3-9 罪の象徴
神官セメイルは簡素なベッドに身を横たえている。瞼はきつく閉じられ、滑らかな額にはじっとりと汗が滲む。疲れ切った体には就寝用の薄い僧衣ですら重く感じた。
窓から夜気が忍び込む。素足から僧衣を伝って裸体を撫で、骨の髄から冷えさせた。ひんやりとしたシーツから体温が逃げて行くのを感じても、セメイルは目を開けることができなかった。
極寒の責苦さえ、今の自分には愛おしい。
――この腕の痛みを忘れさせてくれるから。
「セメイル? 入るぞ」
セメイルは重い瞼を持ち上げた。ワイシャツ姿のスベルディス隊長が扉を背に立っていた。片手には食器とピルケースの乗った盆を持ち、反対の手でポットを持っている。黒い瞳は相変わらず厳しいものの、どこか幼さの残る顔には心配そうな表情が浮かんでいた。
「ああ、タウォード」
応答を入室の合図と受け取り、タウォード・スベルディスが扉を閉める。彼が卓上に身を屈めると、タスキのような灰色の長髪が流れ落ちた。
「この部屋、寒くないか?」
「そうですか? ああ、待ってください……今起きますから」
セメイルは上体を起こそうと手をついた――が、両腕に力は入らず、鋭い痛みと共にベッドに倒れ込む。その衝撃で頭痛が彼を襲い、セメイルは頭を抱えて蹲った。
「……ううっ」
「セメイル!」
タウォードは抱き抱えるようにしてセメイルを起こしてやった。冷えた体を毛布で包む。震える指を灰色の毛先に絡め、赤い瞳が拗ねたように彼を見た。
「大丈夫です、起きれますよ。ちょっと慌ててしまっただけです」
「いいから黙って寝ておけ。鎮痛剤、持ってきてやったぞ。飲め」
「……ありがとうございます」
白い錠剤を三粒、セメイルの手に乗せた。頭部に手を添え、コップを唇に宛がうタウォードの介助も慣れたものだ。
タウォード・スベルディスは神官セメイルの護衛であり、友である。俗世と隔絶された神官にとっては『唯一の』と言ってもよかった。セメイルが列聖されて以来、最も長い時間を共に過ごしてきた間柄だ。自分を『神の使い』ではなくただ一人の人間として扱ってくれる彼の存在が、いつの間にかセメイルの心の支えになっていた。
薬はすぐには効かない。セメイルは痩せた体を横たえて、弱弱しく友を見上げた。
「タウォード、先ほどの女性は処理していただけましたか?」
「ああ。いつも通りだ。何も問題はない」
「そうですか。いつも通りに――」
「――セメイル」
タウォードが振り返る。黒く冷たい眼差しが僅かに和らぎ、彼は心配そうにセメイルの顔を覗き込んだ。
「いいか、ああいうときは自分で対処しようとせず、すぐに俺たちを呼ぶんだ。わかったか?」
「……はい」
「無茶はするな。鎮痛剤じゃ済まなくなるぞ」
タウォードは薬湯を用意しながら説教を続けた。
「そもそも独りであんなところに行くべきじゃなかった。俺だってセメイルに息苦しい思いをさせたくはないけどな、今後もこういうことが増えるようなら、四六時中ガードを付けることも考えなくちゃならん。それから、〈浄化〉を使わないで済むよう、お前にも武器の携帯を――」
「タウォード」
友人の言葉を遮るように、今度はセメイルが名前を呼んだ。その声の震えは寒さからくるものか。それとも恐怖か、罪悪感か。弱さの中に確固たる意志を持って、セメイルは口を開いた。
「違うんです、タウォード。命の危機を感じたわけはないのです。捕えようとしたわけでも。私はただ――」
取り除いてあげたかった。
一人の女の苦しみを。罪に走らせるような悲しみを。
彼はただ、忘れさせてあげたかったのだ。
神官が犯した罪は償いようがなく、罪を重ねることでしか癒せない。
薄い唇から長く吐息が漏れ出した。天井を見上げる瞳は感情を失い、鈍く虚ろな光を映し出す。脳裏にちらつく女の『残骸』が彼を見返していた。声なき視線が無言のまま彼を責め。
タウォードはスッと目を細めた。
「……何を考えてる?」
「私……私は……」
セメイルの口からぽつり、ぽつりと想いが漏れる。
「私は、いつまでこんなことを続けるのでしょうか?」
「セメイル」
「以前より反動が大きくなっているんです。頭痛だけじゃない、右腕の壊死も進んでいます。力を使えば使うほど、私の受けるダメージも大きくなっていく……やはり人が人を裁くということは、それほどまでに罪深い事なのでしょう」
手袋を外し、右手を掲げる。薄紫からより醜い色へと変色を始めた右腕は、彼が身に纏う白さとは対照的で。これは隠し持った秘密の黒さだと、彼は思った。
これこそ自分の罪を何よりも象徴しているもの。
終わりは近い。
どくどくと脈打つ血管が、砂時計のように落ち行く寿命を謳う。
「セメイル!」
鋭い呼び声が鼓膜を揺さぶった。
濁った瞳で感傷から戻った神官は、近衛隊長に胸倉を掴まれ腰を浮かせていた。顔に掛る灰色の髪が二人を外界から切り離し、セメイルはただ無言で相手の瞳孔を覗き込む。タウォードは噛み付かんばかりの勢いで、一言ずつねじ込むように、言った。
「そんな弱音を吐いてどうするんだ? 今更になって怖気付いたか? お前の使命は教会に尽くすことだ。使命を果たせ。思考は捨てろ――他に道は無いんだ」
「いいえ、私は……」
唇が躊躇いがちに開き、何も言えないまま閉じた。声を落としてタウォードが言う。
「――俺たちには守るべきものがいるだろ」
「……はい」
そうだ。
彼は正しい。
「すみませんでした」
使命を果たせ。
私に、神官に、与えられた使命を。
神官セメイルはロザリオを握り締め――変色した右腕の醜さから、目を背けた。
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