3-10 グウィードは途方に暮れる
「おいおい……」
修道院の外壁に立ち、眼下の暗闇に目を凝らしていたグウィードは、連行される相棒の姿を辛うじてその瞳に捉えていた。
まさかエアロンが捕まるなんて。
「あの馬鹿」
脳内の相棒が「馬鹿はどっちだ」と口を尖らせる。
***
「参ったな」
グウィードは
浅黒い体を小さく丸め、狭い肘掛椅子の上で縮こまる。屈強な体は見かけの割に柔軟だ。膝を抱えた腕に耳を押し当てる。しんとした室内で血管が脈打つ音を聞いていた。
犬がやって来て、彼の前に座った。茶色い瞳で彼を見据える。
「なんだよ」
犬は背筋を伸ばしたまま身動きしない。
「助け出すったって、方法が浮かばないんだ。一人でできる作戦なんてたかが知れてるんだよ」
グウィードは絶望的な眼差しで犬を見返す。その心の内を見透かすように、犬はフンと鼻を鳴らした。溜息にも似たその鼻息は明らかにグウィードを馬鹿にしている。
「……お前は主人が捕まったってのに薄情なもんだな。心配にならないのか?」
犬は再度鼻を鳴らす。
人間のことだろう。人間がなんとかしろ。
「そんな目で俺を見るなよ」
犬は箒のような尾で一度だけ地面を叩き、音も無く歩み去った。グウィードが頬杖を突く。
「可愛くない犬だな……」
好好を無事に助け出したら、あの犬を飼い始めた経緯を聞こうと心に決めた。
再び肉体の音に全神経を集中させる。彼の相棒がよくやっているように。呼吸を落ち着かせ、深く。心に沁み込む焦燥を締め出して。考えろ。考えるんだ――。
刹那、常人より鋭いその耳が、遠く微かな足音を捉えた。グウィードが顔を上げると同時に、犬が暖炉の前で立ち上がった。
誰か来る。
数は四人くらいか。石畳を踏みしめる足音の重さは、間違いなく近衛歩兵だろう。
「ヴァチカンか……!」
どこかに身を隠そうと、グウィードが室内に視線を走らせる。
スーツ姿のスイス・ガーズたちは好好から鍵を回収しているらしく、すんなりと家に入ってきた。犬はいつの間にか玄関に行っており、武装した侵入者たちに果敢に吠え立てた。
衛兵が言う。
「おい、犬だ」
「犬なんか構うな。まずは一階から探索しよう。共犯者が潜んでいるかもしれないから気を付けろ」
「構うなったって、この大きさは――」
足音が近付く。素早く部屋の奥に下がり、玄関の様子を窺った。
「お前は居間から右回りに、俺は左から……」
犬の声が一際大きくなった。
「しっしっ。あっちに行きやがれ」
「……なあ、この犬、階段の前から動こうとしないぞ。二階に誰かいるんじゃないか?」
「何? じゃあ二階を重点的に探せ。とりあえず――」
犬が唸る声がする。
この隙しかない。
グウィードは心の中で犬に感謝を述べ、台所の裏口から外へ出た。
***
エアロンとグウィードは孤児だ。戦火に両親を奪われたのだろう。二人とも親の顔は知らなかった。片や孤児院で大家族のように育てられ、片や路上でその日暮らしをして生きてきた。エアロンが過去を語りたがらないため、よく二人の境遇は逆だと勘違いされる。路上生活をしていたのはエアロンの方だ。
わけもわからぬまま連れてこられたアパートの一室で、初めて二人が顔を合わせた時のことを。あの時のエアロンの冷たく敵意に満ちた眼差しを、グウィードは今でもよく覚えている。
『――今日から二人は家族であり、相棒だ。いつも互いを助け合い、支え合い、お互いを守り通すんだ。何があっても心が離れてはいけないよ――』
彼らに居場所をくれた女神様は、そう言って二人を引き合わせた。
なんて綺麗なウルフアイ、と女神様が褒めてくれた琥珀色の瞳も、新しい相棒には一蹴されてしまった。
「犬みたいだ」
そうエアロンが言ったその日から、グウィードは彼の犬になった。
考えるのはいつもエアロンの役目。実行するのはグウィードだ。
周りがどう思おうと、グウィードはその役割分担に満足している。互いに得意なことを任せているだけなのだ。それでいつでも上手くいっていた。
だが、その結果がこれだ。
考えることを相棒任せにしすぎていた。本来回避しなければならないイレギュラーが現実になってしまった際、グウィードはあまりにも狼狽えてしまう。その弱点は前々からエアロンにも指摘を受けていた。
「ダメだダメだ。今は俺が自分で考えないと……」
エアロンならどうするだろう?
救出を実行するならローマへの移送時だ。それは昨晩に
一か八かで陽動を仕掛けてみるか? 状況を察したエアロンがタイミングを合わせて脱出を図ってくれるかもしれない。しかし、彼が捕まったことで警備が厚くなってしまった可能性は十分にある。
とにかくもう一度情報を集めようと修道院に向かい掛けたグウィードは、そこではたと足を止める。恐れていたことが現実になったらしい。外壁を巡回する近衛兵の数が増えている。
グウィードは慌てて踵を返し、人込みに紛れるため街の中心街へ向かった。沈んだ彼の心境とは反対に、街は活気に満ちている。正午に控えた神官の公開奇蹟のため、民衆の興奮は最高潮に達しており、土産物通りやクリスマス市は真っ直ぐ歩くこともままならない。
何となく居心地の悪さを感じて裏路地に逃げた。観光客の多さに辟易した住民が警戒心も露わに彼を睨んでいる。グウィードは目を合わさないよう足早に通り過ぎた。
ところが、残念なことに。地元の警官が彼を見ていた。黒尽くめの人相の悪い男が辺りを警戒しながら広場の様子を窺っている――その姿は誰がどう見ても『不審者』であった。
二人組の警官が彼を追う。グウィードはさり気なく歩みを速めた。
背後に気を配りながら角を曲がったその時、彼は何か柔らかいものと衝突してしまった。
「うわっ」
「きゃっ」
相手は厚い胸板に押し返されてよろめいた。グウィードは咄嗟に相手の腕を掴み、引き寄せるように転倒から相手を救った。
「悪い、大丈夫か?」
「えっ、ええ」
焦りの滲んだ吐息交じりの声。相手の女性は前髪を手で押さえながら周囲を見回している。その仕草は明らかに彼に顔を見られたくないようで、グウィードは怪訝そうに彼女を眺めた。彼女が纏う緑の制服、そしてウェーブのかかった淡い金髪には見覚えがある。
グウィードは彼女が嫌がるのを承知で、その鼻筋の通った美しい顔立ちを覗き込んだ。グレーの瞳と目が合って。両者はお互い驚愕の声を上げる。
「ヴィズ!」
「グウィード?」
茨野商会の運転手、ヴィスベットは驚いて彼を見上げていたが、まだ腕を掴まれていることに気が付いて、睨むように目を細めた。
「放してください」
「あ、悪い」
ヴィズは大きく一歩退いた。グウィードは彼女が落とした帽子を拾ってやった。
「なんでお前がここにいるんだ?」
「
「エアロンは……ここじゃちょっとまずい。場所を移そう」
グウィードは視線を背後に巡らせた。追手の警官は立ち止まってこちらを見ているが、これ以上追ってくる気はなさそうだ。不審な態度も人探しのためだったと、勝手に解釈してくれたのかもしれない。
ヴィズはこくんと頷いて、グウィードの後に従った。
黒尽くめの男と緑制服の女は若干の距離を置いて歩きながら、近くに店を構えるトラットリアに入った。この寒さでも観光客たちはコートを着込んでテラスに陣取り、サンドーベの古い街並みを楽しんでいる。逆に店内には東洋人らしい観光客がちらほらいるだけだ。二人は不愛想なウェイターに案内されて厨房から一番遠い席に着いた。
落ち着いた手焼きの食器が飾られた内装は、素朴な温かみがあって小洒落ている。まさか誰もこんなところで脱獄手配の計画を練ろうとしているとは思うまい。グウィードは落ち着かなげに身を揺らし、ウェイターに二人前の軽食を注文した。
「それで、何かあったのですか」
睫毛の隙間から鋭い眼差しで貫いて、ヴィズがグウィードに問い詰める。彼は少しずつ事の次第を話し始めた。
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