3-7 神官セメイルの奇蹟
グウィードが
修道院の入り口は複数あるが、正面には見張りが立っていて、その他は鍵が掛けられていた。仮に鍵を抉じ開けたとしても、内部では当然見張りが巡回しているだろう。高位聖職者が滞在しているだけあって警備は厚い。その上、修道院の堅牢な造りが障壁となり、救出は困難を極めている。
エアロンが外壁を見ながら考えを巡らせていると、何者かの声が耳に届いた。声の主に気付かれないように近付いて行く。視認できた人影は二つ――一人は黒い髪の女性のようで、もう一人は――なんと神官セメイル、その人だった。
「殺してやる……! 覚悟しなさい!」
女が叫ぶ。それに対する神官の返事は聞き取れない。エアロンは茂みの中に身を隠して耳を澄ませた。そこで彼は気付く。女が手に握り締めているのは大振りのナイフだ。
「相当の覚悟をされていらしたんですね。どうか、殺される前に理由をお聞かせください」
セメイルの声は静かで、決して動揺した様子はない。女は威嚇するようにナイフを振り上げた。
「とぼけようって言うの? 冗談じゃないわ。あんたが彼にしたこと、忘れたとは言わせない……!返して。カルロを返して!」
神官の美麗な顔が悲しげに歪む。合点がいったのか、彼は頭を垂れて女を見た。
「ああ、そういうことですか……そのカルロという方は、あなたの御家族でしょうか? 御友人ですか?」
「『カルロという方』ですって? 何よ、その言い方は。彼のことを忘れたって言うの?」
女の頬を涙が伝い、ナイフを握る手に滴り落ちる。その手は震えていた。
「カルロ・バジーリはあたしの恋人よ――婚約者だった! それを、それを……あんたが彼を壊したの! あんたが! 彼を返してよ!」
神官セメイルは目を伏せた。
「それは……申し訳ないことをしました」
「『申し訳ない』で済ませると思ってるの? ねえ、教えてよ。どうしてカルロがあんな風にされなければならなかったの? たかが、ほんのちょっとの窃盗罪で、どうして……っ」
セメイルは答えない。
その沈黙が、女の怒りに拍車をかけた。
「殺してやる。あんたなんか殺してやるわ」
「おやめなさい」
「あたしは本気よ! 何が神の使いよ、このっ、悪魔めぇ!」
女はナイフを手に突進した。ところが、神官は物腰に似合わず軽々と身を躱す。女の腕と肩を押さえ付けてナイフを落とさせ、あっさりと身柄を確保した。
「……残念です」
ぽつりと呟いた神官の声は悲哀に満ちていた。
「あなたがその気なら、私は身を守らなければなりません。私もまだ死ぬわけにはいかないのです」
神官はグローブをはめた手で女の頭を掴んだ。もう片手で喉首を押さえ、目を剥く女に上を向かせる。女の声は恐怖に震え、手は必死で神官の腕を掻き毟るが、その拘束が緩むことはなかった。
「ぃ……いや……っ、やめっ……やめてぇぇぇぇぇぇ!」
赤い宝石が煌めく。
一瞬、何かが空中を駆け抜けたように感じた。
闇に響く女の断末魔がぱたりと途絶える。抵抗する腕がだらりと垂れ、見開いた瞳は焦点が合っていない。開いた口から唾液が筋になって垂れていた。神官が手を離すと地面に崩れ、彼女の体は遠目からもわかるほど激しい痙攣を続けた。
「……すまないことを……しました」
やがて痙攣が止まり、女は背中を丸めて蹲った。神官セメイルは深い溜息を吐いた。
「……さて」
深紅の瞳が木々を貫く。
「まずいところを見られてしまいましたね。どなたですか?」
神官が真っ直ぐにこちらを見る。
エアロンは無言のまま茂みから姿を現した。右手は太腿のホルスターに添えられ、鉛色の双眸で油断なく神官を睨んでいる。対する神官も、端正な顔に多少の驚きを宿して彼を観察し返していた。闇夜より僅かに明るい髪へ滑るように視線を走らせ、拳銃にしばらく注視したのち、再び目を合わせた。
そこで交わされた値踏みの視線。相手の能力を推し計ろうとするその視線は、神官セメイルがただの聖職者ではないことを物語っていた。
神官はスッと目を細めた。
「当ててみせましょうか。あなたは、イングリス神父のお仲間ではありませんか? この修道院から彼を助け出すために探りに来た。そうでしょう?」
「たまたま遊びに来ていたただの知人ですよ。仲間と言って『共犯者』にされるのも不本意ですから。ここにいたのも修道院を見物に来た、それだけです」
エアロンは引き攣るように口角を上げて答えた。
「そんなに警戒なさらなくても。ここでお会いしたのも主の思し召しでしょう。お名前をお聞かせ願えませんか?」
「名乗るほどの者じゃありませんよ。しがない中小企業の管理職です」
「それが『どんな会社なのか』をお訊ねしたいところです。でも、きっとあなたはお答えにならないのでしょう」
神官はすべてを見透かしたような、どこか楽しんでいるような笑みを浮かべる。エアロンは挑戦的に睨み返した。
「あなた方のことは後程――
「それはあなたも同じでしょう、神官様」
エアロンが鼻で嘲笑う。神官の右手がピクリと震えた。
「どういう意味でしょうか?」
神官セメイルは穏やかに問う。握り直した純白のグローブが威圧的に存在を主張していた。その脅しに屈することなく、エアロンもまた口元に不敵な笑みを浮かべ、銃のグリップを握った。
「それが〈浄化〉というやつですか? 奇蹟なんてこの目で見たのは初めてですが、随分と恐ろしい能力だ。それが『神の力』だなんて、ね」
「……嗚呼」
赤い唇を湿らせ、セメイルは一瞬言葉を詰まらせた。エアロンの言葉に秘められた嘲笑に気付き、ゆっくりと悲しげに、笑う。
「あなたは大変察しのいい方だとお見受けします。そして恐らく、奇蹟なんて非科学的なものは信じておられない」
答える神官の顔からは先ほどの悲しみが消えていた。事務的な口調で淡々と述べる。
「あなたが今見たもの、そしてあなたが考えているそれこそ、〈浄化〉の真実ですよ」
夜風に白髪が靡いた。木々が聞いてはならないと枝葉を揺らす。
ここから先は禁忌なのだ。本能的に感じ取って尚、エアロンは耳を塞ぐことができなかった。
「あなたは今、ロボトミー手術というものを思い浮かべているのではありませんか? 前頭葉を切除し、感情や思考、判断力、挙句の果てには人格まで失わせるという恐ろしい手術――ご想像の通り、私が行う〈浄化〉はそれとほぼ同じと言っていいでしょう。このグローブは――」
セメイルが真っ直ぐ右手を差し上げる。見事な刺繍の隙間から機械的な赤い光が煌めいた。
「――私の意識と連動し、特殊な衝撃波を放ちます。この力を使えばどんな残忍な殺人鬼でも大人しくなるのですよ」
「つまりそれは――」
「人間としての自我を破壊する、死よりも惨い処刑法です」
話し終わった神官の顔はすっかり蒼ざめていた。しかし、その表情は晴れ晴れとしているようにすら見える。まるで、長い間溜め込んでいたものから解放されたかのような。彼はエアロンからの侮蔑と憎悪の眼差しさえ穏やかに受け取った。
「それが『奇蹟』だって? そんな人の道を外れたことが?」
「奇蹟とは神の御業です。人の道にそぐわないのは当然でしょう?」
擦れた声で答える神官が、あまりに美しい笑みを浮かべるので。
その物悲しくも触れがたい微笑を見ているうちに、様々な思考が浮かんでは消えた。無言で対峙する二人の間では、壊れた女の残骸が、虚ろにその事実を主張し続けている。
胸中を掻き混ぜ、喉から這い上がるその思いが『嫌悪』だと気付いたとき、エアロンは銃を抜いた。
「……これが教会の本性か。神様ってのは随分と性根が腐っているんだね」
漆黒の銃口に向き合う赤。
神官は睫毛を伏せ、静かに言葉を返した。
「おっしゃる通りですね。ですが、『言葉』だけでは人間は救われないのです」
「いたぞ!」
懐中電灯が二人を照らす。
唐突な閃光に目を焼かれる。エアロンは咄嗟に踵を返すも、逃げようとしたその手をグローブが掴む。振り返ると深紅の瞳と目が合った。
「逃がしませんよ。あなたにも地獄へ参りましょう」
駆け付けたスイス・ガーズが間合いを詰める。
エアロンは銃口を神官の額に向けた。が、神官は怯まず腕を突き出してきた。眼前に迫るグローブの白い手の平がむしろエアロンを怯ませる。瞬間的に脳裏に過る女の末路。
重たいブーツが泥を踏み締め、身を捩ったエアロンの右腕を捕らえた。次々に掴み掛る無数の腕。エアロンを後ろ手に捻り上げ、取り落としたハンドガンを踏んで泥に埋める。頭部に鈍い一撃を喰らい、彼は地面に倒れ込んだ。すかさず衛兵が取り押さえる。
「目標確保!」
衛兵の一人が叫ぶ。
腕章を付けた近衛隊長が、銃を抜いたままセメイルに駆け寄った。
「セメイル様、ご無事ですか」
「お勤めご苦労様です、スベルディス隊長。私は何ともありません。ありがとうございます」
「よかった。よし、そいつを地下牢へ連行しろ。残りの者はこの辺りの捜索だ。他に仲間がいるかもしれないから警戒を怠るな。俺は神官様の護衛にあたる」
「はっ」
タウォード・スベルディスが部下に指示を出す。
衛兵がエアロンの背に馬乗りになり、両腕を背面で拘束した。そのまま膝で抑え付けながら、隠し持った武器がないかチェックする。エアロンは湿った地面の凹凸を頬に感じながら、憎悪の眼差しで神官と近衛隊長を見上げた。
「僕を離せ、偽善者共……!」
「会社員さん、あなたはヴァチカン教会の聖人に銃を向けました。迂闊でしたね。殺人未遂罪になるか、恐喝罪になるかはわかりませんが、現行犯で逮捕とさせていただきます」
「いい気味だな、犯罪者」
隊長が膝をつく。エアロンの髪を鷲掴みにすると、冷たい地面にぐりぐりと押し当てた。凍りかけた地面が頬を傷付け、口内に泥の味が広がった。屈辱に顔を歪ませるエアロンをスベルディスが嘲笑う。
「くそっ。覚えとけよ。僕を怒らせたらどうなるか思い知らせてやる。絶対に同じ目に遭わせてやるからな」
「負け犬の台詞か? ご苦労だな。よし、さっさと連れて行け。これ以上この薄汚い面を神官様の目に触れさせるな」
衛兵二人がエアロンを乱暴に引っ立てる。抵抗虚しく、彼は修道院の冷たい石の腹の中へ喰われていった。
後に残された神官と隊長は立ち尽くしたまま暗がりへ目を向け、夜気に身を震わせた。セメイルが静かに口を開く。
「後はお任せしてもよろしいでしょうか?」
「ああ。お前はどうする?」
「私は……私は、少し疲れました。部屋に下がります」
「わかった。付き添おうか?」
「いえ、結構です。一人で大丈夫ですから……代わりにあなたはこちらの女性をお願いします」
神官は足元の女から顔を背けたまま言った。近衛隊長が頷く。
立ち去りかけたセメイルは、ふと石壁を見上げて足を止め、スベルディスを振り返った。
「先ほどの青年……偽イングリス神父のご友人だそうですが。よかったら私に尋問させていただけませんか?」
「……構わないが、大丈夫か?」
「はい。明日の午後にでも」
神官セメイルが修道院へ入る。
タウォード・スベルディス近衛隊長は〈浄化〉された女の残骸に向き直り、その首を絞めた。
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