3-6 地下牢の囚人
漆黒の男が夕闇を駆ける。身のこなしは軽く、彼はまさに影だった。森の中を滑るように移動して、茨野商会のグウィードは修道院の外壁を乗り越えた。
朽ちかけた天使像が侵入者を見下ろしている。回廊に点在する朧げな灯りのもと、階段の前に立つヴァチカン近衛兵の姿が見えた。きっとあの上に神官セメイルが泊っている部屋があるのだろう。
グウィードは柱の陰に身を潜めると、ポケットから折り畳まれたパンフレットを取り出した。観光案内所からくすねてきた小冊子だが、簡単な見取り図が役に立つ。修道院は正面入り口からすぐ左手に礼拝堂を構え、右手には宿坊を兼ねた回廊があった。回廊の地下には今は使われなくなった広い空間があるらしく、かつてワインセラーとして使われていた中世の遺構が見られるそうだ。当然、一般開放はしていない。
不自然に立ち尽くす聖人像の横、鉄格子が嵌められた古い木製扉の前でグウィードは立ち止まった。腰に下げた道具入れから細いかぎ針と油差しを取り出す。慣れた手付きで錠前を開け、錆びた蝶番に油を差せば、地下空間への入口は音もなく開いた。噎せ返るような土と埃の臭いだ。再び扉を元のように閉ざし、狭い螺旋階段を下りた。
廊下の先に近衛兵がいる。グウィードは細心の注意を払って兵士に近付いた。筋骨たくましい肉体が影に溶け、一瞬でその距離を零にする。気配に気付いて兵士が振り返った時には、首筋に鋭い一撃を食らい意識を失っていた。
「……
辺りに人がいないことを確認しながらグウィードは囁いた。地下には真っ直ぐ道が伸びており、暗闇の中にぽつんと一つ燭台が灯されていた。その明かりを目指して慎重に足を進めながら、もう二度ほどその名を呼ぶと、燭台の傍から返事がある。
「……グウィード?」
暗がりから男が駆け寄って来る。が、二人は鉄格子で阻まれた。ここはワインセラーなどではなく、地下牢なのだ。間近で見る好好の顔は涙と埃で汚れており、柔和な顔には焦燥感が表れていた。
「グウィード! よかった、あなたなら来てくれると思ってましたよ!」
「しーっ、静かに。とりあえずお前の様子を見に来たんだ。大丈夫か?」
「大丈夫じゃないですよ! 明後日の午後、神官たちと一緒にヴァチカンに連れていかれるんです。きっと拷問されるに決まってます! どうか助けてください、グウィード!」
「拷問って……なんで教会がそんなことするんだよ」
「やっぱりバレてたんですよ。私が探ってた子供の行方不明事件、ありましたよね? あの人たち、私をあの事件の犯人に仕立て上げるつもりなんです!」
グウィードは要領を得ない。
「はあ」
「はあって……んもうっ、バカ! わかりませんか? 教会はあれが事件だって知っているんです。つまり、あの事件の裏にはヴァチカン教会がいるんですよ!」
グウィードは鉄格子の隙間から手を入れて
「むぎゅ」
「いいから静かにしろ。気付かれるぞ」
好好は忙しなく辺りの様子を窺っているものの、グウィードに諭されて少しは落ち着きを取り戻したようだった。カソックは煤け、金髪の束は乱れているが、特に怪我を負わされたりはしていないらしい。グウィードはほっと溜息を吐くと、隙間から黒い機械を差し入れた。
「なんです、これ?」
「通信機」
好好は絶望的な顔をした。
「まさか、置いて行くつもりですか!」
「今連れ出してもお前じゃ外壁を乗り越えられないだろ。だから作戦を練って、改めて迎えに来る。これは通信用だ。こっちから連絡はしないから、お前が見張りに気付かれなさそうなタイミングで掛けてこい。いいか?」
「うう……わかりました」
好好は通信機がきちんと機能することを確かめると、見付からないようカソックの下に隠し持った。改めて友人の姿を瞳で見据え、念を押すように声を低く囁く。
「必ず助けてくださいね? いいですか、これは依頼ですよ。クライアントとして茨野商会のあなたに依頼します。私をここから助け出してください!」
「わかってるって。心配すんな。今頃副主任様が素晴らしい救出作戦を考えてくれてるさ。それじゃ、俺はもう行くぞ。なんかあったらすぐに連絡しろよ? 待ってるからな」
「はい。ありがとうございます」
好好の白い指が名残惜しげに鉄格子を掴む。グウィードは安心させるよう頷いた。
踵を返して牢屋を後にする。途中、真新しい蝶番に付け替えられた扉から、しゃがれた声が呼び止める。格子の間から亡者のような腕が突き出して空を掻いた。
「……待ってくれ!」
グウィードは警戒しながら扉に近付いた。
「誰かそこにいるのか?」
「あぁ……! 兄ちゃん、あんた、あっちの奴を助け出すんか」
黄ばんだ白目にぽっかり浮かぶ黒い瞳孔。その声に混ざる息遣いは随分と苦しそうに聞こえる。グウィードは眉間に皺を寄せて暗闇に答えた。
「ああ。あんた、誰だ? あんたも捕まったのか?」
「そうだ……助けてくれ。オレも連れ出してくれ! 頼むよ、オレを助けてくれぇ……!」
男の訴えは語尾まで声にならず、荒い吐息となって擦れて消えた。揺れる瞳孔は恐怖を宿し、格子を揺さぶって悲痛な叫びを上げている。その様子に只ならぬものを感じ、グウィードは牢屋に近付いた。
「頼むから静かにしてくれ。なあ、状況がわからないんだ。あんたは誰なんだ? どうして捕まった? それに……何をそんなに怯えているんだ?」
黒い瞳が収縮する。囚人は格子越しにグウィードの服を掴んだ。
「オレ、オレぁマッシモ。マッシモ・ベントラムってんだ。頼む、頼むよ、時間がないんだ。オレを一緒に連れてってくれ、今すぐに! 時間がないんだ! オレ、明日の正午に、奴、し、神官に! 神官に殺されるんだ。オレはまだ死にたくない! 死にたくねぇんだよぉ……!」
「神官に?」
グウィードはハッとした。
「あんたか! 明日広場で〈浄化〉されるっていうのは」
途端に男の目から涙がボロボロと零れ出した。
「嫌だ、嫌だぁ…… 頼むよぉ……なんでもするから、助けてくれたら、オレなんでもするよ! 金だったらいくらでも払う! だからオレを助けてくれえぇぇ……っ!」
「わかった、わかったから。静かにしろ、マッシモ! 教会の人間に気付かれる!」
名前を呼ばれたことで囚人は僅かに理性を取り戻した。それでも落ち着かなげに体を揺らしている。グウィードは眉を潜め、黒髪の間から相手の男を凝視した。
「あんた、神官に『殺される』って言ったな。それ、どういう意味だ? 〈浄化〉って奇蹟なんだろ?それがいったい――」
「あれが、奇蹟、だって? ちげぇよ、あれはそんなもんじゃねえ! オレぁ知ってしまったんだ。あれは、あの能力は……」
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