな。それはできない」
「え……?」
神官は意外な回答に目を見開いた。
「やりたきゃやれよ。だけど、俺はこの手を離さない。絶対にだ。お前がこれ以上罪を犯さないよう、一緒に地獄まで連れてってやる」
ナイフの柄を握り直し。
グウィードは一層強く押し付けた。
「……そうですか」
神官が俯く。白髪が顔に掛り、黒と混じった。
罪を犯せと怒鳴る友と。
罪を犯すなと命を捨てる敵対者と。
主よ。
私はどちらの声に従えばいいのでしょう?
「……い」
「あ?」
「グローブを、取ってください」
「えっ」
「取らないんですか? 取れば私を無力化できますよ。私の武器はそれくらいですから」
セメイルは囁くように言うと、左手を離してだらりと垂らした。グウィードが躊躇いがちにその手を掴む。彼は抵抗しなかった。黙ってグローブを外され、大人しく地面に座り込む。グウィードは回収したグローブを地面に置いてナイフを突き立てた。柘榴色のコアが砕ける。
「どうして急に降参する気になったんだ?」
神官は答えなかった。
「グウィードさん、あなたはあの石棺が見えますか? 私には薄ぼんやりと光っているように見えるのですが」
代わりに彼は暗闇の中から声だけで言った。
彼の言う通り、石棺がぼんやりと浮かび上がっていた。正しくは、石棺の上の壁が。唯一人骨で覆われることを免れた石碑が、奇妙な孤を描く光を放っている。グウィードは恐る恐る近寄っていくと、その光に指を走らせた。
「何か塗ってあるな」
「三日月……」
「え?」
「その塗料の形ですよ。ああ、わかったような気がします。好好さんのヒントの意味が」
いまいちピンとこないグウィードは、怪訝そうな顔で碑文の凹凸をなぞった。ラテン語で記された文面は彼には憶測でしか読めないが、この墓地に眠る死者への弔いの言葉だということはわかる。
「……弔い、か」
「あなたはご存知ないかもしれませんが、三日月は古くから『聖母』のシンボルなんですよ」
死者を弔う聖母のお膝下――グウィードはセメイルの言葉に導かれるまま重い石棺の蓋を押した。鈍い音を立てて蓋が動く。辛うじて開いた隙間から手を差し込むと、乾いた何かが手に触れる。それはどうやら大振りの封筒のようで。ついに探し物を発見した。
「ありましたか?」
「あ、ああ」
「それはよかった。では、あなたはそれを持って私の目の届かない所へ消えてください。そうですね……この先の通路を真っ直ぐ行けばいいでしょう。私の灯した蝋燭を目印に角を曲がってください。そのまま修道院へ抜けられます」
グウィードが暗闇を振り返る。神官が立ち上がって裾を払っていた。
「俺を見逃すのか?」
「ええ、まあ。私はもう武装解除されてしまいましたからね。追い掛けたってどうせ逃げられてしまうでしょう」
「信じられないな」
「信じなくても結構。ですが、あなたは早くご友人のもとへ駆け付けた方がいいのでは? 彼らの脱走を見越して修道院にはうちの部隊長が控えています。彼は私とは違います。『神官』の秘密を知った人間をみすみす逃がすような、甘い男ではありませんよ」
グウィードは目を凝らして神官を見た。その姿は深淵に滲み、気のせいか微かに揺らいでいる。
彼は封筒を小脇に抱えると、神官の脇をすり抜けて闇に消えた。
石壁の彼方から祭りの喧騒が聞こえる。
独り、地下墓所に佇む青年には無縁な世界。
生きる辛さにも、己の罪深さにも目を背けた世界は、『神官』という偶像を崇め、さも楽しそうに歌い踊るのだ。
だが彼には――色を失った惨めな青年には――目を背けることなどもはや不可能だった。
ひんやりとした空気がカソックを這い上がる。
セメイルは変色した両手に顔を埋めた。
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