3-12 穴を掘る
教会の鐘が正午を告げる。
〈浄化〉を実演するに先立ち、神官による演説が行われることになっている。
広場に設置された簡易ステージは〈浄化〉の舞台に相応しく、白い生花と豪奢な垂れ幕による装飾が施されていた。ステージの前では教会学校の子供たちが一列に並び、今日のために練習してきた讃美歌を一生懸命歌い上げる。間もなくその歌声に導かれて白の神官が姿を現すだろう。待機する人々に向かって声を張り上げていた物売りも、この時ばかりは声を潜めた。
中央広場の騒ぎなど蚊帳の外で、町外れの教会周辺はしんと静まり返っていた。その聖堂の中、グウィードは長椅子に腰掛けたまま途方に暮れている。
もう半時間はこうしているだろうか。灯された蝋燭の数は昨日より少なく、洞窟のように暗く冷えた空気で満たされている。にも拘らず、彼の手の平は焦りによる冷や汗でじっとりと濡れていた。
「ったく、わかるわけないだろ……」
側廊の小礼拝堂を一つ一つ覗いてみたが、これといって気になる物は見つからなかった。祭壇付近を念入りに調べても何もない。告解室も空だった。
「好好のヒント、なんだっけ……『死者を弔う聖母のお膝下』? 聖母なんてどこにいるんだよ」
そもそもグウィードはヴァチカン教の教義に疎く、聖母というのが何者かもよく知らなかった。一応姿だけは何となく見分けられる。かつて孤児院のシスターが「すべての信徒の母だ」と言っていたが、母と呼ぶには躊躇われるような、可憐な乙女の姿をしているのだ。
そういえば、好好の家には聖母像が飾ってあった。
「もしかして、どこかに同じ物があるのか?」
しかし、この聖堂内に聖母像らしきものはない。
グウィードは側廊から続く次の間へ入った。ここは事務室として使われているらしく、年代物の家具の中には文房具や掃除道具が無造作に詰められている。ここにも暖炉はあったが、聖母像はない。
ふと、この部屋にはきちんとした窓があることに気が付いた。重たいカーテンが引かれているが、そこから細く光が差し込んでいる。グウィードはそのカーテンを開けてみた。
小さな裏庭があった。
墓だろうか、古い石碑がいくつかある。その隣にはどこかで見たような小人像が置かれていた。地面は最近掘り返されたのか、明るい色をした土が剥き出しになっている。
『もう一つのヒントは既にお伝えしてありますよ?』
脳内で再生される
彼と会ってから交わした昨日の午後の会話が、走馬灯のように蘇る。
『私、最初から〈狼〉さんに取りに行ってもらうつもりでしたし、そう述べたはずですもん』
好好が俺に述べたこと?
エアロンではなく、グウィードにやらせようとしたこと――。
突然、答えが閃いた。
そして、体の底から絞り出すような溜息を漏らす。
「まさか……」
悪趣味な小人が彼を嘲笑っていた。
『グウィードには滞在中に一回は土に触れてもらいますからね』
――ガーデニング。
途端に緊張の糸が切れ、どっと疲れが襲ってきた。思わずその場にへたり込み、両膝に腕を乗せて頭を垂れる。
「好好のやつ、わかりにくいヒントだしやがって……」
だが、考えてみれば、『死者を弔う』というヒントにも当てはまる。
死者を葬るのは土の中だ。もしかすると、そこに埋められているのかもしれない。
グウィードは重い腰を上げ、裏口を探して庭へ出た。隅に錆びたシャベルが放置してある。それを持ってくると、不自然に新しい土の箇所を掘り始めた。
遠くで響く讃美歌が、単調な作業を繰り返す彼を外界から隔離した。それ程長い時間ではなかったと思う。それでも、突き立て、体重を掛け、土を傍らに放り投げるという作業の繰り返しは、彼をじわりじわりと追い詰めた。
穴を掘る。
穴。
死者のための、穴。
あの時も、彼は穴を掘っていたのだ。
***
孤児院が全焼したのは本当に不運な事故だった。少なくとも、地元の新聞ではそう報じられた。
各国が終戦に合意しつつある最中のことだった。帰還のため航行中の飛行機が、電磁波災害によって墜落したのだ。不運に不運は重なるもので、それは沢山の弾薬を積んでいた。その結果、墜落現場一帯は火の海と化した。グウィードが暮らしていた孤児院もその中にあった。まさに〈天の火〉に焼かれたのである。
どうして自分だけが生き残ったのか、わからなかった。
ちょうど最年少の子供が熱を出し、シスターの代わりに街まで薬を買いに行っていたのだ。戻って来たら、彼の家も家族も失くなっていた。
まただ。
また、自分だけ生き残ってしまった。
幼いグウィードはそう悔やむ。
本当の家族を戦争で失い、修道院でできた新しい家族もまた失った。その絶望は彼から生きることへの意欲を奪い去っていった。
しかし、焼け焦げた子供たちの遺体を見た時、彼は自分が生き残った意味を悟った。
墓を掘らなければ。
自分がやらなければ、誰も彼らを弔ってやる者はいないのだ。
彼は掘った。
何日も何日も、焼けた地面を掘り続けた。
食事も水も欲さなかった。彼はただ、墓を掘り続けるためだけに生き続けていたからだ。
女神が彼を見出したのは、その時だった。
差し伸べられた白い手を。彼に微笑む翡翠の瞳を忘れない。
彼女は一緒に墓を掘り、そして、彼に新しい居場所をくれたのだった。
***
カツン、と小さな音がして、グウィードは手を止めた。石棺が現れた。否、石棺に見えるが、これは扉だ。よく見れば取っ手が付いている。
「地下があったのか……」
扉を開ける。土の匂いが広がった。
地下への階段は予想に反して長かった。かなり深くまで下りて行く。灯りが必要だったと気付いた時には、もう目が慣れ始めていた。完全なる闇。それでも、常人より遥かに夜目の効くグウィードは、辛うじて迫りくる壁の凹凸と前方の通路の存在を捉えていた。
地下通路は地上よりも心なしか温かい。空気は冬のそれではなく、一年中同じ温度を保っているのだろう。どこかでピチャンと水が滴る音がして、小動物が走る足音も聞こえた。
この道はどこへ続くのだろう。そして、埃と黴に紛れたこの臭いは――……。
ふいに何かの気配を感じ、グウィードは立ち止まった。
閃光が瞬いた。咄嗟に顔を庇う。
「お待ちしておりましたよ、〈狼〉さん」
澄んだ声が辺りに響く。
彼らは開けた空間にいた。テニスコート程の広さの中に二本の太い柱が建つ。その間、グウィードの行く手を遮るようにして、白の神官が立っていた。
「なっ……神官……?」
体を横に向けたまま、色の無い髪から視線だけこちらに寄越し、神官が微笑む。その笑みは土で汚れた〈狼〉の姿とはあまりに対照的で。本当にこことは違う世界から降り立ったような、神秘的な美しさを湛えていた。
「私のこと、ご存知なんですね。光栄です」
神官セメイルはランタンを床に置き、グウィードに向き直った
そこで初めて、グウィードはこの場所が何なのか、そして
ここはカタコンベ――地下墓所。
土色の壁。妙な凹凸のある壁。その一つ一つ、床から天井に至るまでのすべてが、人間の頭蓋骨で覆われていた。見渡す限りの骨、骨、骨。頭蓋骨の隙間は小さな人骨で埋められ、朽ち果てて塵となった骨粉が床に積もって山を為す。部屋の一辺には壁画と石棺が、十字架を模した大腿骨の装飾によって縁取られていた。
そうか、あの臭いは。
澄んだ冷気に感じた息苦しさは、死の臭いだ。
「なんで……なんでお前がここにいるんだ? 神官は今頃――」
「広場で説教を行っている、そうお思いでしたか?」
にっこり微笑む神官は、どことなく楽しそうに見えた。
「ご安心ください。『神官』はちゃんと広場にいますよ。同胞たちと愛すべき野次馬の皆さんに向かって、有難い主の御言葉を告げています」
「そんな馬鹿な! だって、お前はここに――」
「いいえ。私は『神官』ではありません。私は薄汚い偽善者ですよ」
赤い唇を引き結ぶ。その笑みは心から出るものではない。商売のために、身を守るために、身に付けた聖人の笑みだった。
「迂闊でしたね、〈狼〉さん。あの無線が盗聴されていないとでも?」
セメイルが右手を掲げる。白いグローブの甲で赤い宝石が輝いた。
「俺を待ち伏せしてたのか」
グウィードが唸る。
「はい。幸いにして、私も昔この街に住んでいたことがありましてね。
セメイルはぐるりと広間を見回した。
「ですが、好好さんが隠した資料とやら――肝心の物がまだ見つけられていないのです。あなたからその答えが聞けるかと期待していたのですが……」
「残念だったな。俺も知らない」
グウィードが唸る。
「そのようですね。これは困ったことになりました。どうでしょう? 一緒に謎解きをしませんか?」
琥珀と柘榴がぶつかった。
憎悪を示すアンバーの瞳に、迎え撃つはガーネット。
「断る」
「そうですか」
二人は睨み合ったまま、互いの出方を窺って身構えた。
「ねぇ、〈狼〉さん」
セメイルが祈るように指を組む。
「大人しく捕まっていただけませんか? 私の力のことはもう聞いておいででしょう。私もできればこれを使いたくないのです」
「はっ。捕まるべきはお前だろ。奇蹟だなんだと偽って、聖職者が聞いて呆れるな」
グウィードが挑戦的に睨み付ける。セメイルは僅かに動揺する素振りを見せた。
「お前が〈浄化〉してきた大勢の人間の中に、冤罪だったのは何人いた? 処刑されるに至らない軽い罪の人間は何人いた?」
「それは……」
「どうせ罪状だけ聞かされて、時には教会にとって都合が悪いというだけで、大勢の人間を犠牲にしてきたんだろ。お前はその一人一人をちゃんと知っているのか? 罪を犯した状況を、理由を、その人間のすべてを知ったうえで下した裁きなのか?」
半ば怒りに任せて、グウィードは怒鳴った。
「本当は何も知らないんだろ! 世の中にはお前みたいに恵まれた人間ばかりじゃないんだよ! 貧しい奴もいる。追い詰められた奴もいる。好きで罪を犯したわけじゃない奴だって沢山いるんだ! 生きるために止むを得なかった奴だって、沢山――」
「……そう」
神官は苦痛に顔を歪めた。真っ直ぐにグウィードを見つめて、笑う。
「グウィードさん、といいましたか。あなたは今ご自身で答えをおっしゃいましたよ」
その微笑は悲しみを宿し。
この上なく、美しい。
「生きるために止むを得ず――他に手段がなく、食べていくために違法行為を生業とする者もいるでしょう。それと同じですよ、私も。
今までに裁いてきた誰よりも重いこの罪。
真に裁かれるべき人間は自分だってことも、本当はわかっている。
それでも、やらなければならないから。
「グウィードさん。私はあなたを止めなければなりません。あなたを阻止し、証拠品を没収し、あなた方を罪人として裁かなければなりません。けれど、きっとあなたは抵抗するでしょう? どうぞかかってきてください」
差し伸べられた白い指が、二、三度誘うように折れ曲がり。
交戦開始の合図だった。
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